第二百六十五話 本願寺攻め参戦
岸和田城の城門が見えてくると、秀政は馬上で軽く息を吐いた。
安土での緊張がようやくほどけ、胸の内にわずかな安堵が広がる。
城内へ入ると、政親がすでに待ち構えていた。
腕を組み、どこか心配そうな顔で秀政を迎える。
「義兄上……問題はありませなんだか?
叱られましたか?」
秀政は思わず吹き出した。
「いや、まったく叱られなんだ。
殿は雷神の仕組みに興味津々でな。
怒るどころではなかったわ」
政親は目を丸くした。
「大殿様らしいですね」
秀政は肩をすくめた。
「天王寺砦の勝利で機嫌はすっかり直っておられた。
雷神の顔をどう浮かべたか、どう雷撃を落としたか……
その話ばかり聞かれたわ」
政親は安堵の息を吐き、胸を撫で下ろした。
「それは……何よりです。
では、長宗我部の件は?」
秀政は頷いた。
「うむ。
元親を飼い犬に仕立て上げる件、しばし任せるとのことだ。
もし飼いならせぬと分かれば、容赦なく討て――
そう仰せだったがな」
政親は苦笑した。
「これも殿らしいお言葉ですな」
秀政は続けた。
「それと、本願寺攻めの許可もいただけた。
光秀と組め、好きにいたせ――と」
政親の目がわずかに輝いた。
「では……本願寺戦線へ本格的に動けるのですね」
秀政は政親の肩を軽く叩いた。
「そうだ。
さっそくだが攻めるぞ、政親。
今なら――我らの背中には雷神がおるからな」
政親はその言葉に、静かに笑った。
「雷神を背負って戦う芋粥軍……
摂津の者たちも震え上がりましょうな」
秀政は頷き、城内へ歩を進めた。
「本願寺を揺さぶるには、今が最良の時だ。
雷神の噂が広まった今なら、兵の心は容易く折れる」
「そうですね。
義兄上の背に雷神がある限り、摂津は必ず揺らぎましょう」
秀政は政親の言葉を待つように、地図の上へ視線を落とした。
「さて政親……どこから攻めるがよい?」
問い終わるより早く、政親は間髪入れずに答えた。
「木津の三津寺砦でしょうな」
秀政が片眉を上げる。
「三津寺か。理由を聞こう」
政親は北側の木津川口を指で叩いた。
「これまでも、佐久間殿が力攻めや兵糧攻めを試みたそうですが……
落とせなんだようです」
秀政は小さく息を吐いた。
「佐久間殿でもか。守りが堅そうだな」
政親は続けた。
「しかも――かつて塙直政殿が討死なされました。
あの塙殿を討ち取った砦として、本願寺方の士気は今でも高うございます」
その言葉に、秀政の目がわずかに細くなる。
「強い砦から落とす……そういうわけか」
政親は静かに頷いた。
「はい。
北側戦線は今、織田方が押され気味。
本願寺は“塙直政を討ち取った砦”として、木津地方の砦に誇りを持っております。
士気は高く、兵も強気でございましょう」
秀政は地図を見つめたまま、指先で三津寺砦の位置を軽く叩いた。
「だからこそ――
ここで芋粥、というわけか?」
政親は秀政の横顔を見て、言葉を重ねた。
「はい。雷神を背負った芋粥が相応しかろうかと」
秀政はゆっくりと顔を上げた。
政親の目は真剣で、どこか期待を含んでいた。
秀政は口元に笑みを浮かべる。
「そうだな。
雷神の噂が摂津に満ちておる今なら、木津の兵も心が揺らぐやもしれぬ。
それに落とした時の功も大きい」
政親は深く頷いた。
「はい。
雷神様が芋粥に味方したという噂は、本願寺方にも広まっております。
三津寺砦や楼岸砦の兵は、雷神の名を聞けば震えましょう。
そこを落とせば、仮に四国攻略や元親の調略に手間取ろうとも、十分こちらで功を挙げられます」
秀政は立ち上がり、政親の肩を軽く叩いた。
「よし、決まりだ。
まずは三津寺砦を落とす」
政親の目が輝いた。
「塙殿の弔い合戦にもなりましょう」
秀政は頷き、廊下へ歩を進めた。
「実際には雷神はおらぬ。どう戦うか……だな?」
政親は地図の前で静かに息を整えると、秀政へ向き直った。
「義兄上。策はございます」
秀政は政親を見つめると、軽く顎を引いた。
「聞かせよ」
政親は地図の木津川口へ指を滑らせた。
「策とは言いましたが、難しいことではございませぬ。
基本を押さえるだけです。
三津寺砦は補給路の大半を海上に依存しております。
まずは木津川口へ水軍を展開し、海路を干上がらせる。
これが第一です」
秀政は頷き、砦周辺の田畑へ視線を移した。
「砦周辺の田や井戸も押さえるべきだな」
政親は即座に同意した。
「はい。さらに効果的です。
これまでは士気が高すぎて、いくら兵站を締め上げても崩れず、押し切れなんだ状況でした」
秀政は指先で三津寺砦の位置を軽く叩いた。
「元来、人は食が細れば不安になるもの。
だが、これまでは“塙直政を討ち取った砦”として誇り高く、兵糧を締め上げても持ちこたえた。
そうして攻めあぐねている内に、楼岸砦から鈴木重秀率いる雑賀衆に背後を突かれ、こちらが返り討ちに遭っていた。
違うか?」
政親は深く頷いた。
「その通りです。
しかし今回は、その雑賀が動かないでしょう。
あの者らは雷神を警戒しております。
怪異に敏感な集団ゆえ、こうした噂には非常に弱い」
秀政は口元に笑みを浮かべた。
「今なら、ひと月ふた月もあれば三津寺砦を落とせそうだな。
念のため、噂を流せ」
政親が首を傾げると、秀政は続けた。
「芋粥とて、雷神は何度も呼べるものではない。
さればこそ、雑賀が出てくるのを待って、三津寺と雑賀の双方を一度に叩く機会を狙っているようだ――とな。
これなら、我らが三津寺を締め上げて雑賀をおびき寄せようとしているように聞こえよう」
政親は目を細め、感嘆の息を漏らした。
「相変わらず義兄上は、人の心を突くのが上手いですね。
その噂を聞けば、出たくても雑賀は出てこれませぬ」
秀政は地図を閉じ、立ち上がった。
「そして――雷神と空腹で心が折れた時に三津寺を落とす。
もとより各個撃破が狙い。雷神は重秀を怯ませるための小道具にすぎん」
政親は膝をつき、深く頭を下げた。
「はっ! 流言はお任せください」
秀政は政親の肩を軽く叩いた。
「頼んだぞ、政親。
雷神はもう空にはおらぬ。
だが――噂の雷神は、まだ我らの背におる」
*
佐久間の陣。
佐久間信盛が陣幕の中で俯き、独り腰を下ろしていた。
そして深く息を吐いた。
(……殿が、芋粥の本願寺参陣を正式に認められたか)
その報せを聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
味方である芋粥秀政が本願寺戦線へ入る――これは織田方にとっては大きな力となる。
それは分かっている。
分かっているのだが、佐久間の胸の内は穏やかではなかった。
(わしが……落とせなんだ木津地方を、芋粥が落とすやもしれぬ)
木津一帯。
三津寺、楼岸、そして木津川口――どれも佐久間が長年苦しめられた難所である。
兵糧攻めも効かず、力攻めも跳ね返され、雑賀衆の背後突きで幾度も痛手を負った。
塙直政が討たれたのもこの地。
織田家の恥辱とも言える戦線。
(わしは……この地を落とせなんだ)
その事実が、胸の奥で重く沈む。
そして今、雷神の噂を背負った芋粥秀政が摂津へ戻る。
(……芋粥なら、落とすやもしれぬ)
その可能性が、佐久間の胸を締め付けた。
味方である。
織田家のために戦う同志である。
芋粥が勝てば織田が勝つ。
それは理解している。
だが――
(出来れば……落とせんで欲しいと、思うてしまうわしの心よ)
佐久間は自らの胸に手を当てた。
(狭量よな……)
自嘲の笑みが漏れる。
(わしは織田家の古参。
殿のために戦う身。
それなのに、味方の功を恐れるとは……)
拳を握りしめた。
(だが、芋粥は殿の期待を背負う男。
わしがどう思おうと、あやつは前へ進む)
佐久間はゆっくりと立ち上がり、陣帳の外の旗を見つめた。
(……ならば、わしも前へ進むしかあるまい)
胸の奥のざわつきは消えぬ。
だが、それでも歩みを止めるわけにはいかない。
(この狭量も、わしの一部よな……
だが、それでも織田のために戦う。それだけよ)
佐久間は陣幕を押し開けた。
「諸将を集めよ。木津は芋粥に任せるぞ。
我らは天満・渡辺・野田の砦を攻める!」
胸の奥のざわつきは消えていない。
それでも佐久間信盛は、織田の将として再び動き始めた。




