第二百八十四話 松丸元服
十二月二十五日、伊勢・鈴鹿館。
冬の冷気が張り詰める朝。
鈴鹿館の中庭には、松丸の元服のために簡素ながらも厳かな式場が整えられていた。
白砂が敷かれ、几帳が立てられ、中央には松丸が正座している。
元服の儀を取り仕切るのは父・秀政。
そして烏帽子親は、松丸たっての願いにより、長政が務めることとなった。
そして式場から中庭を挟んだ向かいの縁側には、政成が座していた。
労咳ゆえ皆とは距離を置いているが、病で歩けぬ身を薬師に支えられ、松丸の晴れ姿を見るために縁側まで出てきたのだ。
秀政は政成の姿を認め、静かに頭を下げた。
「義父殿……よく来てくださった」
政成は弱々しくも笑みを浮かべた。
「殿……この日を、どれほど待ち望んだことか」
松丸は深く礼をした。
「祖父上……どうか、見届けてくださいませ」
政成は震える手で欄干を握りしめた。
「もちろんにございますとも……松丸様」
冬の光が庭に差し込み、式が始まった。
秀政が進み出て、松丸の前に座した。
松丸は背筋を伸ばし、父を見つめる。
秀政は烏帽子に一度、目をやり、静かに言った。
「松丸――いや、今日よりは弥次郎。
芋粥家の嫡男として、己を律し、家を支え、民を守れ」
松丸は力強く頷いた。
「はい、父上!」
長政は烏帽子を手に取り、松丸の頭へそっと載せた。
その瞬間、縁側の政成が小さく息を呑んだ。
長政は慎重に烏帽子の緒を結びながら、静かに言葉をかけた。
「松丸……いや、弥次郎。
これよりは一人の武士として、我らと共に芋粥家を支えるのだ。
どうか、強く、賢くあられよ」
松丸は真剣な眼差しで答えた。
「万兄……必ずや!」
長政は結び終えると、深く礼をした。
秀政が再び前へ出て、松丸へ名乗りを授ける。
「今日より――
芋粥弥次郎秀文と名乗れ」
松丸はその名を胸に刻むように、ゆっくりと復唱した。
「芋粥弥次郎秀文……
ありがたく頂戴いたします!」
政成は縁側で震える声を上げた。
「秀文様……秀文様……!
立派なお名でございます……!」
その声は、冬の空気に溶けるように震えていた。
式が終わると、秀政は政成のいる縁側へ向かい、少し距離を置いたところで静かに膝をついた。
政成は涙を流しながら言った。
「殿……松丸様は……いや、秀文様は……
立派に育ちましたな……」
秀政は笑顔で応えた。
「義父殿のおかげだ。
秀文は必ずや、芋粥家を支える男になる」
政成は何度も頷き、涙を拭おうとしたが、拭いきれなかった。
秀文は縁側へ歩み寄り、政成に向けて深く頭を下げた。
「祖父上……秀文、これより一人前として励みます。
どうか、見守ってくださいませ」
政成は震える手を秀文へ差し伸べた。
しかし、その手が孫に触れることはなかった。
「……立派な……立派な若殿にございます……」
冬の鈴鹿館に、静かな涙と温かな光が満ちていた。
そしてそれを見つめる政親。
(秀文様は立派に元服あそばされた。
この芋粥は秀文様こそ相応しいのだ。
丹羽ではなく千種の血だ。
もはや父上には頼れぬ。
この政親が大義を果たさねばならぬ)
*
元服の儀が終わると、鈴鹿館の大広間では祝宴が開かれた。
冬の冷気を忘れさせるほどの熱気が満ち、家臣たちは思い思いに酒を酌み交わし、笑い声が絶えなかった。
秀文は、まだ烏帽子の違和感に少し緊張しながらも、一人前としての初めての席に座していた。
その秀文のもとへ、家臣たちが次々と祝いの言葉をかけに訪れる。
「若殿、おめでとうございます!」
「これからは我らも、若殿の御下知を仰ぎまするぞ」
「立派な烏帽子姿でございますな!」
秀文は一人ひとりに丁寧に礼を返し、その姿は、つい先日までの少年とはまるで違って見えた。
やがて、浅野清隆の番となった。
浅野は静かに膝を落とし、秀文の前に座した。
「若……元服、おめでとうございまする」
秀文は少し照れながら礼を返した。
「浅野殿、ありがとうございます」
そこへ、秀政が酒杯を片手に割り込んできた。
「清隆、聞いたぞ。
お前の元で秀文は伊勢の軍務を学んでいるとな?」
浅野は苦笑しながら答えた。
「お耳が早い。その通りです。
若は実に覚えが早い。
筆頭殿と奥方様の教えを元に内政も学ばれておりますが、軍務においても、それがしの教えを驚くほど早く身につけておりまする」
秀文は慌てて手を振った。
「浅野殿、褒めすぎです」
秀政は満足げに頷いた。
「そうか、頼もしいな」
浅野は首を横に振った。
「いえ、世辞ではありませぬ。
若は既に、それがしの代わりをもこなせるかと思います」
秀政は笑いながら肩を叩いた。
「ははは。清隆、そこまで言うとさすがに世辞にしか聞こえぬぞ」
浅野は真顔で続けた。
「殿。伊勢の軍制はそれがしが作り上げてきましたが、今では我が両腕とも言うべき坂木隆成と上田隆典が、実務を担っております。
癖のある二人でしてな。
それがしにしか扱えぬと思っておったのですが――
あの二人は若にだけは素直に従いまする」
秀文は苦笑した。
「坂木殿と上田殿は、少々面倒なところがありますから……」
秀政は豪快に笑った。
「はっはっは。
人を使う力は上に立つ者として必要だ。
義父殿の血を秀文は受け継いだのだろうな」
浅野は杯を置き、ふっと肩の力を抜いた。
「一度、若に任せて、それがしも楽をさせていただきましょうかな」
秀政は軽く肘で浅野を突いた。
「そうしろ、そうしろ。
そういえばだが、清隆――お前も少し痩せたな」
浅野は静かに笑った。
「それがしも五十三になりもうした。
そろそろ若い者に任せ、少し楽をさせていただいても罰は当たりますまい。
戦を忘れ、歌でも詠みながら余生を過ごすのも悪くありませぬ」
秀政は目を丸くした。
「お前、歌を詠むのか?」
浅野は懐から小さな紙片を取り出し、読み上げた。
「はい、若のおかげで時間が出来ましてな。
まだまだ下手ではありますが、歌を詠むのが楽しゅうなってまいりました。
蒔きし種 千々の鬼へと なりにけり
遠き鬨をぞ 笑みて聞くらむ
如何ですかな?」
秀政は少し驚きながらも、素直に頷いた。
「それなりに聞こえるな。
お前も趣味を持てたのなら良い事だ」
浅野は照れくさそうに笑い、杯を傾けた。
祝宴は夜更けまで続き、秀文は家臣たちからの祝辞を受け続け、その姿は確かに「芋粥家の若殿」としての風格を帯び始めていた。
*
その二ヶ月後――
浅野清隆は風邪をこじらせ、あっけなくこの世を去ることになる。
そして浅野の言葉どおり、その後の伊勢の軍務は坂木・上田が秀文を支え、秀文を中心として動いていくことになる。
後世、伊勢に伝わる芋粥家の家中史書――
『鈴鹿芋粥家譜』には、先ほどの歌が浅野清隆の辞世として記されることになる。
*
そして年が明け、天正九年一月三日。
秀政は年始の儀と今年の方針を決める軍議に参加するため、安土を訪れていた。




