第二百五十話 山猿の深謀
淡路島、洲本城――。
冬の冷気が肌を刺す中、城内の一室では火鉢が赤く燃えていた。
その火を囲み、元親を中心に香宗我部親泰、吉良親貞、久武親直が腰を下ろして暖を取っていた。
久武親直は火鉢から視線を上げ、元親へ報告した。
「殿、噂が随分と広がっちょります。
下間頼廉も小早川隆景も、面白がって方々へ噂を広げゆうようです」
元親は満足げに笑った。
「そりゃええことじゃ」
久武は続けた。
「織田方は随分と乱されゆうようです。
石山本願寺でも播磨でも、織田の攻勢は鈍っちょります」
親泰が火鉢に手をかざしながら、兄の横顔を覗き込んだ。
「兄者、田を起こす三月までは、わしらもひと暴れできるろうか?」
元親は当然だと言わんばかりに頷いた。
「するぞ。それこそが、わしの策の一段目の締めじゃ」
親泰は嬉しそうに笑い、感心したように言った。
「兄者、さすがじゃのう。
噂を流すだけやのうて、ちゃんと戦も考えちょったか」
元親は火鉢の火を見つめながら静かに応じた。
「当たり前じゃ。
土佐の強さを見せつけるために海を渡ってきちゅうがぞ。
暴れんでどうする」
親泰は、まだ明かされていない策の続きを尋ねた。
「しかし、なんじゃ。まだ二段目とやらは出てこんがか?」
元親は肩を揺らして笑った。
「ああ、わしの策は深いきのう。楽しみにしちょれ。
それより、まずは締めの戦じゃ」
そのやり取りを聞いていた吉良親貞が、慎重な面持ちで口を開いた。
少し身を引き、言葉を選ぶように続ける。
「殿、勇ましいのは結構でございますが、少し楽観し過ぎではございませぬか。
最近の織田は、少しずつ混乱を収めてきちょります。
おそらく芋粥が、虚砲の真実を諸将へ伝えたのでございましょう。
今後、織田方が我らの流言に踊らされることは減りましょうて。
それに妙な噂が、各地で広まりゆうのでございます。
巨砲は長宗我部の手には渡らず、松浦が二の曲輪へ退く直前に破壊した。
ゆえに長宗我部が持ち出したのは空箱だけだ――そう申す者どもがおります」
親泰は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。
「出所は芋粥じゃろうな。噂をひっくり返そうとしゆうがぞ。
まだ素直に“巨砲は虚砲じゃった”と言わんところが小賢しいの」
元親はその言葉に愉快そうに笑い声を上げた。
「はーはっは。よしよし、それこそがわしの狙い通りじゃ。
これで第二段へ踏み込む頃合いが来たぞ」
吉良は驚きに目を見開き、信じられないという表情で元親を見つめた。
「殿……芋粥が噂を打ち返してくることまで、読みの内でございましたか……?」
元親は火箸で炭をつつきながら、低く笑った。
「そうじゃ。芋粥が流した対抗の噂こそ、わしの第二段に使えるがじゃ。
まあ、第二段の全ては追うて教えちゃるき」
そう言うと元親は吉良へ身を寄せ、声を落とした。
「親貞、まずは耳を貸せ。
第二段の下拵えとして、おまんにやってもらいたいことがある」
吉良は驚きと戸惑いを滲ませながら問い返した。
「なんと……そのようなことをして、よろしゅうございますか……?」
元親は軽く笑い、吉良の不安を払うように言った。
「えい、えい。これも考えあってのことじゃ」
吉良は深く頭を下げ、力強く答えた。
「はっ……お任せくだされ。すぐに手配いたします」
火鉢の火がぱちりと弾け、赤い火の粉が舞った。
元親はその火を見つめながら、室内の空気を引き締めるように声を発した。
まず久武親直へ向き直り、静かに命じた。
「さて……戦の話をするぞ。
親直、おまんには兵五百を預け、洲本城を守ってもらうき。
留守番じゃ。この箱と、わしらの退路を守れ」
久武は膝を正し、力強く答えた。
「承知した!」
元親は頷き、次に親泰へ視線を移した。
「親泰。おまんとわしは、今度は石山本願寺へ向かうぞ。
頼廉と力を合わせ、明智と佐久間を挟み撃ちにするがじゃ」
親泰は火鉢の熱を受けながら、嬉しそうに声を上げた。
「おう!」
元親は火鉢の火をつつきながら、続けた。
「親貞が言うた通り、織田の将どもは虚砲の真相を知った頃じゃろう」
親泰は眉をひそめた。
「時を逸したがか?」
元親は首を横に振った。
「いや、わしはあえて、織田の将が真相を知るまで洲本で待っちょったんじゃ」
親泰は不思議そうに首を傾げた。
「ん?なぜじゃ?敵が落ち着いてからじゃまずかろうに」
元親はゆっくりと言葉を紡いだ。
「いや……今が一番えい頃合いじゃ。
わしらは本州に渡る。
それも、雷神巨砲を持っちょるのは長宗我部じゃという噂を纏ってな」
親泰は目を丸くした。
「わからん。どういう意味じゃ?
織田軍はもう巨砲が虚砲じゃと知っちゅうかもしれんぞ。
今さら巨砲を持っちゅうように見せても、効かんがやないか?」
元親が再び火箸で炭をつつくと、小さな火の粉が舞い、うっすらと笑うその顔を照らした。
「そこが誤解しやすいところじゃ。
将と兵は別の生き物ぞ。
いくら将が“虚砲じゃ”と知っちゅうて、それを兵に伝えたとしても……
すぐに兵が信じると思うか?」
親泰は黙って兄の言葉を待った。
元親は火鉢の火を見つめたまま、低く続けた。
「兵は疑う。
将は時に、都合のええことを言うきのう。
恐がっちゅう兵を落ち着かせるため、偽りを申すこともあるき。
将が恐れちょらんと分かり、兵も安心するまでには時間がかかる」
火鉢の火がぱちりと弾け、元親の影が揺れた。
「芋粥が真相を伝え、将が落ち着く前に攻めちょったなら……
将と兵は同じ考えを持つがじゃ。
“巨砲は恐ろしい”とな。
そうなると、将も兵も巨砲を恐れ、わしらへ近寄ってこん。
すぐに退くか、城へ籠もってしまう。
それでは、明智を討つ機会が得られん」
親泰はゆっくり頷いた。
「なるほど……今なら将と兵が違う方向を向いちゅう。
将は前に出るじゃろう。
将が進めと命じても、兵は素直に進めんのう」
元親は満足げに笑った。
「その通りよ。将の命に従わん兵ほど、扱いにくいものはない。
そこでじゃ――」
元親は親泰を真っ直ぐに見据えた。
「狙うは、明智日向守の首じゃ!」
親泰は拳を握りしめ、力強く応じた。
「やれそうじゃな!」
元親は静かに頷いた。
「あぁ、やれる。
そして……これが、わしの策の“第二段”の引き金じゃ」
火鉢の火が赤く燃え、その奥で元親の影がゆらりと揺れた。
親泰は兄の言葉の意味を測りかね、首を傾げた。
「だが……なんじゃ? これが第二段の引き金とな?」
元親はゆっくりと笑みを浮かべた。
「おう。第一段は織田を乱して、わしらが攻める“手”を作ることじゃ。
第二段は――四国に攻め込もうとしゆう芋粥を排除する“手”じゃ」
火鉢の火が揺れ、元親の影が壁に大きく伸びた。
「第二段にも考えはいくつもある。
その内の一つが……明智の首じゃ」
親泰は目を丸くし、火鉢の熱を受けながら兄を見つめた。
「わからんの。どういう意味じゃ?」
元親は火鉢の火をつつき、火の粉が舞った。
「わしらが明智を討てば、織田の西は大きく崩れる。
たとえ田植えまでに首を取れずとも、頼廉と共に打撃を与えれば十分じゃ」
元親は親泰へ視線を向け、問いかけるように続けた。
「この西の敗因は……何やと思う?」
親泰はしばし考え、やがて口角を上げた。
「なるほど……西方の敗北は、すべて芋粥の責にされるがか」
元親は満足げに頷いた。
「そうよ。芋粥を討つのは、わしらではない。
芋粥は――あの信長によって堕ちるのよ」
火鉢の火がぱちりと弾けた。
元親はその音に合わせるように、愉快そうに笑い声を上げた。
「ふはははは!」
親泰もつられて笑い、肩を揺らした。
「兄者の策は相変わらず深いのう。
これのどこが山猿ながじゃろうな。ははは!」
火鉢の炎が赤々と燃える中、元親と親泰の笑い声が洲本城の一室に響いた。




