第二百八十六話 篭絡
天正九年一月五日。
安土での軍議を終え、秀政は伊勢・鈴鹿城下へ戻ってきた。
冬の冷気がまだ残る城門前には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
お悠、長政、元服したばかりの秀文、明、そして鷺山。
秀政が軍議から戻るたび、その表情から「今年の任務の難易度」を推し量るのが、もはや家中の恒例となっていた。
秀政が馬を降りると、お悠が一歩進み出て、柔らかく問いかけた。
「今年の任務は如何でしたか?」
長政も眉を寄せる。
「複雑なお顔ですが……何か難題を申し付けられましたか?」
秀政は少し肩を回し、息を整えた。
「いや、予想通りと言えば予想通りだ。
武田攻めだ。徳川領を通って南から信濃を攻める」
鷺山がすぐに反応した。
「それは良いですね。
東方軍副将になるとはいえ、中将様とは別口からの攻めとなれば、比較的自由な采配を行えましょう」
秀政は頷いた。
「うむ」
その時、秀文が首を傾げた。
「それでは、なぜそのように怪訝なお顔なのでしょうか?」
秀政は少しだけ視線を逸らし、息子へ向き直った。
「ん?秀文……お前に関わることだ」
「私に、ですか?」
秀政は短く息を吸い、言った。
「お前の縁談を――殿より持ちかけられた」
秀文はぽかんと口を開けた。
「へ?」
お悠が慌てて声を上げる。
「え?秀文は元服したばかりで、まだ十二ですよ?」
秀政は苦笑した。
「そうだな。
殿も芋粥家に期待してくださっているということかもしれんが……」
秀文は喉を鳴らし、恐る恐る尋ねた。
「あの……お相手はどなたなのでしょうか?」
その瞬間、秀政の眉間に深い皺が寄った。
「……三介信雄様の、燈姫様だ」
お悠が息を呑む。
「さ、三介様?
まだお若かったと思いますが……燈姫様はお幾つであそばされますか?」
秀政は肩を落とし、答えた。
「澪と同い年じゃ。まだ四つだ。
まぁ、今の段階では婚約という訳だな」
さすがの明も目を丸くした。
「澪と同じですか……」
秀文は明と同じく目を丸くした後、小さく呟いた。
「はぁ……実感が湧きませぬ……」
秀政は天を仰ぎ、ぼそりと呟いた。
「うむ……これからどうなることやら……」
*
秀政たちは縁談の話をしながら、鈴鹿館へと進んだ。
鈴鹿館の奥の間に入ると、秀政が上座に座り、お悠、長政、秀文、明、鷺山が下座に控えた。
秀政は軽く咳払いし、場を整える。
「さて、一旦、燈姫のことは置いておこう。
武田攻めについて話をするか」
長政が即座に前へ出た。
「本願寺攻めと同様に、六千の鬼兵を進め、三千の常備兵は伊勢を守らせまする。
よろしいでしょうか?」
秀政は頷いた。
「それでよい。……秀文」
「は!」
「お前には留守を任せる。
お悠や澪を頼むぞ」
秀文は胸を張った。
「はい!」
秀政はさらに続ける。
「浅野、坂木、上田と共に、残していく三千の常備兵を早く鍛え上げろ」
「お任せください」
秀政は皆を見渡し、声を引き締めた。
「出陣は二月二十日とする。
それまで、各々準備を急げ」
「は!」
その時、近侍が慌てた様子で駆け込んできた。
「と、殿!」
秀政は眉を上げた。
「ん?いかがした?」
近侍は息を切らしながら叫んだ。
「さ、三介様がお見えです!」
「は?」
その直後――
廊下の向こうから、元気な足音が響いてきた。
近侍の「お待ちくだされ!」という声と共に、
奥の間へ三介信雄が顔を出した。
「秀政殿、取り込み中に済まなかったな!」
秀政は思わず立ち上がる。
「さ、三介様……!」
秀政は慌てて上座を譲り、下座へ移った。
すると三介の後ろから、小さな女の子が手を引かれて現れた。
秀政は目を丸くした。
「え?」
三介は得意げに胸を張った。
「この子が燈じゃ。ほれ、燈」
燈は小さな体でぺこりと頭を下げた。
「おはつにおめめにかかりましゅ。
あかりにございましゅ。」
その瞬間、奥の間の空気がふわりと和んだ。
秀政は思わず微笑む。
「秀政にございます、燈様」
三介は満足げに頷いた。
「良く出来たな、燈」
三介が上座に座ると、燈は当然のように胡坐をかいた三介の膝の上にちょこんと座った。
「まだまだ甘えん坊でな」
秀政は苦笑した。
「いえいえ、うちの澪も変わりませぬ。
可愛い盛りですな」
三介は大きく頷いた。
「うむ。――今日より燈が世話になるぞ」
秀政は固まった。
「は?今日?」
三介は当然のように言い放つ。
「どうせなら早いうちに芋粥家の作法に慣れた方がよい。
まだ夫婦になるには早いが、芋粥家に預ける。
秀文殿に相応しい女子に育ててはくれまいか?」
秀政は完全に面食らった。
「いや、さすがに……」
三介は燈の頭を撫でながら言う。
「燈、良いな?」
燈は満面の笑みで答えた。
「あい!」
秀政は心の中で叫んだ。
(くぅー……こいつはこういう奴だった。
妙に行動力だけはあるんだった……)
燈は三介の膝から立ち上がると、よたよたと歩きながら、お悠、明、秀文の傍へ行き、にこっと笑った。
三人は同時に声を上げた。
「「「可愛い!!」」」
秀政は天を仰いだ。
(もう三人とも篭絡されおったか……)
三介はお悠の方へ向き直り、深々と頭を下げた。
「奥方殿、燈をお頼み申します」
突然の直球に、お悠は思わず背筋を伸ばした。
「あっ、はい!」
三介は満面の笑みで続けた。
「この芋粥家は、才女たる奥方殿によって成り立っているとも聞き申した。
燈をお任せするなら、早い方が良いと思ってな。
是非、秀文殿の隣に立っても恥じぬ姫に育てていただきたい」
お悠は戸惑いながらも、胸に手を当てた。
「わ、私でよろしいのでしょうか?」
秀政は慌てて口を挟む。
「いやいや、この歳で親から引き剥がされるのは気の毒です。
考えなおされて、あと五年は可愛がって差し上げては?」
しかし三介は首を横に振った。
「いやいや、燈も気に入ったようじゃ」
燈は元気よく手を挙げた。
「あい!」
そして、すぐ近くにいた澪を見つけると、嬉しそうによたよたと歩み寄った。
「あそぼ!」
澪も嬉しそうに燈へ駆け寄り、二人はすぐにきゃっきゃと遊び始める。
その姿を見て、お悠と明は目を細めた。
秀政はその光景を見ながら、心の中で呟いた。
(……三介の図々しさと人たらしを、しっかり受け継いでおるな)
三介は腕を組み、満足げに言った。
「我が家では遊び相手がおらんでな、不憫だったのだ。
それに、いずれ秀文殿の嫁になるのであれば、幼い頃から芋粥家で育った方が燈も幸せであろう。
秀政殿、奥方殿、頼まれてはもらえぬか?」
お悠は燈と澪の楽しそうな姿を見つめながら、そっと秀政へ視線を向けた。
「弥八様……お預かりいたしましょう。
秀文も妹がもう一人できたようなものでございましょう。
幼い頃から仲良くなっておくのも良いかもしれませぬ」
秀政は天を仰いだ。
(完全に篭絡されたな……)
秀政は観念し、静かに頷いた。
「分かった。……お悠に任せる。」
「はい!」
三介は立ち上がり、手を叩いた。
「あーよかったよかった。なら、俺はここで帰らせてもらうぞ!」
秀政はその背中を見送りながら、深い溜息をついた。
(……そうだった。
三介は昔からこういう奴だった。
人の話を聞かず、勝手に決めて、勝手に満足して帰っていく……)
燈の笑い声が奥の間に響き、鈴鹿館はいつもより少しだけ賑やかになった。




