第二百五十一話 将と兵の狭間
天王寺砦――。
石山本願寺の外縁に築かれた天王寺砦は、織田方にとって包囲を進めるための要所であり、光秀がまず奪うべき場所だった。
光秀は砦の前面に布陣し、僧兵上がりの守将・道祐が率いる兵の動きを見据えていた。
本願寺の下間頼廉が出陣し、機を窺っていることは忍びの報告で把握していた。
(――天王寺を落とす。
そのためには、背後を脅かす頼廉を先に退けねばならぬ。
佐久間殿が天王寺を失わずにおれば、このような手間をかけずとも済んだものを!)
頼廉の軍勢が光秀の背後を窺っている以上、砦攻めを始める前に、その動きを封じる必要があった。
佐久間勢には頼廉の側面へ回るよう使者を送り、光秀自身も軍勢を頼廉へ向けて転進させた。
「まず頼廉を討つ。
天王寺の道祐はその後でよい」
光秀は冷静に判断した。
勝ち筋はある。
佐久間と挟撃すれば、頼廉は押し切れる。
だが――想定外に兵が鈍い。
槍の角度が揃わず、足並みが乱れ、号令の伝達が遅れる。
光秀は苛立ちを押し殺し、声を張った。
「巨砲の噂は虚言だと言うたであろう!
恐れるな、前へ出よ!」
兵は号令に従って前へ出る。
だが、その足取りに勢いがないことは光秀にも見えていた。
(――聞いておらぬ。
兵の心は巨砲の噂に縛られたままじゃ。
頼廉が長宗我部から巨砲を手に入れたという噂。
それに加えて、今度は長宗我部が巨砲を伴って我らへ向かっているという噂も広まっておる。
そして儂らが巨砲など存在せぬと叫んでおる。
どれが本当のことか、迷うておるのだろう)
末端の兵は怯え、足取りは重く、構えた槍の穂先も揺れていた。
光秀は舌打ちしたい衝動を抑えた。
(――このままでは兵の力が出ぬ。
頼廉を押し切れん)
そこへ斥候が駆け戻り、光秀の前へ膝をついた。
「申し上げます。長宗我部の軍勢およそ五千。
我らへは向かわず、佐久間様の背後へ回る動きを見せております」
(そうか。我が明智勢ですら、この有様じゃ。
しばらく勝ちに見放されておる佐久間殿では、なお兵が沈んでおろうな)
「頼廉より先に、佐久間殿の背後へ回る長宗我部を止めねばならぬな」
*
佐久間の陣。
「長宗我部が来るぞ!
巨砲は佐久間様を爆殺するためじゃと!」
父信盛に代わって、兵を鼓舞して回る信栄は眉をひそめた。
「馬鹿な噂を……巨砲などないわ!」
だが、兵は信じていた。
佐久間勢では、将と兵の間に生じた温度差が、明智勢以上に大きかった。
将たちは巨砲が虚砲だと知っているが、兵はなおも噂に怯えていた。
「跡形もなく吹き飛ばされるぞ……」
「雷神巨砲が来る……」
「長宗我部が撃つ……!」
佐久間家の将たちは、声を張って兵を鼓舞した。
「落ち着け!偽りの巨砲だ!噂に惑わされるな!」
だが明智勢以上に、兵は浮足立ち、構えた槍も定まらず、列が乱れ始めていた。
明智の予想は間違っていなかった。
*
(このまま佐久間勢が崩れれば、西方の陣そのものが持たぬ。
天王寺を攻めている場合ではない)
光秀は決断した。
「先に佐久間を救う。頼廉は後回しだ!
長宗我部の軍勢を叩き潰すぞ」
兵の動きが鈍い中、光秀は無理に佐久間の救援へ向かったため、戦列は伸びきっていた。
その瞬間――元親が動いた。
光秀が佐久間勢へ近づこうとした動きは、すぐに元親のもとへ伝わった。
長宗我部軍は進路を急に変え、伸びた明智勢の側面へ襲いかかった。
「こちらへ来たか……!
兵を戻せ。長宗我部の突撃は重いぞ。
魚鱗陣へ移行せよ! 正面で受け止め、そのまま兵力差で押し返す!」
光秀が叫ぶが、普段の明智勢ではない。
巨砲を恐れるなという号令を、兵はまだ信じ切れていない。
そのため、陣形を変える動きも鈍かった。
魚鱗の陣形が整う前に、地を揺らしながら一領具足が明智勢に突撃した。
佐久間勢が背後へ迫る以上、頼廉はそちらへ備える――光秀はそう見ていた。
だが頼廉は危険を承知で、その佐久間を一時捨て置き、明智勢の横腹へ全軍を向けた。
事前に示し合わせたわけではない。
それでも、元親と頼廉が選んだ攻め時は寸分違わず重なった。
焦ったのは佐久間信盛だった。
「まずい、このままでは日向守が挟まれるぞ!
全軍、頼廉の背後を突け!」
だが、その動きは鈍かった。
*
魚鱗陣がようやく整う頃には、一領具足の突撃を幾度も受け、明智勢には百を超える死傷者が出ていた。
前方の一領具足に対して防御の構えが取れた途端、今度は横腹から頼廉の本願寺勢が明智勢に突っ込んだ。
前方以外からは弱いという魚鱗の弱点を突かれた。
「横合いから来たか……!
方円へ組み替えよ!
ここは耐えよ!
耐えよ! 佐久間殿が頼廉の背後へ回る!」
明智勢は槍が折れ、兵が倒れ、列が乱れた。
佐久間は鼓舞して救援に向かおうとするが、兵の鈍さが足かせとなり、遅れを取った。
光秀の周囲では槍が折れ、兵の悲鳴と怒号が重なっていた。
(――まずい……
このままでは……)
*
下間頼廉の陣。
「四国勢、やりおるな」
頼廉が明智勢を睨みながら呟いた。
そこへ物見の兵が駆け戻った。
「まもなく佐久間勢が背後より参ります」
頼廉は落ち着いたまま、背後に視線を向ける。
確かに遠くから砂埃が立っている。
「よし、明智はここまでだ。
笛矢を二本放て。
土佐勢と合図を決めたわけではないが、二本も放てば、こちらの意図には気づくじゃろう」
下間勢は笛矢を二本放つと、すぐに反転して佐久間勢へ攻撃を開始した。
*
長宗我部元親の陣。
冬の曇天の下、明智勢は陣形を立て直し、長宗我部の突撃を一度押し返していた。
元親は兵に槍を整えさせながら、次に攻める場所を見定めていた。
その時、本願寺の陣から二本の笛矢が空へ放たれた。
二つの甲高い音が続けて響き、曇天へ吸い込まれていった。
親泰が眉を上げ、元親へ声をかけた。
「ん?
なんじゃ、兄者。
本願寺から笛矢が飛んだぞ」
元親は馬上でその軌跡を見送り、静かに笑みを浮かべた。
「ふむ……佐久間が来たか。
なるほど、頼廉め。
今度は佐久間と遊んでやろうと、わしらも誘うちゅうようじゃ」
親泰は槍の柄を軽く叩き、楽しげに笑った。
「そりゃあ面白そうじゃの。
明智はようやるのう。
あれだけ叩かれても、もう守りを立て直しちゅう。
ここで無理に攻めたら、こっちにも被害が出るき。
次は佐久間がえいな、兄者」
元親は頷き、戦場の流れを見据えたまま言った。
「そうじゃ。
一度“守り”に気が向いたら、そう易々と“攻め”の気には戻せん。
敢えて自ら死地へ踏み込もうとは思わんじゃろう。
わしらが離れれば、明智は必ず息を抜く。
その隙に頼廉と共に佐久間を突く」
元親は馬の首を軽く引き、佐久間の陣の方角を見た。
「ええぞ。ここまで明智を叩きゃあ、初日としては上々よ。
親泰、今度は佐久間を料理しちゃろうぞ」
親泰は槍を肩に担ぎ、土佐者らしい豪胆な笑みを浮かべた。
「おうとも!
佐久間の兵は噂に縛られちゅう。
巨砲が怖うて震えゆう。
そこへ土佐の槍を叩き込んだら、たまらんろうの!」
元親は静かに笑った。
「ふふ……兵の心が揺れちゅう時ほど、突撃はよう効くわ。
頼廉も、わしらの動きをよう読んじゅう。
ここからが本番じゃ」
冬空の下、土佐勢は槍を揃え、佐久間の陣へ向けて進路を変えた。
五千の一領具足が向きを変えると、槍の穂先も一斉に佐久間勢へ向いた。
明智勢に続き、今度は佐久間勢が二方向から狙われていた。
一段目を締めるための戦は、まだ始まったばかりだった。




