第二百四十九話 箱の真価
二の曲輪――。
松浦肥後守は物見櫓に立ち、冬の冷気に頬を刺されながら、長宗我部軍の動きを凝視していた。
その視線の先では、土佐勢が潮の引くように、岸和田城から一斉に退き始めていた。
三日間にわたって荒波のように押し寄せていた猛攻が、嘘のように途絶えていた。
松浦はその異様な光景を見た瞬間、胸騒ぎを禁じえなかった。
(退く?
――なぜだ?)
松浦が撤退の意図を測りかねているところへ、三の曲輪を調べていた兵が駆け込んできた。
「三の曲輪の蔵が荒らされ、兵糧や武具が持ち去られております。
それと……雷神巨砲の箱が、どこにも見当たりませぬ!」
松浦は息を呑んだ。
三の曲輪での激戦、門の補修、兵の疲労。その全てに気を取られ、退却の際にも箱を持ち出すことまでは考えなかった。
そもそも芋粥軍の誰もが、雷神巨砲の箱を岸和田城を守る御守り程度にしか考えていなかった。
秀政自身も、その認識に大差はなかった。
あの猛攻を受けた松浦が、箱より城兵の退却を優先したのは当然の判断だった。
松浦は唇を噛みしめた。
「……これは、儂の失策じゃ」
切腹を命じられることも覚悟し、松浦はただちに早馬を伊勢へ走らせた。
雷神巨砲の空箱が奪われた事実を、ただちに秀政へ伝えるためである。
*
長宗我部軍は、あらかじめ呼び寄せた自前の浦戸水軍を岸和田沖へ集結させていた。
土佐勢は巨砲の空箱を手早く解体し、幾つかの関船へ分けて積み込んだ。
そして潮に乗り、洲本城へ引き揚げた。
洲本城――。
城内の広場には、岸和田から運び込まれた木箱の部材が並べられていた。
「親泰……うまくいったのう。
これを使うて、もうひと遊びするぞ」
親泰は眉を上げた。
「兄者、この箱を何に使うか、まだ聞いちょらんぞ。
こんなもん持ち帰ってどうするがぞ?
本願寺に渡して“巨砲は幻じゃった”と伝えるだけでも十分やったろう?」
元親は口角を上げた。
「おう。この箱には、二段構えの使い道がある。
まずは一つ目じゃ。
――忍びを使うぞ」
親泰はにやりと笑った。
「流言か?」
「そうじゃ。
わしらは洲本まで戻る道中、わざと見せびらかすようにこの箱を曳いて進んだ。
道中を見張っちょった他国の忍びどもも、わしらが箱を奪うたことには気づいちゅう。
そして、中身が気になって気になって仕方ないはずじゃ」
元親は箱を軽く叩きながら続けた。
「巨砲とはどんな代物か?
中身はどこへ消えたか?
どう使うつもりか?
――今が一番、噂が膨らむ時じゃ」
親泰は腹を抱えて笑った。
「なるほどのぉ。
こんな面白い玩具、本願寺に渡すがはもったいないわ」
元親は指を二本立てた。
「噂を流させろ。
巨砲は度肝を抜くほどの大筒じゃったとな。
信貴山城が吹き飛ぶのも道理じゃと。
そして、その雷神巨砲を長宗我部が芋粥から奪うたとな」
親泰は肩を揺らして笑った。
「芋粥も自分で蒔いた種じゃき、否定しづらいのぉ」
元親は次々と指を折りながら続けた。
「一つ。
巨砲は既に本願寺の手に渡っちゅう。
明智軍が近づけば、大将の日向守ごと吹き飛ばす気じゃ。
二つ。
違うぞ。
本願寺は山道を通って坂本へ向かっちゅう。
明智の坂本城を更地にするためじゃ。
三つ。
そうやないき。
本願寺は花隈へ向かっちゅう。
佐久間は吹き飛ばされて骨すら残らんぞ。
四つ。
おまんら、知らんがか。あれは既に毛利に渡った。
毛利は姫路を吹き飛ばす気じゃ」
親泰は腹を抱えて笑った。
「ははは!
全部嘘くさいのに、全部無視できんのが腹立つじゃろのぉ。
播磨の国人はまた揺れるわ」
元親は満足げに頷いた。
「そうよ。
真相は毛利の小早川隆景と、本願寺の下間頼廉にも伝えよ。
あやつらも、この噂を利用して織田方を揺さぶるじゃろう。
毛利の世鬼衆、本願寺に通じる根来衆・雑賀衆にも流言を手伝わせるがじゃ」
傍らに控えていた吉良親貞が膝を進め、深く頭を下げた。
「はっ! ただちに手配いたします!」
*
一月末。
伊勢――鈴鹿館。
鈴鹿館では、蘭の祝言と出陣の支度が並行して進められ、相変わらず大勢の者が慌ただしく行き交っていた。
そこへさらに、岸和田からの早馬が駆け込んできた。
馬の息は白く、使者の顔は疲労と緊張で強張っていた。
秀政は政親と共に使者を通し、松浦からの書状を受け取った。
読み進めるうちに、秀政の眉間へ深い皺が刻まれていく。
「やりおるわ……長宗我部め」
政親が静かに問いかけた。
「松浦は何と?」
秀政は書状を政親へ渡すと、政親はそれに目を走らせるうちに、わずかに表情を曇らせた。
「義兄上……これは拙いことになりましたね。
あの箱は敵の手に渡れば、いかようにも利用されまする」
秀政は拳を握りしめた。
「分かっている。
奴め……関親子が到着するより前に撤収した。
なんという手際の良さよ。
初めから、あの箱だけが目当てだったとしか思えん」
政親は静かに頷いた。
「まさに、そうでしょうね。
単に巨砲は存在しなかったと本願寺へ明かすだけなら、こちらも否定のしようがございます。
しかし――」
その時、廊下から慌ただしい足音が響いた。
「も、申し上げます! 各所より早馬が次々と……!」
秀政は顔を上げた。
「通せ。
くそ……早速仕掛けてきたか」
摂津、近江、播磨からの使者が相次いで館へ入り、泥に汚れたまま秀政の前へ膝をついた。
その顔は恐怖と混乱に満ちていた。
一人が前へ進み、声を張り上げた。
「畿内が揺れております!
坂本・花隈・大坂の町々で、巨砲の噂が一気に広まりました!」
別の使者が続ける。
「本願寺が長宗我部より雷神巨砲を受け取り、極秘裏に坂本へ運んでおり、近く坂本城を砲撃するという噂が広まっております。
坂本では、巨砲で城を吹き飛ばされるとの噂に城下の者たちが怯え、商人が荷をまとめて逃げ出しております。
日向守様は城下の混乱を鎮め、山道を警戒するために兵を割かざるを得ず、その隙に下間頼廉が攻勢を強め、明智勢は苦戦しております!」
さらに別の使者が声を震わせた。
「花隈では、佐久間殿の家臣たちが本願寺へ巨砲が渡ったと信じ込み、城門を閉ざして、城外の兵まで呼び戻しております!」
他の使者も間を置かず続けた。
「大坂では、根来・雑賀の者どもと思われる怪しげな輩が噂を吹聴し、
町人が“信貴山の再来”と怯えております!」
最後の使者が、疲れ切った声で締めくくった。
「様々な噂が混在し、もはや、どれが真実でどれが偽りなのか、誰にも見分けがつきませぬ。
各地の織田勢が噂への対応に追われております!」
秀政は歯を食いしばった。
「……おのぉれ!
こちらが最も嫌がるやり方で来たな。
織田の諸将には、俺からすぐに真相を伝える。
少なくとも、諸将がこれ以上噂に振り回されることは防げる。
起きてしまった混乱は諸将に沈静化を任せるしかない……。
しかしどうする?
播磨や摂津の国人にまで、巨砲は初めから存在しなかったとは明かせん」
政親は静かに提案した。
「そうですね。
真っ向から否定すれば、今後、我らが何を申しても信用されなくなりましょう。
それならば――いっそのこと“噂返し”にして暈しますか?」
秀政は目を細めた。
「噂返し?」
政親は頷いた。
「箱は奪われた。
だが中の大筒は、松浦が機転を利かせて敵の手に渡る前に破壊した――そう流します」
秀政はしばし考え、静かに言った。
「公には何も申さぬ。
大筒は松浦が破壊したとの噂だけを流し、長宗我部の流言を打ち消すか」
政親はわずかに表情を曇らせた。
「そうなると……松浦に責任を取らせて腹を切らせることはできなくなりますが」
秀政は即座に首を振った。
「馬鹿をいうな。
初めから松浦肥後守の責任は問わぬ。
松浦はよく守った。
あの状況で三の曲輪を捨て、兵を二の曲輪へ退かせた判断は正しい。
箱より兵を守ったことを責めるつもりはない。
俺があの箱を甘く見ていたのがいかんのだ」
政親は深く頭を下げた。
「そうですか。
義兄上がそうおっしゃるのであれば、それで構いませぬ」
秀政は立ち上がり、筆を取った。
「松浦は使える男だ。
早まって腹を切るな。
岸和田を守った働きは十分であると、急ぎ伝えよ。
俺は諸将への文を書く。
お前は噂返しを進めよ」
政親は力強く頷いた。
「は!」
だが、これは元親が考えた一段目に過ぎなかった。




