第二百七十九話 十日の値段
安土城・奥の間。
薄闇の中、香炉の煙が静かに揺れ、天下人の影を長く伸ばしていた。
明智光秀は膝をつき、深く頭を垂れた。
信長は上段に座し、無言のまま光秀を見下ろしている。
光秀は静かに口を開いた。
「上様。
先にお許しいただきました弥三郎への偏諱――“信”の字により、元親は我らを信じ、ついに靡き始めておりまする。
ただ……まだ虚勢を張り、
『四国四ヶ国の安堵を、上様より誓書として頂きたい』
と求めて参りました」
信長の表情は変わらない。
ただ、奥の間の空気がわずかに冷えた。
やがて信長は、光秀を射抜くような目で睨みつけ、静かに言った。
「……良い。
誓書を渡してやれ。
四国四ヶ国の領有を認める」
光秀は深く頭を下げた。
「はっ。これで長宗我部も、織田に降りましょう」
信長は香炉の灰を箸でつつきながら、淡々と続けた。
「日向守。
その返書と誓書は――
十日、待て」
光秀は顔を上げた。
「十日、でございますか?」
信長は地図の端を指で叩いた。
「伊勢守より書状が来ておる。
あと十日もすれば、小松島に城が完成する。
織田が四国に拠点を作るのだ」
光秀の目がわずかに細くなる。
「なるほど……。
元親が四国全土を押さえた状態で和睦するよりも、織田が四国へ食い込んだ状態で誓書を渡す方が、こちらの立場は強くなりますな」
信長は鼻で笑った。
「うむ。適当に理由をつけて引き延ばせ。伊勢守が小松島を押さえてから送り届けよ」
光秀は深く頷いた。
「承知いたしました」
信長は地図の小松島に指を置いた。
「和睦が成立したならば、小松島海城は日向守、そちが預かれ」
光秀は一瞬だけ言葉を失った。
「芋粥殿が築かれた城をそれがしがですか?
それでは……芋粥殿の功を奪ったようになりますが」
信長は即座に切り捨てた。
「構わぬ。伊勢守の申し出だ。
和睦が成った後は、戦をしていた当事者が居座ると、折角降った元親を刺激する――
と伊勢守が申しておる。
自身は四国方面軍の軍団長の任を返上し、日向守、そちの下について本願寺攻めに加わると」
光秀は息を呑んだ。
「芋粥殿は……それでよろしいのでしょうか?」
信長はゆっくりと光秀を見た。
「……あ奴は妙なところで欲が薄い。
あれはあれで使いやすい。
それに伊勢守の懸念ももっともだ。
和睦後の四国は――そちが裁け」
光秀は深く頭を下げた。
「はっ。」
奥の間に再び静寂が戻った。
香炉の煙だけが、ゆっくりと天へ昇っていった。
*
小松島・海辺。
潮風が荒々しく吹き抜け、未だ乾ききらぬ木材の匂いが海気と混じって漂っていた。
築城前まで、ここはただの浜であった。
だが今――
そこには、海に突き出すようにして新たな城が姿を現していた。
まだ白木のままの櫓や未塗装の板壁、仮設の足場が残る曲輪など、ところどころ未完成の箇所はある。
しかし、防御に関わる部分だけは抜かりなく完成していた。
海に面した主郭は、潮風を受けても揺るがぬよう、千種屋の手配した工夫たちが、杭を幾重にも海底へ打ち込んでいる。
主郭の外縁には粗石を積み上げた低い石垣が巡らされ、さらにその内側を土塁が支えていた。
表面の仕上げは粗く、恒久城としてはまだ未完成。
それでも攻め手の足を止めるには十分な高さと厚みを持っていた。
波打ち際には、「海上鉄砲台」が三つ、据え付けられていた。
海から近づく敵船を一斉に撃ち抜くための配置である。
未完成の城でありながら、大金を流し込んだその防御力は、すでに力攻めでは容易に抜けぬ城砦となっていた。
浜辺では、長政が図面を広げていた。
明はその横で、千種屋から借り入れた二千貫の帳簿を確認している。
政親の言葉どおり、この二千貫はただの銭ではなかった。
四国の勢力図を変える力そのものだった。
長政は海城を見上げ、静かに息を吐いた。
「……十日でここまで出来るとはな。
香宗我部がどれほど妨害しようともう止められん。」
明は頷いた。
「父様も松兄も、“防御だけは絶対に落とすな”と仰っていました。
仕上げは後でいくらでも出来ます。
まずは、織田が四国へ根を張ることが大事です」
長政は海風に髪を揺らしながら、遠く勝浦の方角を見た。
「……元親は、これを見てどう思うだろうな」
明は静かに答えた。
「力では追い出せない、と悟るでしょう。
だからこそ――和睦を急ぐはずです。
ですが、私たちの役目は果たせました」
その時、海城の主郭から太鼓が鳴り響いた。
ドン……ドン……ドン……
築城奉行が声を張り上げる。
「小松島海城――防御構造、完成ッ!!」
浜辺の工夫たちが歓声を上げた。
鬼兵たちも槍を掲げ、海風に吠えた。
長政は拳を握りしめた。
「これで……四国は動くぞ」
*
勝浦城。
元親は利三の返書を待ちながら、近習が駆け込んでくるのを見た。
「申し上げますッ!
小松島の海城――もう出来上がっちょるそうにございます!」
(……十日で城を築くか。
芋粥――やっぱり侮れん)
「わしは親泰の元へ行くき。
利三が来たら――
『小松島の陣まで来い』と伝えちょけ」
近習が走り去る。
元親は静かに息を吐いた。
(利三め……
この城が出来上がるまで、間を空けおったな。
誓書を渡す前に、織田が四国へ根を張るのを待っちょったがじゃ。
あの男も抜け目ないの)
元親は裃を整え、近習二名を連れて勝浦城を出た。
潮風が頬を打つ。
海の向こう、小松島の白木の城がわずかに姿を見せ始めていた。
*
小松島を見下ろす丘。
そこから白木の城が海辺にそびえる姿がはっきりと見えた。
元親が馬を進めると、すでに香宗我部親泰が丘の上で待っていた。
親泰は兄の姿を見るなり、苦い顔で頭を下げた。
「兄者……すまん。
とうとう、城を完成させられてしもうた」
元親は海城をじっと見据えたまま、静かに答えた。
「仕方ないわ。あれは止められん」
親泰は唇を噛み、兄の横顔を見た。
「なぁ兄者……
一度、利三を追い返したそうじゃな。
あの時に和睦してしもうておれば、間に合ったんじゃないか?」
元親は鼻で笑った。
「いや、あそこでわしが“受ける”と即答しても、信長が正式な和睦の使者を寄越すまで、どうせ時を稼がれて同じじゃ。
むしろすぐ応じては、長宗我部が臆したと思われる。
じゃき、あのようにするしかなかったがよ」
元親は海城を睨みつけた。
「それに誓書は貰わんといかん。
利三ごときの口約束など、話にならんでな」
親泰は深く息を吐いた。
「そうか……
どのみち織田に四国へ一口食い込まれるんは、我慢せにゃならんかったわけか」
元親はゆっくり頷いた。
「そうじゃ。
だが――この一城がどう出るかじゃ」
潮風が二人の衣を揺らした。
元親は海城を見下ろしながら、静かに言葉を続けた。
「織田がこちらの条件を呑んで和睦してくるか、誓書は出せんと強気に来るか。
長宗我部家の正念場じゃ」
親泰は兄の横顔を見つめ、その目に宿る静かな炎を感じ取った。
そこへ近習が声をかけた。
「殿、斎藤利三殿がお越しです」
元親は不快を隠さず鼻を鳴らした。
「ふん……計ったように来よるの。
どうせ近うで時を稼いじょったがじゃろう。
わしが小松島へ足を運んだ途端、すぐ追いかけて来よったわ」
潮風が元親の裃を揺らす。
その目は鋭く、しかしどこか冷めていた。
「……まぁええ。会うちゃるわ」




