第二百七十五話 銭が動けば、城が立つ
翌朝の小松島は、昨日までとはまるで別の場所のようだった。
海城建設の現場では、人夫たちの怒号と材木の軋む音が、朝靄を突き破るように響き渡っていた。
「おい、そっちの梁をもっと上げろ!
今日中に二の柵まで組むぞ!」
「縄を持ってこい!
昨日の倍の速さでやるんだ!」
昨日まで怯えていた人夫たちが、今日は目を輝かせて働いている。
理由は単純だった。
――銭が動いた。
松之丞が千種屋堺支店から用意した二千貫の銭は、前金や褒美、資材調達の原資となり、瞬く間に小松島の現場へ流れ込んだ。
「百文の日当だってよ!」
「組で仕事を早く終えれば、さらに褒美が出るらしいぞ!」
「夜襲にも怯まず、大層働きゃ、銀一枚の褒美もあるらしいぞ!」
人夫たちの声は、昨日の怯えとはまるで別物だった。
銭は恐怖を上回り、銭は勇気を生み、銭は腕を動かす。
そして――銭は城を築く。
鬼兵たちも驚いていた。
「……昨日まであんなに怯えていたのに、信じがたいな」
「銭の力はすげぇな……」
赤鬼兵が呟くと、青鬼兵が笑った。
「城さえ完成するなら何も言わん。
ほれ、皆もっと働け働け」
海城の骨組みは、昨日より明らかに伸びていた。
材木の山は倍に増え、縄は新しいものが次々と運び込まれ、石灰の袋が白い煙を上げながら積み上がっていく。
蘭が走り回り、商人たちに指示を飛ばす。
「次の材木は午後までに!
縄は倍量でお願いします!
石灰は足りません、すぐに追加を!」
商人たちは蘭の勢いに押され、次々と荷を運び込んだ。
「蘭様、これで全部です!」
「追加の材木は夕刻に届きます!」
蘭は汗を拭いながら頷いた。
「ありがとうございます!
引き続きよろしくお願いいたします!
……姉様は凄いです」
その言葉どおり、明の策は戦場を変えていた。
昨日と変わったことは、たった一つ。
銭が流し込まれた。
それだけで、現場は大きく変わった。
昨日まで遅れていた海城は、今日だけで二日分の進捗を取り戻していた。
長政は高台からその光景を見下ろし、静かに息を吐いた。
「……明。
見事だ。本当に総大将を代わった方がいいかもな、ははは」
*
小松島の丘陵。
香宗我部親泰は、偵察から戻った兵の報告を受けていた。
「殿……海城の工事、昨日より倍は進んじょります。
人夫も増え、材木も山のように積まれちょります」
「倍……?」
親泰は眉をひそめた。
嫌がらせが効いていたはずだ。
昨夜まで、人夫は怯え、鬼兵は疲れ、工事は遅れに遅れていた。
(それが――倍?)
「……わしも見てみるがじゃ」
親泰は自ら丘の上へ歩を進めた。
海風が吹き抜け、視界が開ける。
そして――目に飛び込んできた光景に、親泰は言葉を失った。
「……なんじゃ、あれは」
昨日まで骨組みだけだった海城が、今日は二の柵まで組み上がり、材木の山は倍に増え、人夫が怒号を上げながら働いている。
鬼兵も人夫を鼓舞し、商人が荷を運び込み、縄と石灰が絶え間なく補充されていた。
それでいて、鬼兵の守りには隙がない。
力攻めで工事を止めることも難しそうだった。
まるで昨日までの戦場とは別物だった。
「殿……どう見ても、工事が加速しちょります」
「加速どころじゃない……倍速じゃ」
親泰は喉を鳴らした。
「……銭を、流し込んだがやな」
土佐の戦は地の利と嫌がらせ。
だが芋粥の戦は――銭だ。
銭が力を持つことは知っている。
だが、ここまで見せつけられるほどの銭を使う者は四国には今までいなかった。
親泰は素直に認めた。
「……まずいの。
こりゃ、まもなく城はできてしまうぞ」
中山田泰吉が息を呑む。
「殿……では、どうなさいます?」
親泰はしばし黙し、海城の伸びゆく骨組みを睨みつけた。
そして、腹の底から絞り出すように言った。
「これが……本州の戦い方か。
いくら積み込んだがや……」
泰吉が震える声で問う。
「退きますか……?」
親泰は首を横に振った。
「退かん。
退いたら、土佐者の名折れじゃ」
そして声を張り上げた。
「皆、諦めるな!
このまま妨害は怠るな!
嫌がらせは続けよ!」
兵たちが姿勢を正す。
親泰は続けた。
「兄者にはこれを正確に報告する。
急ぎ土佐へ走れ!」
伝令が駆け出す。
親泰は最後に、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。
「……勝てんなぁ。
こんな風に銭を使われたら敵わんき。
こりゃ、ほんまに城ができてしまうぞ」
海風が吹き抜け、香宗我部陣営には敗北の気配が漂い始めていた。
*
岡豊城。
香宗我部親泰からの早馬は、昼前には元親のもとへ届いた。
書状を開いた元親は、まず眉をひそめ、すぐに息を呑み、読み終わった途端に立ち上がった。
「……倍速で、築城が進んじゅうと……?」
土佐者が嫌がらせを続けても、芋粥は銭を流し込み、人夫を倍に増やし、鬼兵を動かし、海城は一気に形を成し始めている。
親泰からの書状にはそれが事細かに記されていた。
元親は書状を握りしめた。
「わしがこの目で見定めるしかないがじゃ」
家臣が慌てて止めようとした。
「殿、供の者を揃えますゆえ、しばしお待ちを――」
「大仰な支度はいらん。
近習だけ連れて、今すぐ出る。
小松島は四国の末を決める肝じゃ」
元親は馬に飛び乗り、岡豊城を飛び出した。
*
翌日、小松島。
海風が強く吹き、潮の匂いが鼻を刺す。
元親は親泰に案内されて丘の上に立ち、海城を見下ろした。
そして――
言葉を失った。
「……なんじゃ、あれは」
昨日まで骨組みだけだったはずの海城が、今日は二の柵まで組み上がっていた。
土塁は固められ、見張り台が増え、鬼兵が常時警戒し、人夫が怒号を上げて働いている。
材木は山のように積まれ、縄と石灰が絶え間なく補充され、海側からは九鬼水軍の補給船が次々と入っていた。
親泰が横に立ち、静かに言った。
「兄者……
これが、本州の戦い方じゃ」
元親は喉を鳴らした。
「……銭を、流し込んだがやな」
親泰は頷いた。
「はい。
三日前まで怯えちょった人夫が、一昨日から倍速で働いちょります。
こんな戦をされては、土佐の嫌がらせは効かんがぜよ」
元親は海城を睨みつけた。
「……小松島に拠点を築かれたな。
いや、今ならまだ血を流せば落とせるかもしれん。
じゃが……」
海城の中では、鬼兵が槍を磨き、人夫が材木を運び、商人が荷を積み上げていた。
その光景は、「今日落とさなければ、明日はもう無理」という現実を突きつけていた。
親泰が静かに言った。
「兄者……。
今なら、まだ落とせる目はあります。
じゃが、勝ち目は五分――いや、こちらの方が分が悪いかもしれん。
ここで兵を集めて攻め、それでも落とせなんだら最悪じゃ。
織田に『長宗我部、恐るるに足らず』と見切られる。
停戦の話にも響きますき」
「そうじゃな……相手は芋粥じゃ。
ここで兵をかき集めたところで、それより先に堅城を築かれてしまうかもしれん。
芋粥とは……戦わん方がええがじゃ」
元親は拳を握りしめた。
「……停戦を急がせるか」
(こんな戦い方、聞いたこともない……。
じゃが――これは本州の戦い方やない。
芋粥伊勢守の戦い方じゃ。
こんな奴とは、喧嘩せん方がええ。
織田すべてを恐れる必要はない。
まずは停戦に持ち込んで、芋粥だけを四国から離すがじゃ。
そのためにも……明智との話を急がせるべきじゃの)
海風が吹き抜け、元親の髪を揺らした。
「小松島は諦める。
今は一旦仕切り直しじゃ」




