第二百五十七話 蘭の祝言
翌日――
鈴鹿館は、急ぎの準備とは思えぬほど整えられていた。
豪奢ではない。
だが、芋粥家らしい品の良さと、千種屋の商家としての美意識は随所に表れていた。
広間には伊勢春慶の盆が並び、季節の花が控えめに飾られ、簡素ながらも丁寧に整えられた膳が置かれている。
楽人も数人だけ呼ばれており、静かに琴を奏でていた。
華やかさよりも、温かさと気品を重んじた祝言である。
秀政、お悠、長政、明、政親、御影、浅野、鷺山、綾芽、
そして千種屋当主にして松之丞の父、松之助――。
芋粥家の主だった者が揃い、広間は柔らかな空気に包まれていた。
白無垢の蘭は、髪を結い上げて座していた。
芋粥家の姫として育った気高さと、商家の女主人に求められる控えめな品の良さを併せ持つ姿は、千種屋の若女将となる蘭によく似合っていた。
松之丞は緊張した面持ちで、父の横に座っている。
普段は祖父の政成に似て豪胆な男だが、今日ばかりは落ち着かない様子だった。
秀政が二人を見つめ、静かに口を開いた。
「蘭、松之丞。
本来ならば盛大に祝ってやりたいところだが……
今は戦の前。
こうして身内だけで済ませること、許してくれ」
蘭は穏やかに微笑んだ。
「父様。これで十分でございます。
むしろ、これほど温かい祝言は他にございません」
松之丞も深く頭を下げた。
「秀政様……身に余るお言葉にございます。
蘭様と共に働けること、何よりの喜びにございます」
お悠が目を細め、二人を見つめた。
「蘭……綺麗よ。
松之丞殿、どうか蘭をよろしくお願いいたしますね」
明も柔らかく微笑む。
「長政様と私も、こうして身内だけで祝言を挙げました。
賑やかさよりも、心があれば十分です」
そして明は蘭の手をそっと握った。
「……本当に綺麗。
でも、祝言の後すぐに堺へ行くのよね。
体だけは気をつけて」
笑顔で蘭も頷いた。
綾芽は静かに頭を下げた。
「蘭姫様の身は、我ら白鬼隊が必ずお守りいたします」
松之助が息子の肩に手を置き、誇らしげに言った。
「松之丞……
蘭様のような方を妻に迎えられるとは、わしも鼻が高い。
しっかりと二人で支え合い、芋粥家と千種屋を盛り立てるのだぞ」
松之丞は父の言葉を受け、深く頷いた。
「はい……必ず」
秀政は二人の前へ進み、盃を差し出した。
「では――盃を交わし、夫婦の契りを結べ」
蘭と松之丞は盃を受け取り、静かに口をつけた。
二人が盃を置くと、広間の者たちは揃って笑みを浮かべた。
誰も大声を上げない。
誰も派手に祝わない。
ただ、家族と家臣が静かに見守る中で、二人は夫婦となった。
秀政が深く頷き、言葉を添えた。
「蘭、松之丞。
これより先は、戦も商いも、芋粥家の難事に関わることになる。
だが――二人ならば必ずやり遂げられると信じている。
お前達は、長政や明と同様、当家の未来を背負う者だ。
千種屋を任せる。
そして、この芋粥を支え続けてくれ」
蘭はまっすぐ父を見つめた。
「はい。
この祝言を胸に、必ず役目を果たしてまいります」
松之丞も力強く答えた。
「蘭様と共に、必ず成し遂げます」
広間の者たちは静かに頷いた。
*
祝言が終わりに差し掛かった頃――
ふと、広間の者たちが気づいた。
中庭の向こう、廊下の柱に寄りかかるようにして、政成が立っていた。
二人の晴れ姿を見つめる口元は何度も緩み、そのたびに目尻へ涙が滲んだ。
労咳の影が濃く、顔色も優れない。
だが、その目だけは力を宿していた。
政成は震える声で言った。
「……これで……千種は安泰よ。
殿……ありがとうございます……」
長年千種屋と芋粥家を支えてきた政成にとって、この祝言こそが何よりの安心であった。
蘭はすぐに気づき、松之丞と共に政成へ向けて笑顔を向けた。
政成は、涙を拭いながら、二人へ向けてゆっくりと笑みを返した。
その笑顔は、弱々しくも、確かに幸せを噛みしめるものだった。
広間にいる皆も、それにつられて笑みを浮かべた。
祝言は滞りなく終わった。
蘭と松之丞は、すぐに堺へ向かう支度を始めた。
*
芋粥家御教書は、伊勢を発して間もなく畿内一円へと広まり、堺・京・摂津・大和の有力者たちの手に渡った。
当然、信長のもとにも届けられ、織田家西方軍団の諸将にもすぐに写しが回された。
その写しは、堺衆を通じて長宗我部家の陣にも届けられた。
天王寺砦を遠巻きに囲む長宗我部の陣。
元親は焚火の前で文を広げ、親泰を呼び寄せた。
「親泰、これを……見たか?」
親泰は文を受け取り、ざっと目を走らせると鼻を鳴らした。
「見た。芋粥め……真っ向から否定してきよったのう」
元親は文を閉じ、火の揺らぎを見つめながら低く言った。
「芋粥が御教書を出して否定してくることは予想しちょった。
じゃが――これは読めんかったき。
まずいぞ。まさか果たし状にしてくるとは思わんかったわ」
焚火がぱちりと弾ける。
元親の横顔には、わずかな苦笑と警戒が混じっていた。
「これでは、芋粥が出てくるまで四国へ帰れんぞ」
親泰は腕を組み、火を見つめた。
「まぁ、そうやな。
ここで帰ったら逃げ帰ったように見えるき、
長宗我部家御教書が偽りじゃったと、自ら認めるようなもんじゃ」
元親は静かに頷いた。
「そうじゃ。
じゃき、芋粥の挑発は見届けておかんといかん」
親泰は文をもう一度見返し、眉をひそめた。
「巨砲なんぞあるはずないき……兄者はどう考えゆう?
芋粥は、わしらの御教書を否定できると思うか?」
元親は火箸で薪をつつきながら答えた。
「雷神巨砲が虚砲なのは間違いない。
じゃが、別の何かを用意しゆう気かもしれん」
親泰は首を傾げた。
「例えばなんじゃろうな?」
元親は少し考え、口を開いた。
「南蛮大筒か……たしか“カノン砲”と言うちょったか。
あるいは南蛮式の投石機やもしれん」
親泰は鼻で笑った。
「雷神巨砲と呼ぶには弱うないか?」
「弱い。
じゃが芋粥は派手なことをするきのう。数を揃える気か?
伊勢に目を光らせちょけ。
忍びを放って、何を用意しゆうか突き止めるんじゃ」
元親は文を焚火へかざし、炎に照らされた文字を見つめた。
「それとは別に、もう一手じゃ。
先回りして噂を流しちょけ」
親泰は目を丸くした。
「噂……?」
元親は続けた。
「芋粥家が大筒を集めゆうと噂を広めろ。
他にも巨大な投石機を作りゆうという噂も流せ。
芋粥家御教書の内容を聞いた民草が、面白がって話を広げゆう体にするんじゃ」
親泰はゆっくりと頷いた。
「なるほど……。
噂通りの物しか用意できんかったら、
それがどれほどの威力でも、“やはり大筒か”と思われれば驚きは薄れるのう。
それだけで奴らの反証は効き目が弱まる。
考えたな、兄者」
元親は火を見つめたまま、低く言った。
「予想を超えてくることもあるき、油断はするな。
今はやれることをやれ」
親泰は力強く頷いた。
「分かった。すぐ動くき!」
親泰は立ち上がり、闇へ消えていった。
焚火の前に残った元親は、炎の揺らぎを見つめながら小さく呟いた。
「芋粥……何を仕掛けてくるつもりじゃ……」
元親は御教書をもう一度開き、炎の明かりの下で最初から読み直した。




