第二百六十九話 雑賀孫市強襲
芋粥軍の陣が三津寺砦を包囲している頃、その背後――
天満・渡辺・野田の砦方面では、鈴木重秀が密かに放った雑賀衆の主力、その中でも選りすぐりの精鋭が、闇の中を這うように進んでいた。
佐久間信盛の陣は、静けさの中にもこれまでにない覇気が満ちていた。
総大将である信盛が珍しく積極策に出て、本願寺を打ち破ろうとしていることが兵たちにも伝わっていた。
その静けさを破ったのは――乾いた、短い銃声だった。
ターン。
「……ん?鉄砲?」
佐久間軍の足軽大将・中村源七郎が眉をひそめた瞬間、彼の眉間が弾けた。
源七郎は後ろへ倒れ、血が地面へ散った。
「源七郎様!? 敵襲だ!!」
叫びが広がるより早く、二発目が飛ぶ。
ターン!
別の足軽大将が胸を撃ち抜かれ、そのまま崩れ落ちた。
ターン!
駆け付けた組頭も頭を横から撃ち抜かれ、足軽大将の亡骸へ折り重なるように倒れた。
「ど、どこから撃ってきておる!?
堺衆の音ではないぞ!敵襲じゃ!」
組頭たちが慌てて周囲を見渡すが、敵影はどこにも見えない。
その時――
佐久間軍の組頭の一人が、配下の伍長三人を呼び寄せ、指示を出そうとした瞬間。
ターン、ターン、ターン、ターン。
組頭とその配下の伍長たちが一斉に頭を震わせ、そのまま地面へ倒れた。
「伍長まで……! 狙われておる、狙われておるぞ!!」
兵たちが叫びながら散るが、散った先でまた銃声が響く。
ターン! ターン!
そこでも組頭や伍長が胸や首を撃ち抜かれて、崩れ落ちた。
「ぎゃあああっ!」
「ひ、ひとりずつ撃ち抜かれていく……!」
佐久間軍は混乱した。
誰も敵の姿を見ていない。
ただ、指揮官格だけが正確に撃ち抜かれていく。
まるで――
見えぬ死神が、指揮官の眉間だけを狙って歩いているようだった。
*
「も、申し上げます。
陣外縁の組頭が狙撃されて、そこに位置する卒が崩れ始めております」
佐久間信盛は陣幕の中で震えていた。
「ま、まさか……雑賀か……!?」
伝令はさらに続ける。
「組頭だけではなく、伍長まで狙われております」
さらに別の伝令も走り込んできた。
「も、申し上げます!
天満砦を囲んでいた足軽大将の中村様、高橋様、小林様が次々と狙撃され、中村勢・高橋勢・小林勢は指揮を失い、包囲網に乱れが見えます」
かつて木津地方で塙直政を討ち取った雑賀衆。
その恐怖が、信盛の胸に蘇る。
「殿! 足軽大将が三名、組頭が四名、伍長が十二名……
次々と撃ち抜かれております!」
「馬鹿な!?
もはや天満砦は包囲しているとは言えぬぞ。
城兵が打って出ればやられる。
一旦兵を退き、距離を空けよ!
どこから撃ってきておるのだ!?
敵影は見えぬのか!?」
「見えませぬ!
林の影から撃っているようですが、位置が定まらず……!」
その時、また銃声。
ターン!
陣幕のすぐ外で、佐久間軍の旗手が倒れた。
「くっ……!」
信盛は思わず身を縮めた。
(なぜじゃ、なぜこうなる。
明智も芋粥も上手くやっておる。
それなのになぜわしだけ!)
悔しさが胸を締め付ける。
*
雑賀衆は、まるで影のように動いていた。
天満の林の中。
渡辺の土塁の影。
野田の竹藪の奥。
その全てに、五十名ほどの精鋭が散っていた。
彼らは一斉に狙うのではない。
一人ずつ、確実に、指揮官だけを撃ち抜く。
ターン。
組頭が倒れる。
ターン。
伍長が倒れる。
ターン。
足軽大将が倒れる。
佐久間軍は、指揮系統が次々と崩れていった。
「殿! このままでは軍が動きませぬ!
砦の包囲から退かせようにも、指揮が通らず兵が動きませぬ!
討って出た守兵と斬り結んで、足軽にも被害が出ている模様!」
「わ、わかっておる!
だが……どうすればよい……!?」
信盛は震えながら叫んだ。
その時、ついに佐久間本陣の近くでも銃声が響いた。
ターン!
「ひぃっ!!」
信盛は屈みこんで軍議机の陰に隠れた。
(雑賀……奴らは……楼岸砦におるはず。
それが何故ここに。
……ぬぅぅ、まさかっ!
奴らめ、芋粥には勝てぬが、この佐久間には勝てると思うたか!
どいつもこいつもわしを虚仮にしおって。
この佐久間信盛、舐められるほど甘い男ではないぞっ!)
信盛は立ち上がって、怒りに任せて机を殴りつけた。
机は中央から割れて崩れ落ちた
「落ち着け、皆の者。
狼狽えたら佐久間はここで終わるぞ!
まずは砦より兵を退け。
状況が状況じゃ。
伍長を含め、指揮を継げる者はその場で一つ上の役を任せよ。
新たな指揮役のもと、兵をまとめて退かせるのだ」
「は!」
恐怖を怒りで押し潰したような目で、信盛はさらに続けた。
「全軍に申し伝えよ。
まずは雑賀の猿どもを根絶やしにせよ。
全ての林に火を放て。
雑賀の猿どもを炙り出せ!
出てきた者は問答無用で討ち取れ!
全ての関を封鎖せよ。
鉄砲を持つ者、身元が定かではない者。
詮議不要じゃ、その場で首を刎ねて晒せ」
「はっ!」
「この佐久間を虚仮にしたこと、後悔させてくれるぞ!」
*
撤退した佐久間兵たちは、何百人もの兵でそれぞれの林を囲み、その中へ油を撒き、松明を投げ入れた。
乾いた竹藪は瞬く間に火を噴き、林は赤い壁となって燃え上がった。
炎が林を呑み込むと同時に――その中から黒い影が飛び出した。
「出てきたぞ!雑賀だ!!」
「逃がすな、討ち取れ!!」
火に追われた雑賀衆が、煙に咳き込みながら林から飛び出す。
そのうち数名は、炎に追われて方向を誤り、佐久間軍の槍の穂先にかかった。
「ぐっ……!」
「一人討ち取ったぞ!」
だが――その数はわずかだった。
雑賀衆は、佐久間軍が自分たちを狩り始めた瞬間、重秀から受けていた命令に従った。
――鉄砲を捨てろ、百姓に紛れろ。
――関へは近づくな。しばしこの地に潜伏せよ。
――生き残れ。
火の中から飛び出した雑賀兵たちは、鉄砲をその場に投げ捨て、身軽になって一気に散った。
「追え!追え!!」
佐久間軍が追撃しようとしたが、雑賀衆は火と煙を盾にして、まるで影のように消えていった。
*
「くっ……討ち取った首はこれだけか?
関の封鎖をさらに固めよ!
一人たりとも雑賀を逃がすな!
紀伊へも石山へも抜けさせるでないぞ!」
佐久間信盛は歯噛みした。
しかし、伝令が駆け込んできた。
「殿!
雑賀衆の鉄砲が多数、林の中に捨てられております!
おそらく重秀が、狙撃手たちにこの地への潜伏を命じたものかと存じます
これでは探し出すのは困難を極めます」
「……潜伏、だと?」
信盛は息を呑んだ。
雑賀衆は、佐久間軍の反撃を受けて、火攻めの中で鉄砲を捨てて撤退した。
つまり――しばらくの間、鈴木重秀と雑賀の精鋭は、この石山戦線から退場したようなものだ。
「……そうか……」
信盛は震える拳を握りしめた。
(本願寺の最大の脅威の一つ、雑賀をしばしの間、封じることができよう……。
これはこの本願寺攻めにとって、大きな意味を持つだろう。
だが、雑賀を討ったわけではないのだ。
雑賀を一時退けた程度では、功と呼ぶにも弱い。
それと引き換えに失ったものは大きい。
もはや……)
信盛が膝を地につけ、崩れ落ちた。
(もはや佐久間は――戦えぬ……)
そして佐久間もまた、この戦線からの退場を余儀なくされた。




