第二百八十話 和睦の成立
小松島を見下ろす丘。
長宗我部軍の本陣からは、海辺に築かれた白木の城がよく見えた。
その一角に、簡素ながらも格式を保った陣屋が設けられている。
元親は裃を整え、利三をそこへ招き入れた。
陣屋の中は静かだった。
海の匂いと木材の香りが混じり、緊張が張り詰めている。
斎藤利三は深く礼を取った。
「元親殿。
お目通りをお許しいただき、誠にありがとうございます。
大変お待たせいたしました。
我が主・光秀が、上様に長宗我部家との和睦の重要性を説くのに、いささか時間を要してしまいました」
元親は利三を見据え、心の中で冷笑した。
(初めから決まっちょった筋書きであろうが。
よくもまぁ抜け抜けと言うたものよ。
さて――信長はどう判断した?
和睦か?戦か?)
元親はゆっくりと口を開いた。
「別に待っちゃあせん。
来らんかったら、織田を叩くまでじゃき。
で――待たせた以上は、誓書を持ってきちゅうがか?」
利三は懐から巻物を取り出し、両手で差し出した。
「はい。こちらにございます」
元親は巻物を受け取り、その重みを確かめるように手を滑らせた。
(ほぉ……信長は折れたか)
巻物を広げる。
墨の匂いがふわりと立ち上った。
元親は文面を読み、静かに頷いた。
「……確かに。
四国四ヶ国の領有を認めると書いちゅう。
なら――あの小松島の新城も壊してええがやな?」
利三は即座に手を上げた。
「いえ、しばらくお待ちを。
上様は“現在、長宗我部家が領する四国の地を認める”との仰せです。
誓書にもそのように記されております」
元親は目を細めた。
(なるほど……
そう解釈できるように書いちゅう。
小賢しいのう)
元親は巻物を閉じ、利三へ向き直った。
「確かに、そう読めんこともない。
つまり信長殿は――小松島は織田領と主張なさる気か?
“四国四ヶ国”と言いながら、
織田が足を踏み込むと?」
利三は静かに頷いた。
「はい。左様にございます。
和睦としては至極まっとうな御条件かと存じますが……
何かご不満でもございましたかな?」
潮風が陣屋の幕を揺らした。元親の裃がわずかに鳴る。
その目は、正面に座る利三を鋭く射抜いていた。
利三は静かに姿勢を正した。
その表情は揺れず、ただ理を積み上げる者の顔だった。
元親は鼻で笑った。
「お前は――
刃を首に添えられた状態で、相手と仲良うできるがか?
器用な奴じゃのう」
利三は即座に返した。
「小松島新城は刃ではございませぬ」
元親は目を細めた。
「詭弁じゃ。
あの城は壊さねば安心できん」
利三は一歩、前へ出た。
「もし和睦が成るならば――
上様はあの新城から芋粥殿を退かせ、我が主・明智日向守に預けると仰せです」
元親の眉がわずかに跳ねた。
「……何じゃと?
芋粥を四国から退かせると?」
利三は淡々と続けた。
「元親殿と芋粥殿は因縁の間柄。
その芋粥殿に代わり、この和睦を進めた明智が城を預かる。
これこそが――
上様が和睦を心から望まれておるという証にございます」
元親は誓書を指で叩きながら問うた。
「芋粥はどうなるがじゃ?」
利三は静かに答えた。
「四国方面軍軍団長を解任され、明智の与力として本願寺攻めに参加されます」
元親は低く笑った。
「……芋粥が除けられたか」
利三はわずかに口元を緩めた。
「“刃ではない”と申し上げたこと――
ご納得いただけましたかな?」
利三は元親の返答を静かに待った。
しかし元親は沈黙した。
利三はその沈黙を“拒否”と読み取り、さらに一歩踏み込んだ。
そして声を低くし、言葉を畳みかけた。
「……これでも元親殿は、和睦に乗り気になられませぬか。
織田としては、これ以上ないほど折れております。
これでもご納得いただけぬとあらば――致し方ございませぬな。
こうなれば、戦で決着をつけるのが武士の習わしというものでしょう」
元親は心の中で静かに呟いた。
(……ここまでか。
織田が最大限折れちゅうのは確かじゃ。
芋粥を排除するんも、わしの狙いの一つではあった。
じゃが――先回りされたの。
利三も信長も、ほんま抜け目ないのう)
元親はゆっくりと顔を上げた。
「……いや、待て」
利三の目がわずかに動く。
元親は誓書を指で軽く叩きながら続けた。
「織田が折れたことは、よう分かった。
これ以上、駄々をこねちゃあ、わしが童のように思われるわ。
明智殿の骨折りを、くたびれ儲けにしてしまうきの」
元親は誓書を胸の前に掲げた。
「――良かろう。
誓書と瀬戸内の通行権が得られるなら、和睦に応じちゃる」
利三は深く礼を取った。
「左様でございますか。
では、正式に誓書を交わしましょう。
上様の御朱印は既に押してございます。
元親殿にも御名を記し、御判を据えていただき、誓書を取り交わしたく存じます」
利三は巻物を丁寧に広げ、硯と筆を元親の前へそっと置いた。
潮風が陣屋の幕を揺らし、白木の海城が背後で静かにそびえていた。
元親は筆を取り、誓書の末尾へゆっくりと名を記す。
長宗我部元親。
その筆跡は、覇者としての矜持と、四国の未来を見据えた決断の重みを宿していた。
*
長宗我部との和睦成立から十日。
その間に安土では、秀政の四国方面軍軍団長の任を解き、小松島を明智へ預けるための差配が進められていた。
そして小松島の長政の陣へ、一通の書状が届けられた。
差出人は、芋粥秀政。
長政は、簡潔にまとめられた戦時軍令の封を切り、静かに目を走らせた。
『四国方面軍軍団長の任を解かれた。
今後は明智日向守を総大将とした本願寺攻めに加わる。
小松島新城はそのまま明智軍へ引き渡し、全軍、三津寺へ向かうべし』
長政は息を呑んだ。
(……義父上が、四国を離れる。
小松島も、明智殿へ渡す……)
その時、鷺山が書状を覗き込み、顔をしかめた。
「な、何と申されますかこれは!
我ら芋粥家が築いた城を明智殿にただで渡す?
四国方面軍を解任?
あまりにも酷うございます!」
鷺山は拳を震わせた。
「若はこの十日、命を削るようにして築城を急がれたのですぞ!
それを……それを、こんな扱いとは……!」
明も書状を見て、唇を噛んだ。
「父様……酷いです。
私たちはあんなに頑張って、小松島を守ったのに……
こんなに簡単に明智様に渡してしまうなんて……」
蘭も涙を浮かべた。
「父様は……この城は芋粥家、千種屋の総力を挙げて成し遂げたものです。
姉様は大きな借入れまで覚悟をなされたのに……。
なのに、こんな仕打ち……!」
鷺山はさらに声を荒げた。
「若!悔しゅうございます!
これでは、明智殿が殿の功を奪うおつもりかと疑いたくなりまする!」
長政は三人の声を黙って聞いていた。
その胸の内にも、同じ悔しさが渦巻いていた。
(……義父上の功を奪われた。
元親を打ち負かしたのも、四国を揺るがしたのも義父上だ。
それを、明智殿へこれほど呆気なく渡すとは……
納得など、できるはずがない)
しかし、長政は深く息を吸い、三人を見渡した。
「……皆の気持ちは分かる。
義父上には何か深い考えがあってのこと」
鷺山、明、蘭が息を呑む。
長政は続けた。
「長宗我部との戦を無血にて終わらせるため。
戦わずに済むなら、それに越したことはない」
明が涙を拭いながら問うた。
「父様は早く伊勢に帰りたいだけに違いありませぬ!」
蘭もそれに続いた。
「そうです!四国に興味がないだけです。
面倒くさくなったんです!」
長政は静かに首を振った。
「違うぞ、二人とも。
義父上は大局を見るお方だ。
そのような子供じみた理由なわけがなかろう。
己の功より織田の天下取りという大義を選ばれたのだ」
鷺山はしばらく黙り込み、やがて歯を食いしばった。
「……そうだな。おそらく一番悔しいのは殿なのだ。
この悔しさは次の功で取り戻そうぞ」
長政は書状を丁寧に畳み、懐へしまった。
「皆、聞け。
義父上の決断を無駄にはできぬ。
わしらは摂津へ向かう。
三津寺で義父上と合流し、本願寺攻めに加わる」
明と蘭はまだ不満げだったが、
長政の言葉に、ゆっくりと頷いた。
鷺山も深く頭を下げた。
「……承知いたしました。
殿の御心を汲み、摂津へ向かいましょう」
長政は海城を振り返った。
白木の城は潮風に晒されながら、静かにそびえていた。
「いつでも三津寺へ向かえるよう、支度を整えよ!
明智勢にこの城を渡したらすぐに摂津へ向かうぞ」
芋粥軍は新たな戦場へ向けて動き出した。




