第二百七十八話 二千貫の価値
勝浦城・上段の間。
潮風が、二人の間に張り詰めた空気を撫でていた。
斎藤利三は静かに姿勢を正し、元親へ向けて口を開いた。
「上様――織田信長公は、長宗我部元親殿の四国領有を認める旨、我が主・明智日向守へお約束くださいました」
元親の目が細くなる。
「……四国全土をか?」
利三はしっかりと元親を見据えると、丁寧に言葉を選んだ。
「それは、今後詰める話にござります」
元親は鼻で笑った。
「話にならんわ。
“四国領有”ゆうたところで、屁理屈を捏ねりゃあ土佐一国でも是とできるろうが。
織田を信じられんと、わしはさっきから言うちゅう」
利三は揺らがない声で続けた。
「上様は、元親殿のご子息――弥三郎殿に“信”の偏諱を与えるおつもりです。
これは、四国の領有を織田として保証する証にございます」
元親はわずかに眉を動かした。
「偏諱は……確かに長宗我部を特別に見なす証じゃ。
じゃが、それで四国全土の安堵になるとは限らんき」
利三は静かに、しかし鋭く言葉を返した。
「――上様の偏諱を伴う和睦を、それでもお受けにならぬと?
そのように受け取ってよろしいのでございますな?」
元親の目が鋭く光った。
「利三……わしを脅す気か?
わしとて四国の覇者よ。
そのような脅しには屈せんぞ」
利三はすぐに深く頭を下げた。
「脅しなど、滅相もございません。
ただ――これほどの名誉を受けないとは、もったいないと思ったのみ」
元親は利三を見据え、わざと冷たく言い放った。
「利三殿、もうええわ。
今日は帰れ」
利三は即座に首を振った。
「そうは参りませぬ。
先ほども申しましたが、
長宗我部家と織田家――双方が納得できる道を探りたいのです」
元親は鼻で笑った。
「そんなら一つに決まっちゅう。
おまんの提示は曖昧すぎる。
四国四ヶ国の安堵を明文化した誓書を持ってまいれ。
それがなけりゃ話にならん」
利三は一瞬だけ目を伏せた。
その要求の重さを理解している表情だった。
「上様の……誓書ですか。
それは、この場でそれがしの一存ではお約束しかねます」
元親はすぐに切り捨てた。
「だから帰れと言うておる」
利三は深く息を吸い、静かに頭を下げた。
「承知しました……。
それでは、一旦戻り、お伺いを立てさせていただきます」
元親はすぐに声を飛ばした。
「待て、利三殿。
まだ話が終わっておらん」
利三は振り返り、丁寧に問い返した。
「まだ何か?
四国領有の誓書、それに偏諱。
これ以上望まれますと――真に機会を逃されますぞ」
元親はゆっくりと笑った。
「最初に言うたであろう。
長宗我部はその“機会”をそれほど重要視しておらん」
利三は心の中で舌を巻いた。
(……はったりだ。
長宗我部家はこの和睦を何としても成し遂げねばならぬはず。
ここでこのはったりを見せるとは――腐っても四国の覇者ということか)
元親は利三の沈黙を見て、軽く顎を上げた。
「何じゃ?
聞く気はないがか?」
利三はすぐに姿勢を正した。
「いえ。
残りのお話とは?」
元親は、当然のように言い放った。
「これは当たり前の要求じゃ。
和睦を果たした後は――
瀬戸内航路の自由通行権は貰うぞ?」
利三の目がわずかに細くなった。
(なるほど……元親殿はしっかり考えてはいるようだな。
織田が受け入れられる瀬戸際まで条件を積む気か)
利三は深く頷いた。
「承りました。
それも我が主、日向守にお伝えします」
元親は軽く手を振った。
「おう、任せたぞ」
利三が頭を下げる。
その背を見送りながら、元親は心の中で静かに計算を巡らせていた。
(ここまでやりゃあ――
長宗我部が譲歩しちょらんことは、周りによう伝わる。
織田に屈したどころか、海の利を広げたと見られて、わしの面子も最大限に守られるき。
それに織田は織田で、この程度の条件は拒まんはずじゃ。
外交の作法として当たり前のことよ。
長宗我部を正式な大名として扱うた――ただそれだけの話じゃき。
その上で、織田は長宗我部を屈服させたと周囲に見せることもできるろう。
――互いの面子が立つ。
これが和睦の値段じゃ)
潮風がそっと吹き込み、勝浦城の上段の間に漂う空気を揺らした。
そして利三が別れの口上を述べて退出すると、元親はようやく肩の力を抜いた。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか……わからんの)
*
摂津・三津寺砦前、芋粥伊勢守秀政の陣。
三津寺砦を囲む包囲陣の向こうから、政親が砂を払いながら駆け込んできた。
手には長政からの書状が握られている。
「義兄上、若より書状が届きました」
秀政は政親を見やり、手を伸ばした。
「長政からか。良い知らせだと良いが」
政親は書状を差し出しながら、少し呆れたように笑った。
「香宗我部勢の激しい妨害に遭ったようですが……
明姫様の機転により、千種屋から二千貫を臨時に借り入れ、銭の力で築城を強行しているとのことです。
あと十日もすれば、小松島海城が完成すると」
秀政は目を細め、書状を読み終えると鼻で笑った。
「……二千貫か。明も俺に似て大局が見えるようになったな。
あとでお悠に叱られなければよいが……。
しかし、子の成長を知るのは、心地よいものだな」
政親は肩をすくめた。
「明姫様もさすがにございますな。
姉上の知恵と、義兄上の浪費癖を見事に継承しております」
秀政は即座に睨んだ。
「言い方が嫌らしいな。
お悠の知恵は認める。
だが俺の場合は無駄遣いではなく――豪胆さとでも言え」
政親は苦笑しつつ、すぐに本題へ戻した。
「浪費癖の方が言い得て妙ではありますが……それはさておきです。
あと十日で城が完成することを、今すぐ安土の大殿へ書状にてお伝えください」
秀政は眉を上げた。
「殿へか?」
「はい。小松島海城の築城は、長宗我部との和睦において極めて重要です。
これは間を置かず、ご報告すべきことにございます」
秀政は書状を畳み、深く息を吐いた。
「分かった。文を書こう」
政親は秀政の横顔を見つめた。
秀政が文を認めながら呟いた。
「政親……四国は、これで落ち着くと思うか?」
政親はしばし黙し、本願寺の黒い楼閣を遠くに見据えた。
「……義兄上。
四国はおそらく落ち着きます。
元親は織田と和睦するでしょう。
此度の明姫様の二千貫。
これは二千貫以上の価値を持ちます。
長宗我部は芋粥には勝てぬことを大いに刷り込まれたことでしょう。
和睦を急ぐに違いありません。
そして、それは二千貫で四国全土を買い上げたことと同じです」
「そうか。それならばよい」
娘が褒められて、秀政は満足げに頷いた。
政親は嫌らしく笑った。
「明姫様の銭の使い方は、無駄遣いが過ぎる義兄上と違って、真に豪胆ですね」
「こら、政親!俺と同じで豪胆なのだっ!
くくく、ふははは。
あとの面倒事は明智殿に押し付けて我らは伊勢に帰りたいな」




