第二百八十一話 大義のため
三津寺砦前。
本願寺方の砦を睨むようにして、芋粥秀政の陣が構えられていた。
周囲には鬼兵の旗が林立し、兵たちの往来が絶えない。
その陣幕の前へ、近習が駆け込んだ。
「殿、明智日向守様がお越しです!」
秀政は筆を置き、軽く顎を動かした。
「通せ」
幕が開き、明智光秀が姿を現した。
鎧は簡素ながらも整えられ、気品ある佇まいは変わらない。
光秀は深く礼を取った。
「伊勢守殿、忙しいところをすまぬ」
秀政は立ち上がり、軽く会釈した。
「日向守殿、見事長宗我部を織田へ靡かせましたな。
さすがにござる。
俺もこの件は日向守殿が適任だと思っておった」
光秀はわずかに肩を揺らし、苦笑した。
「いや、これも伊勢守殿が既に長宗我部を追い詰めておられたからだ。
なにやら功を奪ってしまったようで、心苦しい」
秀政は手を振った。
「いえいえ。織田の天下の大義に比べれば、俺の四国の功など大したことござらぬ」
光秀はほっとしたように息を吐いた。
「そう言っていただけると、こちらの気も少し晴れます」
秀政は光秀の顔を見つめ、静かに問うた。
「して、今日は何の御用向きであられますかな?」
光秀は姿勢を正した。
「いや、伊勢守殿がそれがしの与力として本願寺攻めに加わっていただくことになったので、その挨拶と、この後の方針を話し合いに参った」
秀政は頷き、地図を広げた。
「なるほど。俺はこのまま三津寺砦と楼岸砦を落とします。
もはや無用な血を流す必要はございませぬ。
このまま包囲して落とす所存。
あと一月、二月はかかりましょうな」
光秀は即座に答えた。
「それで構いませぬ」
秀政は心の中でふっと笑った。
(ふっ……よほど四国の功を横取りしたことを、やましく思っておるようだな。
これほど明智殿に恩を売れたのは、明の二千貫のおかげだな。
明には頭が上がらんわ)
秀政は地図を指で叩きながら問うた。
「して、この後はどこを攻めればよろしいかな?」
光秀は秀政を見つめ返した。
「うむ。伊勢守殿はいかがなさりたいかな?」
秀政はわずかに笑みを浮かべた。
「俺の希望を聞いてくださると?
であれば、このまま雷神の威光を背負って、外縁の砦攻めを任せて頂きたい。
今の状況であれば、力攻めせずとも時が奴らを降らせます」
光秀は深く頷いた。
「承知した。
では――佐久間殿が攻めきれなんだ天満・渡辺・野田の砦を頼み申す」
秀政は静かに頭を下げた。
「心得た」
「それがしと佐久間殿は石山本願寺を囲む。
援軍を断ち、外縁の砦を落とせば、顕如、教如も音を上げるだろう」
秀政も力強く頷いた。
「左様ですな。ようやく本願寺戦の出口が見えました」
「あとひと踏ん張りじゃ、よろしく頼みますぞ」
「お任せあれ」
光秀は一礼し、静かに陣幕を後にした。
外へ出ると、三津寺へ戻ったばかりの長政、鷺山、そして明が控えていた。
三人はすれ違いざまに深く礼を取る。
光秀も丁寧に礼を返し、そのまま歩み去った。
光秀の姿が完全に見えなくなると、長政は陣幕の中へ向けて声をかけた。
「義父上、ただいま小松島より戻りました」
「おぉ、戻ったか。入れ」
陣幕の中へ長政が入ると、秀政は地図を片付けながら顔を上げた。
長政は膝をつき、深く礼をした。
秀政は嬉しそうに目を細めた。
「おぉ、良く戻った。鷺山、明も一緒か。
お前たち三人――ようやった。
長宗我部との戦が早期に片付いたのは、お前たちの働きのおかげじゃ」
三人は誇らしげに、しかしどこか複雑な顔で頭を下げた。
秀政は明へ視線を向ける。
「特に明。
お前の二千貫の使い方は見事だった」
しかし明は唇を尖らせたままだった。
「父様、そうは仰いますが……
なぜにあっさりと、あの城を手放したのですか?」
長政が慌てて口を挟む。
「明、よせ。
先ほども義父上が明智殿へ仰っていたではないか。
織田の天下の大義のためには致し方なかったのだ」
秀政は軽く肩をすくめた。
「ん?あぁ……まあ、そうだ。大義のためだ」
長政は苦笑しながら続けた。
「明は、義父上が早く伊勢に帰りたかったから放棄したと……
蘭に至っては、面倒くさくなったから明智殿に押し付けたなどと……」
明はむっとした顔で秀政を見た。
秀政は慌てて手を振った。
「そ、そんなことはないぞ。
俺は常に大局を見ている。
ゆえに織田の天下の大義を選んだまでだ」
明はまだ納得していない様子だった。
「……そういうことにしておきます。
ですが、これでは二千貫を捨てたようなもの。
千種屋に利子をつけて返すと約束しました。
母様に叱られそうです」
秀政はふっと笑った。
「明、お前は思い違いをしている。
お前の二千貫は“捨てた”どころではない。
その十倍もの価値を生んだのだ」
明は目を瞬いた。
「どういう意味ですか?」
秀政は静かに説明した。
「多くは説明せぬが――
お前の二千貫は、あの築城だけの銭ではなかった。
お前の二千貫によって、四国遠征がこうも早く終結したのだ。
賢いお前なら分かるだろう。
この戦が長引けば、芋粥家には一万、二万貫にも及ぶ戦費が、これからのしかかるところだったのだ。
それが――たった二千貫で済んだのだぞ?」
明は息を呑んだ。
秀政は続けた。
「お悠であっても、これを褒めることはあれど、叱るわけがなかろう。
お前がなしたことは、それほどまでに織田家にも、芋粥家にも利するものだったのだ」
明は目を潤ませながら秀政を見た。
「そ、そうなのですか……?」
秀政は優しく頷いた。
「それが“大局を見る”ということだ」
明は深く頭を下げた。
「父様……申し訳ありませぬ。
父様のことを誤解しておりました」
秀政は笑って、明の肩に手を置いた。
「いや、いいのだ。
それよりも――
長政やお前、そして蘭の成長を見たことが嬉しかったぞ」
秀政は三人の顔を順に見渡し、静かに口を開いた。
「先ほどの話を聞いておったなら分かるであろう?
我らはこれから本願寺外縁の砦を落とす。
だが――力攻めは不要だ」
鷺山が頷き、地図を覗き込んだ。
「本願寺は孤立しましたな。
毛利も長宗我部も、もはや助けには入れませぬ。
その上、芋粥、明智、佐久間の大軍勢によって押し込まれるのです。
まもなく降りましょう」
秀政は満足げに頷いた。
「鷺山の言う通りだ。
我らは包囲するだけで良い。
三津寺砦は俺が、楼岸砦は政親に任せている」
秀政は長政たち三人へ向き直った。
「お前たちは――天満・渡辺・野田の砦を任せたい。
だが、くれぐれも無理はするな。
この戦で犠牲は出すべきではない。
無理に兵を分散させず、一つずつ確実に落として回れ。
それでも十分だ」
長政は膝をつき、力強く答えた。
「は! お任せください」
秀政は満足げに頷き、少し柔らかい声になった。
「今日は皆を休ませよ。
明日から頼むぞ」
長政は笑みを浮かべた。
「はい!
早く本願寺攻めを終わらせて、伊勢に戻りたいですね」
秀政は豪快に笑った。
「うむ、その通りだ!」




