第二十六話 伊賀の森
伊賀。
国境を越えたあたりから、森の気配が変わった。
木は深い。
だが、鬱蒼としているわけではない。
風は通り、光も差す。
獣道もあり、人の手が入っていない森ではない。
それなのに――
「……弥八郎様」
若衆の一人が、声を潜めた。
「なんじゃ」
「……同じところを、歩いておりませぬか」
秀政は歩みを止めなかった。
「気のせいだ」
そう言いながら、内心では否定しきれずにいた。
「ここは忍の里にござりまする。
こ、これは……
伊賀の忍術というものでは……」
(……確かに、木々は似ている。
だが――似ているだけだ。
同じではない)
だが、人は森に入ると、
「違い」を見失う。
(忍術など存在せん)
秀政は、自分に言い聞かせる。
(これは奇術だ。
いや、心理誘導だ。
マジシャンが仕掛けるように
必ずトリックがある……)
だが――
「弥八郎様……」
今度は別の若衆が、震える声を出した。
「さっきも、この木を見た気がします」
指差された木は、
幹が二股に分かれ、根元が少し盛り上がっている。
確かに、見覚えがある。
(……いや)
秀政は、視線を巡らせた。
(森を見るな。
木を見ろ)
それでも、不安は拭えない。
「ひ……引き返しましょう?」
若衆の一人が、ついに口にした。
その瞬間、
恐怖が伝染した。
「そうじゃ……」
「同じ所を回っておる……」
「帰りましょう……」
秀政は、歯を食いしばった。
(まずいな。
このままでは、
人の心が先に折れる)
その時――獣の鳴き声がした。
一人の若衆が、耐えきれず駆け出した。
「ま、待て!」
秀政が叫ぶ。
だが若衆は、恐怖に駆られ、
元来た道へと消えた。
秀政は、舌打ちする。
「……追うぞ」
若衆たちと共に、後を追った。
しばらく走る。
息が上がる。
そして――
「……戻ってきた?」
若衆の一人が、呆然と呟いた。
目の前には、森への入口。
若衆たちは、完全に青ざめていた。
「な、なんとか森から出られました……」
「も、もう無理です……」
「ここは忍術の森です……」
誰も、再び足を踏み入れようとしない。
秀政は、静かに周囲を見回した。
(……視線を感じる)
確かに、人の気配がある。
だが、どこにも姿は見えない。
(トリックは必ずある)
秀政は、脇差を抜いた。
「進め!行かぬならここで斬るぞ」
仕方なく若衆も再び森へ入る。
誰にも気づかれぬよう、
特徴的な木の幹に、細く一本、傷を入れる。
そして、言った。
「仕方ない」
若衆たちが、こちらを見る。
「俺が忍術破りを使う」
「……忍術破り!?」
「弥八郎様、使えるので!?」
「あぁ、今よりこの迷い森は、
我らには効かぬ」
秀政は、真顔で言い切った。
「はいやぁ!!!」
それらしく気合を入れて叫んだ。
(馬鹿らしい……。
だが、こうでも言わねば動かん)
若衆たちは、半信半疑ながらも頷いた。
再び進む。
また、同じような景色。
「……また同じです!」
若衆が叫ぶ。
先ほどつけた傷がない
秀政は、内心で笑った。
(違う)
再び傷を二本つける。
こうして進むたびに傷をつけた。
また若衆が不安を口にし始めた。
だが、進んでいるのは確かだ。
(既に、傷は六本、
かなり奥へ来ている)
(木の配置を、
同じに見えるよう整えているのだ)
怯える若衆たちを見る。
(人は不安になると、
細部を見なくなる)
(忍者――
まるで手の込んだ奇術師だな)
さらに進む。
人の気配が、濃くなる。
そして――
唐突に、声が響いた。
「どこへ行きやる?」
女の声。
前方に、一人の女が立っていた。
頭巾をかぶり、
腰には短刀。
――尻には、狐の尾。
「ぎゃああ!!」
若衆が叫ぶ。
「妖狐じゃあ!!」
逃げ出そうとする若衆を、
秀政は首根っこを掴んで引き止めた。
「落ち着け」
冷静に言い放つ。
「織田の者だ」
女を真っ直ぐ見据える。
「依頼をしに来た。
頭領の元へ案内しろ」
女は、くすりと笑った。
「妾が、怖くないかえ?」
「あぁ」
即答だった。
(狐の尾など、
ただの作り物だ。
コスプレだ)
「いいから、頭領の元へ案内しろ」
女の目が、わずかに細まる。
その背後から、
中年の男が現れた。
木こりの姿。
だが――
(身のこなしが違う。
こいつが、見張りの下忍頭だな)
秀政は、若衆に合図した。
袋が開かれる。
中には、
ずっしりとした銀。
「本気の依頼だ」
男は、しばらく無言でそれを見つめ――
「……ついて来い」
短く言った。
その声には、
森と同じだけの重みがあった。
伊賀の闇が、
静かに口を開いた。
――この先にいる者の名を、後に知ることになる。
伊賀の忍びを束ねる男、藤林長門守の有力一門だった。
*
案内された先は、
屋敷と呼ぶには粗末で、
だが砦と呼ぶには静かすぎる場所だった。
木立の奥、
低い塀に囲まれた平屋。
門前で、足が止められる。
「用件を言え」
声は冷たい。
秀政は名を告げた。
「尾張、愛知郡郡代。
芋粥弥八郎秀政」
一瞬の沈黙。
「……帰れ」
即答だった。
「郡代如きに、
伊賀の門は開かぬ」
若衆が息を呑む。
(……まぁ、そう来るな)
秀政は、落ち着いたまま言った。
「ならば――
前金で百貫までなら、払える」
空気が、変わった。
門番の視線が、
一瞬、屋敷の奥へ走る。
「……待て」
それだけ言い残し、
門が開かれた。
奥座敷。
現れたのは、
年の頃四十ほどの男。
藤林分家、阿拝監物清常。
本家ではないため、中忍扱いだ。
だが、
目の据わり方が違う。
「ほぉ……」
男は、秀政を値踏みする。
「郡代が、
いきなり銭を出すとはな」
「何が言いたい?」
「武家は、まず威を語るものだが?」
秀政は、肩をすくめた。
「俺は大名ではない。
威も、兵も、足りん」
しっかりと阿拝監物を見る。
「だが――
金と目的は、はっきりしている」
阿拝監物は、口角を上げた。
「話は早いな」
「我ら藤林阿拝家が、
総力で支えるとなれば――」
阿拝監物は、さらりと言う。
「年五百貫」
若衆が、思わず息を吸った。
秀政は、眉一つ動かさない。
「それは、
阿拝家総出での“全面支援”だな」
「そうだ」
「俺は――
そこまでの身分ではない」
阿拝監物が、少し笑った。
「では?」
「中堅を五人ほど、借りたい」
「……」
阿拝監物は、少し考え――
「前金五十貫。
一人三十貫の年百五十貫だ」
金額を即答した。
(高い。
これでは義父殿に叱られるな)
「それは無理だ」
阿拝監物の眉が、ぴくりと動く。
秀政は、続けた。
「条件を変える」
「中堅は一人でいい。
その代わり――
若手を四人付けろ」
あからさまに阿拝監物に不快感が現れる。
「ただし」
秀政は、はっきりと言った。
「中堅に、
若手を育てさせろ」
「……ほぉ」
「若手が中堅まで育てば
また若手と代えてもよい。
その代わり安くしろ」
阿拝監物は、
じっと秀政を見つめた。
先ほどの不快感は消え失せている。
しばらくして――
声を出して笑った。
「よかろう」
「前金三十貫。
若手は十貫、年七十貫」
「分かった。
それでいい。ただし……」
阿拝監物が黙ったまま秀政を見つめる。
「若手を無駄死にさせるなよ。
育てろ、必ずだ。
お前達、忍は人の命を軽視しすぎるからな」
「承知した。
師範として腕の立つ、
熟練の中堅どころを用意する」
秀政は笑みを見せて、前金と一年分を
合わせて百貫渡した。
阿拝監物が受け取った後、上機嫌で語り掛けた。
「珍しいな。
武家は忍を虫か何かだとでも思っている。
腕の立たぬ若い忍は死んでも、
すぐに別の代わりが現れるとな」
秀政が少し驚いた表情をした。
「忍とて人の子よ。
我が子を無下に死なせとうない」
「そ、そうか。すまなかった。
酷いことを言ったな」
「責めているのではない。
お主は育てよと言う。
ならば安心して預けられるというものよ」
(忍も人の子、確かに当たり前か)
「それにだ。
他人の金で育ててもらって力をつけて返してもらう。
こちらにも利がある。
特別に生きがいい若衆を送ってやろう」
「あぁ、頼むぞ」
(あ、そう言う考えもありか。
俺達の時代では育てるのが当たり前だからな。
妥協しただけだったが、
有望株を借りられるなら御の字だ)
阿拝監物は、すっかり上機嫌だった。
「気に入ったぞ、郡代。
有事は我らを頼るがいい」
「それは助かる。
では俺は戻るとする」
「三日の内には選び、愛知郡代官所へ派遣する」
そうして、秀政は伊賀の里を後にした。
伊賀の森は、
静かに背後で息づいていた。
忍びは、
雇われた。
だが同時に――
育てられる場所を、得たのだった。




