第二百六十話 雷神
三月十一日早朝。
夜明けとともに空は一面の青に染まり、雲ひとつない晴天となった。
念のために天候に詳しい者たちへ確認させたが、揃って今日は崩れぬと告げた。
「ここにきて長宗我部に逃げられるわけにはいかんからな。
よし、法螺貝を吹け。旗指物を前に出せ。
今日こそ芋粥が動くと知らしめよ」
秀政の声は陣中に響き渡り、次の瞬間、芋粥軍一万の軍勢が一斉に動き出した。
法螺貝の音が高く鳴り響き、芋粥の鬼兵たちが槍を前へ突き出して進んだ。
旗指物が風を受けて大きく揺れた。
天王寺砦の大手門を取り囲むように布陣が締まり、長宗我部軍に向けても同様に距離を詰める。
その動きは、まるで総攻めの前兆のように見えた。
*
天王寺砦の南方。
長宗我部の陣営では、芋粥軍の突然の動きに兵たちがざわめき始めていた。
親泰が元親の元へ駆けつけながら叫んだ。
「兄者! 芋粥が動いたぞ!」
元親は軍扇を握りしめながらも、そのまま芋粥軍の陣を鋭い目で見据えた。
「……うむ。落ち着け、親泰。
見極めてやろうぞ、芋粥秀政」
元親の声は低く、しかしどこか愉快そうでもあった。
親泰は歯を食いしばりながら言った。
「兄者、こりゃ本気で来るがか……?」
元親は軍扇を軽く叩いた。
「どうかのう……
芋粥は派手好きの男じゃ。
さすがに今日こそは何か見せてくれるかもしれんぞ」
長宗我部の兵たちは武具を握り直しながらも、芋粥が何を見せるのかと陣の向こうから目を離さなかった。
*
芋粥軍の中から、特に声の通る兵が選ばれ、天王寺砦門前、長宗我部勢前線、織田友軍の前線に立って、しっかりと息を吸った。
かねてより申し付けられていた口上を、各所で同時に大声ではっきりと述べ始めた。
「皆の衆、待たせたな。
よう聞け。よう見よ。
これより芋粥軍が雷神の力を借りて天王寺砦を粉砕せん!
芋粥は虚言を申さぬことを、ここに思い知れ」
それを聞いた兵たちは身を固くした。
ついに芋粥が御教書の通り、その力を証明しようとしている。
誰もが次の瞬間を瞬きすら惜しんで待ちわびた。
再び芋粥軍から法螺貝が鳴り響いた。
天王寺砦の南西、芋粥の陣より十町ばかり隔てた小高き丘――茶臼山。
砦を見下ろす位置にあり、古来より物見の要として知られる。
頂は開けて風を受けやすく、そこからは旗の動きも陣の変化も、遠目ながらはっきりと見通せる。
この日、茶臼山の頂には伊賀忍軍が潜み、その合図を待っていた。
法螺貝の音が消えた頃。
茶臼山の頂で大太鼓が鳴った。
その低音は山肌に響き、砦へと届いた。
ひと呼吸置いて、茶臼山と砦の中ほどに潜む忍びが、隠しておいた太鼓を叩いた。
ドォン……
ドォォン……
ドォォォン……!
音は段階的に近づき、まるで雷鳴が山から砦へ向けて降りてくるかのようだった。
砦の兵は震え上がった。
「なんじゃ?何が起きる?雷神の力と申したか?」
砦の兵たちが不安に駆られる。
そこに明智軍の中から大声が上がった。
これも秀政と光秀の間で取り交わした策の一環で、明智軍の中から、最も声の通る兵が選ばれていた。
「あれは何じゃ!?見よ、茶臼山の方じゃ!」
皆が一斉に茶臼山を見た。
茶臼山の上空には大きな人の顔が浮かんでいた。
「ら、雷神じゃあ!!」
再び明智軍から声が上がる。
そうすると今度は天王寺砦や下間勢、長宗我部勢からも口々に叫びが上がる。
「ら、雷神がおるぞ!!茶臼山じゃあ!」
「空に目と鼻と口が浮かんでおる!!」
「なんじゃあれは!?不気味じゃあ!」
それは巨大な凧だった。
一つの凧が複数名によって曳かねばならぬほどの、異様な巨大さだった。
空色に塗られた大凧が茶臼山の上空に複数浮かんでいた。
それぞれに右目、左目、鼻、口、右角、左角。
凧の地色と糸は空の青に紛れ、天王寺砦から見れば小さくはあるが、目や鼻だけが空中に浮かんでいるようにはっきりと見えた。
実際にはそれぞれの凧は大きく距離を取って飛ばしている。
それが天王寺砦の方向から見た時だけ、一つの巨大な顔に見えるよう、位置を合わせて揚げられていた。
まさに伊賀の秘術とも言える凧術である。
その扱いはひと月の訓練によって、一糸乱れぬ動きを示していた。
さながら空中に浮かぶ福笑いである。
秀政はそれを見てほくそ笑んだ。
(ふ、浅野。やるな。上出来じゃ。
まさに戦国のドローン作戦といったところか)
*
「な、なんじゃあれは?まっこと雷神じゃと!?」
さすがの親泰も度肝を抜かれ、目を見開いていた。
親泰でさえもそうなのだ。皆が茶臼山の上空に目を奪われていた。
兵たちの視線が茶臼山上空に釘付けになっている間に、芋粥軍の忍び衆が火薬大樽を二樽、天王寺砦の城壁の一角に隠れて設置した。
そして多数の煙幕が焚かれる。
「な、なんじゃ?煙幕!?」
兵たちが煙幕に視線を向けた。
その間にも導火線の火が樽へ向かって走った。
ドォォォン……!
大音響と共に天王寺砦の城壁が消し飛んだ。
「な、なんじゃ?!何が起きた?!」
兵たちは何が起きたか全く理解ができない。
そんな中、再び明智軍の中から大声が響いた。
「み、見よ!雷神様がお怒りじゃ!!」
再び皆の視線が茶臼山の上空に注がれる。
確かに空に浮かぶ雷神の目が大きくつり上がっていた。
凧の角度を微妙に調整して、目の傾きだけで怒りの表情に見える。
「ま、まことじゃ!?雷神様がお怒りじゃ!?」
「あな恐ろしや、何事じゃこれは!?」
「一撃じゃ!一撃で城壁が崩されたぞ!」
天王寺勢も長宗我部勢も下間勢も誰もが恐怖を感じた。
そんな時に再び先ほど吹き飛んだ城壁の隙間に煙幕が焚かれて様子がうかがえなくなった。
「な、何が起きるんじゃ!?」
そこにいる者たちは煙幕と空に浮かぶ雷神の顔を交互に見上げ、次に何が起こるのか分からず動けなかった。
茶臼山にいる忍びが南蛮の遠眼鏡を使って、じっと芋粥陣を観察している。
芋粥本陣には白旗指物が多数掲げられているが、その中に二本異なる色の旗指物が含まれていた。
白旗の中にある赤旗と黄旗の内、赤旗が倒されて見えなくなった。
気にしていなければ気づかない変化だった。
だが、これこそが天王寺砦と茶臼山で時を合わせるための合図でもあった。
その途端に再び茶臼山から太鼓が鳴り響く。
それは中継地点の太鼓でも繋がって、再び低音が近づいてくる錯覚に襲われた。
「ま、またくるぞ!?」
天王寺砦の兵たちは祈るような顔で茶臼山の雷神を仰ぎ見た。
煙幕の中では、伊賀忍びたちによって、導火線に火を点けられた炸裂特殊大樽爆弾が、簡易的に木で組まれた樽落としの斜路台の上から城内に向けて転がされた。
火のついた六樽が、一斉にそれぞれ異なる方向へ転がっていった。
ドォォォン……!
ドォォォン……!
ドォォォン……!
ドォォォン……!
ドォォォン……!
ドォォォン……!
城内で一気に大樽爆弾がさく裂した。
この爆弾には油や松脂、鉄片や石が含まれており、方々から火の手が上がり、飛び散った破片によって柵や櫓も次々と損壊した。
「ら、雷神じゃあ……。
もはやこれは……神仏の怒りとしか思えん……」
この光景は、敵の隊長格から戦意を奪うにも十分だった。
天王寺砦の兵たちは皆、燃え盛る炎の中、腰を抜かし、その場から立ち上がれぬ者まで続出した。
再び声が挙がる。
「雷神様がまた怒っておられる!!」
実際に皆が注目する中で、雷神の両目が徐々につり上がっていった。
大空に浮かぶ動く顔。
誰もが目を離せなくなった。
そこへ今度は城門の辺りにも煙幕が発生した。
天上の顔、そして煙幕。
もはや何を見たら良いのかわからず、顔を交互に動かす兵たち。
その煙幕に隠れて残りの火薬大樽二樽を忍びたちが城門前に設置し、導火線に火を点けた。
同時に白旗の中の黄旗が倒れた。
それを合図に大凧を操る忍びたちが糸を持つ手に力を込めた。
ドォォォン……!
再び大樽爆弾が破裂して、城門が吹き飛んだ。
それと同時に大凧の表裏をひっくり返した。
裏側には骨組みも含めて全てが空色に塗られており、爆発によって目を離した一瞬のうちに、遠目からは目鼻が消え失せたように見えた。
そしてゆっくりと大凧を地面に向けて引き寄せた。
「ら、雷神様がお隠れになった……」
腰が抜けたままの兵たちは、そう呟くのが精一杯だった。
明智光秀が大声で檄を飛ばした。
「全軍、天王寺砦へ総攻めせよ。
雷神様は織田の味方じゃ、門は破れたぞ!」
一斉に織田軍が天王寺砦に雪崩れ込んだ。
大半の本願寺兵はまともに抵抗することもなく、次々と織田に降っていった。
光秀も馬上で燃え盛る天王寺砦へと進む。
「おのれぇ!織田め!幻術など使いおって!
神仏は我らの味方ぞ!
ふざけるでないわ」
その大声は天王寺砦の守将・道祐のものだった。
大長刀を振り回して仁王立ちしていた。
「さぁ、かかって参れ!
わしは幻術には惑わされん。
さぁ!さぁ!参れ。地獄の道連れにしてやるぞ!」
光秀は冷静にそれを見つめながら小さな声で命じた。
「鉄砲をこれへ。
死を覚悟した者とはまともに斬り結ぶな。
余計な犠牲が出る」
家臣から鉄砲を受け取ると、光秀は馬上から道祐へ狙いを定めた。
そして大長刀を振り回しながら喚き散らす道祐に向けて一発鉄砲を放った。
過たず道祐を撃ち抜くと、天王寺砦の戦は終わりを告げた。




