第二百七十四話 女丈夫
小松島の仮陣の軍議は、重苦しい沈黙に包まれていた。
香宗我部親泰の嫌がらせは小さな傷しか与えない。
だが、その小さな傷が積み重なり、海城の工事は遅れ、鬼兵は疲れ、人夫は怯え――
誰も決定的な対策を出せずにいた。
そこで出たのが、銭袋で殴る芋粥流の戦い方だった。
だが、その案すらも、銭の調達に行き詰まっていた。
長政も鷺山も松之丞も蘭も、地図を囲んだまま言葉を失っている――
その中でただ一人、明だけが静かに前を見据え、その表情には何かを思いついた者特有の自信が宿っていた。
長政はその顔に気づき、軍扇を閉じて声をかけた。
「明、何やら策がありそうな顔をしているな」
明は迷いなく頷いた。
「はい!」
「義父上に無心するのか?」
長政が真っ先に思いついたのは、それだった。
鷺山も身を乗り出す。
「殿は明姫様には甘うございますからな。
城を築くために追加で銭が必要と訴えれば、許可をいただけるやもしれません」
だが明は首を横に振った。
「本来はそうあるべきかもしれませんが、それでは間に合わぬ恐れがあります」
長政が目を細める。
「間に合わぬ?」
明は静かに続けた。
「もし銭を父様に無心した場合、父様はご理解下さるとは思います。
ですが、大金を用意するには父様の一存では難しゅうございます。
必ず伊勢の母様へご相談なさるでしょう」
鷺山が苦笑した。
「確かに!
殿は奥方には頭が上がりませんからな。
今までも散々無駄遣いをしておりますゆえ、無断でこれ以上銭は使えますまい」
長政はむっとしたように鷺山を睨んだ。
「鷺山殿、無駄遣いは少々言い過ぎかと……」
鷺山は気まずそうに頭を掻いた。
そんなやりとりを横目に、明は淡々と続けた。
「母様も必要ならば銭は使っても良いと仰って下さるとは思います。
ですがそれでは時間がかかり過ぎます。
伊勢への往復期間中に和議が成立してしまえば……」
長政は息を呑んだ。
「……我らの築城が間に合わぬかもしれぬ。
そうなると四国の情勢において、織田が不利になる」
鷺山も深く頷いた。
「殿に頼れぬ……そうなると話が振り出しに戻ってしまいますな」
軍議の空気がさらに重く沈む。
そんな中で、明がふっと前へ一歩進み出た。
その動きは静かだったが、場の視線が一斉に彼女へ向いた。
明は胸に手を当て、はっきりと言った。
「このような状況にあればこそ、私は申し上げたのです。
――私にお任せください、と」
長政が軍扇を軽く持ち上げた。
「明、銭を集める方法が別にあると?」
明は迷いなく頷いた。
「はい。私は戦時勘定奉行です。
母様からも、戦場では好きにやるよう許しを得ています。
この私は――芋粥の信用を背負えるのです」
その言葉に、鷺山が息を呑んだ。
長政も身を乗り出す。
「具体的に申してくれぬか?」
明は静かに、しかし力強く答えた。
「はい。
芋粥家一の姫にして勘定奉行たる私の信をもってして――
千種屋に支援を要求します」
松之丞が目を見開いた。
明は続けた。
「松之丞。
この明の名をもって、すぐに千種屋堺支店に二千貫工面させなさい。
必ず芋粥家が利子と共に返済します」
松之丞は胸を張り、力強く答えた。
「は、はい!
芋粥家が返済を保証してくださるのであれば、千種屋も銭を工面できます。
義姉上の信があれば、二千貫であろうとも!」
明は頷き、すぐに次の指示を出した。
「松之丞、すぐに動いてくれますか?
そして蘭、二千貫は松之丞が必ず工面してくれます。
――手に入る前提で資材と人夫を集めてください」
蘭は胸を張った。
「はい!姉様、お任せ下さい!」
明は長政へ向き直った。
「長政様。
人夫の恐れを振り払ってください。
恐れず、よりよく働く者には褒美を約束してください。
総大将たる長政様にしかできぬことです」
長政は深く頷き、明を見つめた。
「心得た。
……お前が我が妻として支えてくれることが、これほど心強いと思えたことはない。
ありがとう」
明はわずかに頬を染め、しかし凛とした声で返した。
「いえ……そう言っていただけると私も嬉しゅうございます。
私は戦時勘定奉行として、銭を管理致します。
皆様、為すべきことを為してくださいませ!」
長政は軍扇を高く掲げた。
「おう!」
鷺山が手を挙げた。
「明姫様……俺は何か手伝えることはございませぬか?」
明はくすりと笑った。
「あら……利玄様のことを忘れておりました」
鷺山は肩を落とした。
「それは……ご無体な」
明は口元に手を当てて笑った。
「ふふふ。嘘です。冗談でございます。
利玄様にも大事な任務があります」
鷺山は背筋を伸ばした。
「はっ!何なりと!」
明は指を差した。
「鬼兵の指揮をおまかせします。
少しでも嫌がらせを止めてくださいませ!」
鷺山は拳を握りしめた。
「はっ!お任せあれ!
……若。
うかうかしておれませぬぞ。
明姫様はとんだ女丈夫にございます。
このままでは総大将の位を奪われますな」
長政は肩をすくめた。
「確かに……もう代わった方が良いかな?」
明は慌てて声を上げた。
「長政様、お戯れが過ぎまする!」
長政は笑い声を上げた。
「ははは!
いや、明。お前の策を採用する。
皆、最善を尽くせ!」
「「はっ!」」
軍議の空気は一変した。
重苦しい沈黙は消え、明の策によって、皆が為すべきことを得た。
*
軍議が終わるや否や、松之丞は仮陣を飛び出した。
海風を切り裂くように走り、九鬼水軍の小舟へ乗り込む。
「堺まで急ぐぞ!
義姉上の名を背負って行く以上、遅れは許されぬ!」
舟は紀伊水道を渡り、堺の湊へ滑り込んだ。
松之丞は濡れた草履のまま千種屋堺支店へ駆け込む。
店内にいた番頭たちが驚いて顔を上げた。
「わ、若旦那様!?
小松島におられるはずでは……」
松之丞は息を整えず、そのまま声を張った。
「千種屋番頭衆、聞け!
芋粥家戦時勘定奉行・明姫様よりのご依頼だ!
二千貫――ただちに工面せよ!」
番頭たちは一瞬固まったが、
「明姫様」と聞いた瞬間、空気が変わった。
「……二千貫、でございますか」
「そうだ!
芋粥家が利子を付けて必ず返却下さるそうだ。
安心して銭を用意せよ。
儲ける機会ぞ!」
番頭は深く頭を下げた。
「明姫様の信があれば、千種屋は安心して動けます。
ただちに手配いたします!」
その場で帳簿が開かれ、蔵の銭が改められ、取引先への使いが次々と走った。
千種屋堺支店の全力を挙げた、二千貫の工面が始まった。
松之丞は胸を張り、静かに呟いた。
「義姉上……必ず持ち帰りまする」
*
その頃、小松島では蘭が走り回っていた。
海城建設のための材木、縄、石灰、柵材――
必要な物資を片っ端から商人に押さえさせた。
「千種屋から二千貫が届きます!
代金は必ず色を付けて後払いします!
今すぐ材木を倍に増やしてください!」
商人たちは驚きながらも、蘭の勢いに押されて頷いた。
「蘭様がそう仰るなら……!」
*
蘭は小松島の町外れにある人夫集めの広場へ向かっていた。
そこには、香宗我部の嫌がらせに怯え、もう働きたくないと座り込む者もいれば、銭が出るなら考えると様子を伺う者もいた。
蘭は深く息を吸い、胸を張って広場の中央へ進み出た。
「皆さん!
小松島の海城は、皆さんの命を守る砦になります!」
人夫たちがちらりと蘭を見る。
その視線にはまだ不安が残っていた。
蘭は続けた。
「姉様――明姫様が、銭を用意してくださいます!
働きに応じて褒美も出ます!
そして……新たに働いてくださる方には、前金もお渡しします!」
「前金……?」
「本当に出るのか?」
蘭は力強く頷いた。
「はい!
芋粥家は銭に溢れた家です。
その銭で、皆さんに前金をお渡しできます!」
人夫たちの表情がわずかに変わった。
「……前金があるなら、やってみるか」
「家族に銭を持って帰れるなら……」
蘭は深く頭を下げた。
「どうか力を貸してください!
海城ができれば、皆さんの家族も守れます!」
その言葉に、数名の人夫が立ち上がった。
「……やるよ、姫様」
「俺も手伝う!」
「前金をもらえるなら、すぐにでも働く!」
蘭は胸を押さえ、安堵の息をついた。
「ありがとうございます!
では、こちらで名簿にお名前を……!」
蘭は新たな人夫を次々と雇い入れ、海城建設の人手は一気に増えていった。
*
夕刻。
仮陣の中央に人夫たちが集められた。
新たに雇われた者、嫌がらせに怯えていた者、それでも海城を築くために集まった者――
その全員の前に、長政が立った。
長政は軍扇を掲げ、力強く声を放った。
「皆の者!
この小松島は――四国の未来を決める地だ!」
人夫たちが顔を上げる。
「香宗我部は嫌がらせを続ける。
犬を放ち、矢を射かけ、火矢で資材を燃やす。
だが――それでも我らは退かぬ!」
長政は一歩前へ出た。
「働きに応じて褒美を出す!
日当はこれまでの倍――一人につき一日百文を支払う!
さらに組ごとに仕事を割り振る!
定めた仕事を早く終えた組には、別に褒美を出す!
夜襲にも怯まず勇を示した者には、銀一枚を与える!」
人夫たちの目が大きく見開かれた。
「百文……!」
「銀一枚だと……!?」
「そんな褒美、聞いたことがねぇ!」
長政は続けた。
「鬼兵は戦う!
物資を我らが滞りなく集める!
銭は有り余るほど持っておる!」
軍扇を高く掲げる。
「芋粥を信じて働け。
それがお前達をも裕福にする。
皆、力を貸してくれ!」
「お、おう……!」
「やるぞ!」
「海城を建てるんだ!」
人夫たちの声が、仮陣に響き渡った。
長政は静かに頷いた。
(明……お前の策が、皆を動かしてくれた)
芋粥はまさに再び銭袋で長宗我部を殴り倒そうとしていた。




