第二百五十八話 次代の千種屋
堺の町は南蛮香油と海風が混じり、独特の匂いを漂わせていた。
蘭と松之丞は、目立たぬように侍女に扮した綾芽と白鬼四将――霞、朧、凛、雫の五名にしっかりと守られていた。
その後ろには、いつも通り千種屋の者たちが続いた。
そして商家としての決戦場、サンパイオ商会の屋敷へと足を踏み入れた。
門が開くと、ロレンソ支配人が両手を広げて迎えた。
「おぉぉ……!
ラン・プリンセサ、ようこそおいで下さいました!」
蘭は旅装ながら気品を失わぬ姿で一礼した。
「本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
ロレンソは胸に手を当て、感嘆の息を漏らした。
「メイヒメ様も美しゅうございましたが……
ラン・プリンセサはまた違う輝きがありまーすね……!」
松之丞は横で少し緊張しながらも、蘭を守るように一歩前へ出た。
「ロレンソ様。
こちらは私の妻、蘭です。
伊勢より参りました」
ロレンソは松之丞を見ると、にやりと笑った。
「おぉ……あなたがプリンセサの príncipeですか。
若いのに、なかなかの男前でーすね。
チクサヤさんにはお世話ーになってます」
松之丞は胸を張って答えた。
「松之丞と申します。
千種屋の跡取りとして、蘭と共に参りました」
ロレンソは満足げに頷き、二人を奥へ案内した。
応接室に入ると、蘭は早速包みを開いた。
「ロレンソ様。
こちらは伊勢春慶の盆と、美濃紙の見本です。
和紙は南蛮の方々にも好まれると伺いましたので」
ロレンソは目を輝かせた。
「おぉぉ……!
これは素晴らしい……!
イモガユ様はいつも良い物を持ってきまーすね!」
蘭は微笑んだ。
「父様より、ロレンソ様は“良い物を見抜く目”をお持ちだと伺いました。
まずはご覧いただきたく」
ロレンソは満足げに頷いた。
「はい、これは大変よろしい。
プリンセサの目は確かでーす。
今後もシャボンの交易をおねがーいします」
「はい!
ですが、今日は別にお願いがあって参りました」
「シャボン以外に欲しいものがありまーすか?」
ロレンソは笑顔でいながらも、何かしら商談の気配を感じ取っていた。
蘭は静かに続けた。
「では本題に入らせていただきます。
私たちは、火薬を十樽、至急でお願いしたいのです」
ロレンソの笑顔がぴたりと止まった。
「……じゅ、十樽……?」
蘭は緊張しながら頷いた。
「はい。芋粥家の名において、どうしても必要なのです」
ロレンソは腕を組み、眉を寄せた。
「プリンセサ……
それは……さすがに難儀でーす。
火薬は希少で、量も限られておりまーす。
十樽となると……」
蘭は焦り、言葉を重ねた。
「もちろん、見返りは十分に――」
ロレンソは手を上げ、蘭の言葉をやんわりと遮った。
その笑顔はまだ柔らかいが、商人特有の鋭さがその奥に潜んでいた。
「プリンセサ……
あなたの気持ちは嬉しいですが、火薬十樽となると話は別でーす。
火薬をそれほどお求めになるのであれば、我々も苦労に見合う報酬をいただきたい。
和紙と漆器はとても魅力的ですが……
これを大量に準備できるわけではありませーんよね?」
蘭は一瞬、言葉を失った。
ロレンソはその隙を逃さず、さらに続けた。
「同じでーす。
我々も火薬をそんなにたくさん供給できません。
希少で、危険で、扱いも難しい。
十樽となると……さすがに……」
蘭の胸がきゅっと締め付けられた。
ロレンソの声は穏やかだが、“足元を見始めた”ことは明らかだった。
その瞬間――松之丞が前へ出た。
「ロレンソ様。異なことを申されますね」
ロレンソは驚いたように松之丞を見た。
「ほぉ……? 何ですか?」
松之丞は一歩も引かず、堂々と言い切った。
「サンパイオ商会ほどの大商会ならば、火薬十樽程度――簡単とは申しませんが、供給可能でしょう。
勿体ぶらないでください」
ロレンソの眉がぴくりと動いた。
白鬼将たちが背後で静かに息を呑む。
松之丞は続けた。
「それに心配には及びません。
私たち千種屋もロレンソ様と同様、商売には誇りを持っています。
どんなものでも求められたら用意する。
それが千種屋の自負です」
ロレンソは一瞬、返す言葉を失った。
若い商家の跡取りにここまで啖呵を切られるとは思っていなかったのだろう。
松之丞はさらに畳みかけた。
「どれほど和紙と漆器がお入り用ですか?
いくらでも千種屋は用意してみせます。
伊勢の商家を、いや千種屋を甘く見ていただいては困ります」
ロレンソは口を開きかけて――閉じた。
商人としての主導権を奪われていた。
蘭はその空気を感じ取り、確かな自信を持って包みを開いた。
「ロレンソ様。では――
こちらをご覧くださいませ」
机の上に広げられたのは、伊勢型紙で染め上げた反物。
光を受けて文様が浮かび上がり、南蛮の絵画のように鮮やかだった。
ロレンソは息を呑んだ。
「おぉぉぉ……!
これは……!
これは……プリンセサ……!」
蘭は一歩前へ出た。
「こちらは特別に、私が選んだ品です。
南蛮のご婦人方にも必ず喜んでいただけます。
火薬十樽の見返りとして、和紙、漆器、そしてこの反物を――すべてお渡しいたします。
そして、我が夫、松之丞が申しました通り、安定して交易用に供給いたします」
ロレンソは反物を手に取り、光に透かして眺めた。
「プリンセサ……
これは……必ず高く売れまーす……!
こんな細工、日本でも珍しい……!」
蘭は静かに微笑んだ。
「芋粥家と千種屋の力を、どうか信じてくださいませ」
ロレンソはしばらく黙り、やがて深く息を吐いた。
そして――ゆっくりと頷いた。
若者の啖呵に押されたのではない。
千種屋の若旦那が責任を持って安定供給を約束した以上、反物で得られる利益が火薬十樽を頭の中で上回ったのである。
「……よろしい。
プリンセサ、プリンス。
あなた方の熱意に負けました。
火薬十樽――
我々サンパイオ商会が全力で揃えまーす」
蘭は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ロレンソ様」
松之丞も力強く礼をした。
「必ずや、期待に応えてみせます」
ロレンソは葡萄酒を二人へ差し出した。
「では、契約成立でーす。
あなた方の未来に、祝福を」
蘭と松之丞は杯を受け取り、静かに口をつけた。
*
サンパイオ商会との会談が成立した翌日から、堺の町はいつも以上に千種屋の荷車で賑わい始めた。
その荷列には綾芽や白鬼将が商人として同行し、その通る道には旅人に化けた白鬼兵が至る所で監視と護衛を担っていた。
荷車には、米俵、塩俵、布反物、干物、酒樽――
千種屋が日常的に扱う、ごくありふれた荷が積まれている。
だが、その中に、“特別な荷”が紛れていることを、道中の者は誰一人として気づかなかった。
荷は一度に運ばず、複数便に分けて静かに運ばれた。
堺から岸和田へ向かう街道は、商人や旅人が行き交うごく普通の道だ。
綾芽は、荷車の列を見守りながら静かに言った。
「……今日の便も異状なし。
荷の入れ替えも、誰にも怪しまれていないな」
霞が頷く。
「はい、千種屋の荷車は、この街道では見慣れたものです。
米と塩に紛れれば、わざわざ改める者もおりますまい」
朧が周囲を見て、付け加えた。
「今のところ、尾ける者もおりません」
荷車はそのまま堺を抜け、海風の吹く街道をゆっくりと進んでいく。
道端の商人たちは、千種屋の荷車を見ても何の疑いも抱かない。
「お、千種屋さんか。今日も忙しそうだな」
「伊勢の塩か? いい塩だよなぁ」
「布も相変わらず上等だ」
そんな声が道端から聞こえる。
白鬼百騎は何事もない顔で荷車を守りながら進んだ。
やがて――岸和田の町並みが見えてきた。
千種屋の倉庫が並ぶ一角へ荷車が入ると、倉庫番がいつものように荷を受け取り、いつも通り帳面に記録していく。
「米三十俵、塩十俵、布二十反……
はい、確かに受け取りました」
その中に、白鬼百騎が監督する“特別な荷”が静かに紛れ込んでいることを、倉庫番はもちろん、周囲の誰も知らない。
綾芽は倉庫の奥で静かに息を吐いた。
「……これで岸和田への搬入は終わりました。
あとはここで大樽の加工を進めるだけ」
霞が微笑んだ。
「堺から岸和田へ……
千種屋の物流は本当に便利ですね」
朧が肩をすくめた。
「商家の力は、時に一軍にも勝ります。
秀政様がよく言われる通りです」
凛と雫も静かに頷いた。
こうして――火薬十樽分の“特別な荷”は、誰にも気づかれることなく、岸和田へと運び込まれたのであった。
大樽爆弾の組み立て手順は、秀政から伊賀忍びを通じて口頭で伝えられた。
書状には一文字も残さない徹底ぶりであった。
火薬だけの樽を四つ。
油袋や松脂、鉄片等を追加した特殊樽を六つ。
秀政はこの爆弾の使い方も頭にはっきりと出来上がっているようだった。
秀政の指示通り、大樽爆弾は完成した。
蘭からの報告を受け取り、秀政の伊勢勢一万は岸和田に向けて出立した。




