第二百七十七話 和睦の値段
播磨・英賀の羽柴秀吉陣。
明智、芋粥、佐久間が長宗我部の情報戦に苦しめられている間も、秀吉だけは一歩も止まらず、播磨攻略を進めていた。
天正八年二月。
一年十ヶ月に及ぶ「干し殺し」の末、別所長治はついに兵糧が尽き果て、三木城は開城した。
秀吉はこの瞬間、播磨の反織田勢力に壊滅的な打撃を与えた。
そして四月には英賀城を落とし、五月に入ると長水山城までも降し――播磨国は完全に秀吉の手に落ちた。
秀吉は陣中で戦況図を広げ、次は毛利の本隊をどう崩すかと考えていた。
その時だった。
「殿、明智様より書状が参っております!」
使者が駆け込み、秀吉は眉を上げた。
「日向守からじゃと?
摂津で手一杯のはずじゃが……何の用じゃ」
書状を開いた秀吉は、目を細め、読み終わると同時に思わず笑った。
そこにはこう記されていた。
「長宗我部元親、近頃は織田家へ心を寄せ候。
毛利・本願寺との往来、まもなく断ち候見込み。
和睦の儀、我が明智家を以て正式に進め候」
秀吉は書状を握りしめ、口の端を吊り上げた。
「ほぉ……長宗我部元親が、こっちへ靡いたいうんか。
あの土佐の山猿も、ようやく上様の御威光が分かったみたいだがね」
黒田官兵衛が静かに進み出た。
「殿。毛利は今、三方向から圧力を受けています」
秀吉は顎を上げた。
「三つもか?
ほんなら順番に言うてみゃあ」
官兵衛は戦況図を広げ、墨で線を引いた。
「まず一つ目は摂津。
明智殿が本願寺攻めの総大将として動いています。
佐久間殿は副将に降格されましたが、明智殿の采配で摂津の包囲は以前より締まっています」
秀吉は鼻で笑った。
「日向守は真面目な男だでなぁ。
あいつが総大将なら、摂津はもう安心だわ」
官兵衛は頷く。
「はい。
本願寺が毛利へ援軍を求めても、摂津の包囲が強まれば毛利は兵を出しづらくなります」
官兵衛は二本目の線を引いた。
「二つ目は四国。
芋粥秀政殿が小松島に攻め入り、それに焦った長宗我部元親が毛利・本願寺との往来を断って織田に降ろうとしています」
秀吉は目を細めた。
「芋は摂津にも顔出しとるらしいでな。
あいつはほんと便利な男だわ」
官兵衛は淡々と続けた。
「長宗我部が毛利から離れれば、瀬戸内の南側に大きな不安を抱えることになります。
毛利水軍が健在とはいえ、海路を自由に使える状況ではなくなりましょう」
官兵衛は三本目の線を引いた。
「そして三つ目は播磨。
殿が三木・英賀・長水山を落とし、播磨を完全に平定したことで――
毛利は中国山地の玄関口を失いました」
秀吉は満足げに笑った。
「そりゃあ、わしの庭になったでな。
毛利はもう播磨へ手ぇ出せんわ」
官兵衛は静かに言った。
「毛利は兵を抱えておりますが、各方面へ割けば兵糧の負担も大きくなります。
摂津では明智殿が塞ぎ、四国では長宗我部が毛利の背後の不安となり、播磨では殿が正面を塞いでいる。
毛利はどこにも逃げ道がありません」
秀吉は戦況図を指で叩いた。
「官兵衛。毛利を崩す急所はどこや?」
官兵衛は少し考え、備前と美作を指した。
「まずは宇喜多直家を動かすべきでしょう」
秀吉の目が細くなった。
「直家か」
「はい。直家殿が毛利を離れ、織田へ靡いたことで、毛利はすでに備前・美作へ兵を向けざるを得なくなっております」
官兵衛は戦況図の四国を指した。
「そこへ長宗我部まで毛利から離れる」
さらに摂津を指す。
「本願寺も明智殿に締め上げられている」
最後に播磨へ指を滑らせた。
「そして東からは、殿が迫る」
秀吉は口元を吊り上げた。
「なるほどのう。毛利は宇喜多だけでも厄介なのに、南の長宗我部まで失ういうことか」
「左様にございます。今は無理に毛利本領へ踏み込む必要はございません。宇喜多殿を支えながら備前・美作の境を押し、毛利に兵を吐き出させるのです」
秀吉は豪快に笑った。
「ええがね!
毛利が宇喜多を潰そうとすりゃあ、わしが助ける。
わしを止めようとすりゃあ、宇喜多が暴れる。
そのうえ四国の元親まで離れる。
こりゃあ毛利も忙しいわ!」
官兵衛は静かに頷いた。
「今は毛利を倒す時ではありません。
――毛利を、動けなくする時です」
秀吉は陣幕を押し開け、外の風を吸い込んだ。
「よし!まずは宇喜多を支えながら、備中へ圧を掛けるでよ。
官兵衛、段取り頼むわ!」
官兵衛は深く頭を下げた。
「はっ。ただちに」
播磨の風が荒々しく吹き抜け、秀吉の野心をさらに燃え上がらせていた。
*
勝浦城。
長宗我部元親は上段の間に座し、利三の到着を静かに待っていた。
やがて、城兵が声を張った。
「斎藤利三殿、到着!」
元親は目を細めた。
「……来たか。
石谷の縁者ゆうて聞いちょる。
どんな男か、見せてもらおうかの」
襖が静かに開き、斎藤利三が姿を現した。
利三は深く礼を取った。
「長宗我部元親殿。
この度はお目通りを賜り、恐れ入ります」
元親は利三をじっと見つめた。
「……おまんが、利三か。
石谷頼辰殿の弟君じゃと聞いちゅう。
廉子の実家筋じゃき、こうして会うがも、何かの縁じゃの」
利三はわずかに目を見開き、その後、柔らかく微笑んだ。
「はい。石谷家の縁にございます。
元親殿の御正室・廉子様とも、縁続きにございますれば」
元親は鼻で笑った。
「ほぉ……
なら話も通しやすいのう。
わしも石谷の縁者なら、他人とは思えんき」
利三は丁寧に頷いた。
「本日は、上様――織田信長公の御意をお伝えするため、明智光秀様より遣わされました」
元親はゆっくりと姿勢を正した。
「そうか。
日向守が窓口になっちゅうと聞いちゅう。
……まあ、織田と話すがは吝かではないがよ。
わしらは別に急いじょらん。
和睦が叶うなら、それはそれでええ。
叶わんなら――それもまた仕方ないき」
利三は静かに息を整えた。
「では――この勝浦城にて、長宗我部家と織田家、双方が納得できる道を探らせていただきます」
元親は頷き、利三へ手で座を促した。
「利三。
まずは座れ。
石谷の縁者なら、堅苦しい挨拶はもうええ。
今日は腹を割って話すき」
利三は深く礼をし、元親の正面へ静かに座した。
それを見届け、元親は書状を指で軽く叩きながら口を開いた。
「……日向守の書状は読んじょる。
それによると、まずは毛利と本願寺に対しては“曖昧な手切れ”、すなわち距離を置くだけで良い、いうわけじゃな?」
利三は静かに頷いた。
「はい。まずは停戦と、包囲網からの離脱だけで十分です。
いきなり毛利や本願寺と敵対するのは、元親殿も避けたいでしょう」
元親は鼻で笑った。
「ものは言いようじゃの。
そんなもん、あっちは敵対したとしか思わんき」
利三は落ち着いた声で返した。
「元親殿は四国を守るため、本願寺にも毛利にも援軍を出せない――
ただ、それだけのことです」
元親は利三を鋭く見た。
「それが詭弁じゃ。
場合によっちゃあ、四国が毛利と織田に挟まれることになる。
そんな危ない橋を渡るくらいなら、毛利と組んで織田と戦う方が、まだ分かりやすいぞ」
利三は一切動じず、静かに言葉を重ねた。
「織田は強うございます。
今後、四国と全面的にぶつかれば――長宗我部家もただでは済みますまい。
ならばやはり和議を目指し、四国を安堵された方がよろしいのではありませんか?」
元親は利三をじっと見据えた。
その目は、土佐武将としての警戒と、大名としての計算が入り混じっていた。
「……儂はその言葉を鵜呑みにできるほど、織田信長という男をまだ信用しきれちょらん。
儂が織田を信じられるように――織田は長宗我部に何をしてくれるがじゃ?」
勝浦城の上段の間に、潮風がそっと吹き込み、二人の間の空気がわずかに揺れた。
ここから先が、長宗我部と織田の本当の駆け引きの始まりだった。




