第二百五十九話 静かなる芋粥
岸和田城の城門前は、秀政の到着を前に静かな緊張に包まれていた。
白鬼百騎が整列し、城兵たちも姿勢を正して待ち構える。
その前に――
蘭、松之丞、綾芽の三人が立っていた。
蘭は淡い水色の小袖に身を包み、姫としての気品を保ちながらも、戦場の中での凛々しさを示していた。
松之丞は紋付に身を固め、千種屋次期当主としての覚悟を宿した表情で隣に立っていた。
その傍には綾芽と白鬼の将たちが侍り、周囲の警戒を怠らない。
やがて伊勢勢一万の先頭を進む秀政の軍旗が城門前に到着した。
秀政が馬を降りると、三人は同時に深く頭を下げた。
「父様、お待ちしておりました」
蘭の声は澄んでいて、しかし誇らしさが滲んでいた。
松之丞も続く。
「義父上。
ご所望の荷はすべて完成し、城内の物資庫へ運び込んでございます」
綾芽は静かに膝をつき、白鬼百騎を代表して言葉を添えた。
「殿。白鬼と伊賀より連れ参った忍びたちが警戒しておりますが、特に変わった点はございませぬ」
秀政は三人を見渡し、わずかに口元を緩めた。
「……よくやった。
案内せよ」
*
蘭が先頭に立ち、秀政を城内の物資庫へ案内した。
岸和田城の物資庫は、米俵、塩俵、味噌樽、干物、布反物――
戦場へ向かう軍勢を支える物資が整然と積まれていた。
その中に、他の兵糧とまったく同じように見える樽が並んでいる。
しかし――
そのいくつかは、秀政が構想した“大樽爆弾”だった。
木肌は均一に削られ、鉄の箍は寸分の狂いもなく締められ、内部構造は秀政が口頭で伝えた通りに再現されている。
だが外見は、米や味噌を入れる普通の樽と何ら変わらない。
秀政は一つひとつの樽を見て回り、指で木肌をなぞり、箍の締まり具合を確かめた。
職人に内部構造を確認しながら、ゆっくりと頷いた。
「良いな。これならば多少転がせよう」
蘭は両手を胸元で重ね、松之丞は拳を握りしめ、綾芽は秀政の表情から目を離さなかった。
やがて秀政は三人の前に戻り、はっきりと言った。
「……見事だ」
蘭は胸に手を当て、松之丞は誇らしげに背筋を伸ばし、綾芽は目を伏せて礼をした。
秀政は続けた。
「蘭。
お前の働きがなければ、これは形にもならなかった。
よくやった」
蘭は深く頭を下げる。
「父様……ありがとうございます」
秀政は松之丞へ視線を移す。
「松之丞。お前もだ。よくやった。
これで芋粥も千種屋も安泰だ」
松之丞は力強く答えた。
「はい。蘭様と共に、今後とも必ずお役に立ちまする」
秀政は満足げに頷き、皆に向けてはっきりと伝えた。
「……これより策の子細を伝える。
諸将を集めよ」
*
秀政は岸和田城の広間に諸将を集め、天王寺砦攻めに向けた段取りを一つひとつ伝えていった。
兵糧の積み方、進軍の順序、大樽爆弾をどの荷車に紛れ込ませるか。
実際に使用する際の方法まで、その全てを秀政は諸将へ細かく指示した。
同時に、明智光秀・佐久間信盛の両将へは、今回の策の全貌は、事前に忍びを使って口頭で伝えさせた。
敵と同じく、味方が度肝を抜かれるわけにはいかないからだ。
実際に天王寺砦を落とすのは明智・佐久間の両将である。
秀政はあくまで長宗我部軍を抑え、その背後を封じる役目を担う。
芋粥軍は三月七日、岸和田を出立し、三月八日以降、快晴となった日に策を実行することとなった。
出陣に向けて城内が慌ただしくなる中、秀政の指示を受けた伊賀忍びの一団が商人に扮し、荷車を連ねて茶臼山へと向かった。
茶臼山では、別働の隠密がすでに人払いを済ませており、あらゆる手段で周囲には誰一人として近づかせないようにしていた。
三月七日――
芋粥軍は万事の準備を整え、堂々と岸和田城を出陣した。
*
天王寺砦の南方、長宗我部の陣営。
元親は軍扇を膝に置き、遠く岸和田方面の空をじっと見つめていた。
「ついに来たか、芋粥……」
その声は低く、しかしどこか愉快そうでもあった。
「結局、変わったことは何も起きんかったな。
雷神巨砲に代わる大筒や投石機は、どこにも見当たらん」
親泰が膝を進めて答える。
「兄者。岸和田を探らせている者からも、それらしき大筒は見当たらんそうじゃ」
元親は眉をしかめた。
「ほいたら今回は、大筒や投石機ではない……ちゅうことか。
なら油ぶっかけて火攻めか、火薬で城門ぶち壊すか……そんなとこやろかの?」
親泰は眉を寄せた。
「油断はならんぞ。
油も火薬も、普段の荷と見分けがつかんき」
元親は軍扇を軽く叩いた。
「じゃが、それでは巨砲ほどの衝撃はない。
芋粥は派手好きの男じゃ。
あいつが“地味な策”で済ますとは思えん」
親泰は苦笑した。
「まっこと読めんのぅ……兄者。
しかし、わしらはどう動く?
天王寺攻めの総攻めが始まるかもしれんぞ」
元親は肩をすくめた。
「どうもこうもないわ。
わしらはもうじき田んぼへ戻らにゃならん。
本願寺は自力で守ってもらうほかない。
あくまでわしらは芋粥の“反証”を見届けるためにここにおるだけじゃ」
親泰は笑った。
「そうじゃな……
他愛もない攻めなら笑うてやらにゃならんしな。
巨砲のはったりの方が、まだましじゃったと」
元親は立ち上がり、
天王寺砦の方角を鋭い目で見据えた。
「甘う見るな。
わしらは普段と変わらず前面の防備を固めよ」
親泰は深く頷いた。
「承知した、兄者」
親泰が下がると、元親はすぐに物見と槍隊の配置を確認させた。
長宗我部勢も、芋粥軍の到着に備えて防備を固め始めた。
*
三月八日。
芋粥軍一万の軍勢は、泉州の街道を北上しながら整然と進み、そのまま天王寺の南側へ布陣した。
秀政は兵を二手に分けた。
五千は長宗我部軍と向き合い、残りの五千は天王寺砦前に展開して攻城に参加した。
しかし――
その日、そして翌九日は雲が多く、空はどんよりとした灰色に覆われていた。
秀政は天候を見て、策の決行を見送った。
本願寺下間軍も、長宗我部軍も、芋粥軍の動向を固唾を飲んで見守っていた。
それだけではない。他の勢力の忍びや野次馬、国人衆も遠巻きにこの戦に注目していた。
誰もが“芋粥秀政が何か仕掛けてくる”と信じている。
砦の守兵も、長宗我部勢も、本願寺勢も、遠巻きに見守る国人や忍びも、芋粥軍がいつ動くのかと目を離せずにいた。
九日の夕刻。
天王寺砦の南方、長宗我部の陣。
焚き火の煙がゆらゆらと立ち上り、その向こうに芋粥軍の陣が静かに広がっている。
元親は軍扇を膝に置き、動きを見せない芋粥軍の陣をじっと眺めていた。
「今日も何も動かんかったのぅ……」
親泰が肩をすくめる。
「兄者、あれは大口叩いただけで、まっこと何も策がないがやないか?」
元親は鼻で笑った。
「まぁ、そういうこともある。
なにせ時間がなかったき。
移動しながら策を練ろうとして、結局何も出ん……そんなことはようあるわ」
親泰も不敵に笑った。
「明日、けしかけてみるか。
わしに任せちょき」
元親は軍扇を軽く叩いた。
「やってみいや。
芋粥が何を考えちゅうか、
少し揺さぶってみるがええ」
親泰はにやりと笑った。
「任せちょき。
あいつらが動かんのなら、こっちが動かしたらええがや」
焚き火の火がぱちりと弾け、親泰の横顔を赤く照らした。
*
三月十日。
空はまだ薄曇りで、芋粥軍は動かない。
天王寺砦前の陣は静まり返り、ただ風だけが旗を揺らしていた。
秀政は船乗り、風観、商人など、天候に詳しい者たちへ空模様を確認させていた。
彼らがようやく口を揃えた。
“明日こそ晴天なり”
秀政は明日の決行を心に決めた。
長宗我部陣から一騎の武者が馬を走らせてきた。
親泰である。
彼は馬上から芋粥軍の前衛へ向けて声を張り上げた。
「おい、芋粥の兵らぁ!
なんちゃぁ動かんがか!
昨日も今日も、ただ突っ立っちゅうだけやないか!」
芋粥軍の前衛がざわめく。
しかし誰も動かない。
秀政の命令で、挑発には一切乗らないことになっている。
親泰はさらに馬を進め、わざと大声で笑った。
「なんや、雷神巨砲の次は“雷神の昼寝”かえ?
動かん軍勢ほど、見てて退屈なもんはないのぅ!」
兵たちが怒りで顔を赤くするが、隊長が手を上げて制した。
親泰は満足げに鼻を鳴らし、最後に芋粥軍へ向けて叫んだ。
「明日も動かんのなら、わしらが笑うてやるき!
芋粥の策とやら、ほんまにあるがか、見せてみいや!
それともわしらはもう帰ってええがか?
はっはっは!」
そう言い残し、親泰は馬を返して長宗我部陣へ戻っていった。
その背中を見送りながら、芋粥軍の兵たちは悔しげに歯を食いしばった。
だが――秀政はただ空を見上げていた。
雲は薄く、風は少しずつ安定し始めている。
「……明日だ」




