第二百六十七話 木津の代償
岸和田を発した芋粥軍は、朝霧の中を静かに北へ進んだ。
秀政は政親に馬を寄せた。
「木津川口はどうだ」
政親は馬上で軽く礼をし、落ち着いた声で答えた。
「義兄上。
木津川口は我が黒鬼兵がすでに封鎖いたしました。
雑賀衆が使う舟はすべて焼き払い、渡し場も押さえております」
秀政は満足げに頷いた。
「手際がよいな」
政親は淡々と続けた。
「三津寺への海上補給は、これで完全に断たれました。
あとは義兄上が包囲を敷けば、砦は兵糧を食い潰すだけです」
秀政は政親の肩を軽く叩いた。
「よし。
我らは三津寺を囲む。
おぬしは木津川口を固め、雑賀の動きを見張れ」
政親は深く頷いた。
「はっ。
雷神の噂が広まっておりますゆえ、雑賀も容易には出てこれませぬ。
このまま締め上げれば、三津寺は必ず折れましょう」
秀政は馬首を返し、三津寺砦の方角へ進んだ。
*
三津寺砦・本願寺方
三津寺砦は、木津地方の中でも最も士気が高い砦として知られていた。
塙直政を討ち取ったという誇りが、兵たちの胸を支えていた。
だが――
芋粥軍が姿を見せた瞬間、その空気は一変した。
砦の上で、指揮を任されている本願寺方の将、竹口弥三郎が城壁から秀政の軍勢を見下ろした。
弥三郎には勇があり、守りを得意とする将だったが、雷神の噂に対しては打つ手がなかった。
「……来たか。芋粥伊勢守」
隣に控える門徒の一人が、震える声で言った。
「弥三郎様……
奴らは雷神を従えたと聞きまする。
摂津の者らは皆、震え上がっておるとか……」
弥三郎は唇を噛んだ。
「雷神など……所詮は噂よ」
その時だった。
砦の下で布陣を整える芋粥軍の黒鬼兵が、一斉に前へ進み出た。
黒漆の具足は陽光を吸い込み、兜の鬼面は歪んだ笑みを浮かべているように見えた。
門徒の一人が、喉を鳴らした。
「……あ、あれは……」
別の門徒が叫んだ。
「地獄の使いや……!
雷神の眷属が来たんじゃ……!」
その声は瞬く間に砦の上へ広がった。
「雷神の兵じゃ……!」
「黒鬼が来た……!」
「地獄の使いが我らを焼きに来た……!」
弥三郎は慌てて声を張り上げた。
「落ち着け! 鬼など、この世にはおらぬ。
人じゃ――芋粥の兵じゃ」
しかし門徒たちは聞く耳を持たなかった。
黒鬼兵の規律は異様なほど整っており、槍を構える動作は寸分の乱れもない。
その静けさが、逆に門徒たちの恐怖を煽った。
「……あれが雷神の兵か」
「天王寺を焼いたという……」
「雷神の怒りを背負っておる……」
弥三郎は喉を鳴らした。
かくいう弥三郎自身も、内心では鬼ではないと否定しきれていなかった。
もし自分があれを鬼と認めてしまえば、この戦は負ける。
その思いだけを支えに、黒鬼への恐怖を必死にかき消していた。
弥三郎自身、今すぐ黒鬼兵と斬り結べと命じられれば、躊躇したやもしれぬ。
守将ですら、その有様だった。
三津寺砦の士気は、すでにそこまで追い詰められていた。
「……芋粥の別働隊が木津川口を封じたと聞く。
海路が絶たれれば、兵糧は……」
門徒が震える声で言った。
「弥三郎様……
このままでは、ひと月も持ちませぬ」
弥三郎は声を低くして、返した。
「だが、出撃すれば雷神に討たれるやもしれぬ……」
門徒たちは互いに顔を見合わせ、誰も口を開こうとしなかった。
弥三郎はついに、弱気を隠しきれず呟いた。
「……守るしかない。
出れば雷神や手下の鬼どもにやられる。
籠もれば兵糧が尽きる。
どうすればよい……」
砦の空気は、すでに「戦う前から負けている」色を帯びていた。
秀政はその空気を遠目に感じ取り、馬上で静かに呟いた。
「囲めば落ちそうだな」
黒鬼の旗が一斉に翻り、芋粥軍は三津寺砦を包囲し始めた。
*
黒鬼兵の具足を見た三津寺砦の門徒たちは雷神の眷属と錯覚し、士気は地に落ちている。
その中で、十名ほどの砦の若い門徒が震える声で叫んだ。
「鈴木様に……鈴木重秀様に援軍を頼みに行きますだ!
背後を突いていただければ、前と同じように、まだ勝てまする!」
弥三郎は迷った。
だが、他に手はなかった。
「……この包囲の中を楼岸砦まで行ける者はおらぬ。
おぬしたちが行ってくれるか?」
若い門徒は深く頭を下げると、砦の裏手から決死の覚悟で駆け出した。
矢が飛び交う中を、ただひたすら走る。
黒鬼兵の包囲をすり抜け、木津川沿いの藪を潜り抜け、泥にまみれながら進む。
一人、また一人と討たれ、そして――夕刻、ようやく最後の一人が雑賀の陣へ辿り着いた。
雑賀の陣は静かだった。
鈴木重秀は焚火の前で鉄砲の手入れをしていた。
その背は、戦場の名将らしい落ち着きを湛えている。
門徒は泥だらけのまま膝をつき、声を振り絞った。
「鈴木様……!
三津寺が……三津寺が包囲されましただ……!
どうか……どうか背後を突いてくだされ……!」
重秀は鉄砲を置き、門徒を見つめた。
「よう来たな。
命を賭して走ったか」
門徒は涙を浮かべて頷いた。
「はい……!
鈴木様さえ動いてくだされば、皆……皆助かりまする……!」
重秀は静かに立ち上がった。
「……あいわかった。
背後をつく。
今より砦へ戻り、皆を安心させるが良い」
門徒は地に額をこすりつけるほど深く頭を下げた。
「ありがとうごぜえますだ……!
今から戻って、皆を喜ばせてやりまする!」
門徒は涙を拭い、再び砦へ向けて駆け出した。
その背は、希望に満ちていた。
やがて、藪の向こうへ姿が消えた。
門徒の姿が見えなくなったのを確認すると、重秀の副官が静かに口を開いた。
「匿ってやりましたらよかったものを。
今さら戻っても……死にに行くようなもの」
重秀は焚火の火を見つめたまま答えた。
「……死んでもらわねばならんのだ」
副官は眉をひそめた。
「と、申されますと……援軍は出さぬと?」
重秀は黙ったまま、手に持った鉄砲を見つめていた。
「妙な噂がある。
芋粥の本当の狙いは雑賀だ。
三津寺は釣り針の付いた芋虫よ。
迂闊に食いつけば、釣り上げられるぞ」
副官は息を呑んだ。
「芋粥は……真に雷神を従えたのでしょうか?」
重秀は苦笑した。
「わからん。
わしも半信半疑じゃったが……
何せ目撃情報が多すぎる。
雷神かどうかはさておき、それに連なる妖怪あたりを従えたやもしれんな」
副官は焚火の影を見つめ、震える声で言った。
「……恐ろしいですな」
重秀は鉄砲を手に取り、静かに銃身を眺めた。
「我ら雑賀兵を一人鍛え上げるには、雑兵十人を一人前にする以上の手間がかかる。
無駄死には一人たりとも許されぬのだ」
副官は静かに問うた。
「では……本願寺を見捨てるのですか?
本願寺から手を切るのですな?」
重秀は即座に否定した。
「馬鹿を申せ。
まだ本願寺は負けておらぬ。
なぜ手切りせねばならん。
我らは本願寺のために織田を討つ。
相手が芋粥ではないだけだ」
重秀は鉄砲を肩に担ぎ、焚火の向こうの闇を見据えた。
「我らはこれより――佐久間を壊滅させる」
副官は息を呑んだ。
「佐久間信盛を……?」
重秀は静かに頷いた。
「佐久間は負け続きで、負け癖がついておる。
我らは木津を失うのだ。
ならば、その代価を織田にも支払わせねばならん。
それが宿老の佐久間よ」
焚火がぱちりと弾けた。
「将から伍長に至るまで、兵を指揮する者全ての眉間を撃ち抜いてやれ。
それが出来るのが雑賀じゃ。
二度と佐久間を立ちあがれぬようにしてやる。
そして次は明智よ。
芋粥が雷神を従えたなら、我らはそれ以外を撃ち抜くのみ!」
雑賀衆は動かない。
三津寺は見捨てられた。
そして――
佐久間信盛の戦線へ、静かに死の影が忍び寄っていた。




