第二百四十七話 岸和田急襲
伊勢――鈴鹿館。
蘭の祝言を控えた芋粥家では、祝言の支度と軍制の再編が同時に進められていた。
鬼兵六千の再編、新たな常備兵三千の雇い入れ、兵站組織の組み替え。
秀政が望んだ軍勢の拡充は着実に進んでいたが、指揮系統の整理と新兵への装備支給には、なお時間を要していた。
蘭の祝言がなくとも、早期に本隊を動かすことは難しかった。
秀政自身もそれを理解していた。
だが、秀政の失策は別のところにあった。
――四国との戦いを「敵の農繁期に攻め込む」という、こちらの都合へ寄せ過ぎたこと。
もちろん四国への諜報は怠っていない。
だが、忍びの主力は淡路島の調略に割かれていた。
四国本土については、港や兵の動きを探るに留めていた。
本来ならそれでも長宗我部の挙兵は捉えられたはずだ。
しかし一領具足は、武士と百姓を明確に分けた軍勢とは動き方が異なっていた。
長宗我部元親の思惑を、秀政はまだ気づいていなかった。
*
土佐・岡豊城、一月十日。
上段の間には、長宗我部家の中枢が揃っていた。
火鉢の赤い火が、元親の横顔を照らしている。
元親は火鉢から手を離し、静かに問うた。
「……親泰。準備は滞りないか?」
香宗我部親泰は膝を進め、豪胆な笑みを浮かべた。
「おう、兄者。ぬかりはないぜよ。
一領具足どもには百姓の姿で、勝瑞と引田に分かれて向かわせちゅう。
総勢五千。
兄者は勝瑞へ、わしは引田へ行くき。
阿波と讃岐の二方から海を渡り、一気に洲本城を落としちゃろうぞ」
元親は満足げに頷いた。
「良い。安宅には、長宗我部の恐ろしさを骨の髄まで教え込んである。
わしらは洲本城を落としても、これまで何度も打ち捨てて帰っちょった。
本気で淡路を取る気が今まではなかったき、安宅は今回も“後で取り返せばええ”とすぐ退くじゃろう」
元親は火鉢の火を見つめ、低く続けた。
「洲本城で両軍を合わせ一気に渡海し、岸和田を囲む」
親泰は拳を握った。
「承知したぞ、兄者」
吉良親貞が控えめに口を開いた。
「殿、本願寺と村上水軍には、すでに話を通しちょります。
わしらが淡路から岸和田へ渡る直前に、村上水軍があの巨船――虎王丸をおびき出してくれるとのこと。
その隙に渡海すれば、九鬼水軍のことはまず心配いらんかと存じます。
また教如様にも、岸和田包囲と同時に兵を動かしていただけるよう、お伝えいたしちょります。
これで明智、佐久間の軍勢も本願寺に縛られ、岸和田へ援軍を送ることは叶わんでしょう」
元親は口角を上げ、愉しげに笑った。
「よしよし……。
芋粥め、この猿知恵をどう凌ぐか見ものじゃのう」
元親は立ち上がり、親泰へ向き直った。
「親泰! わしらも隠れて発つぞ。
抜かるでないぞ」
親泰は豪快に笑い返した。
「任せちょけ!兄者。
四国の力、本州の者どもに見せつけちゃろうぜよ!」
その日のうちに元親と親泰は密かに岡豊城を発ち、それぞれ勝瑞と引田へ向かった。
*
一月二十日――。
淡路島の冬の海は荒れ、灰色の雲が低く垂れ込めていた。
その朝、勝瑞と引田の二ヶ所で、長宗我部軍が同時に兵を挙げた。
武具を隠し、百姓の姿で移動していた一領具足五千が、一斉に武具を取り、阿波と讃岐の港から次々と船へ乗り込み、二方から洲本城へ押し寄せた。
芋粥軍の忍びは挙兵と同時に異変を察知し、伊勢へ向けて早馬を走らせた。
だが、早馬が伊勢へ着く頃には、元親の軍勢はすでに淡路へ渡っていた。
淡路島の国人衆は、元親に抗して所領を焼かれることを恐れ、洲本城への加勢を拒んだ。
中には早々に長宗我部方へ走る者まで現れた。
洲本城は戦らしい戦もなく、あっけなく落城した。
長宗我部軍は無駄な時を一切かけず、そのまま海を渡って岸和田城へ押し寄せた。
城下に土佐の旗が翻った時、秀政はまだ伊勢にいた。
*
伊勢・鈴鹿館。
上段の間には冷たい空気が張り詰めていた。
秀政、政親、長政――
三人は、岸和田から届いた急報を前に顔を揃えていた。
政親が届いた書状を読み上げた。
「……洲本城、落城とのことです。
そのまま岸和田に向けて出陣したと。
まもなく籠城戦となりましょう」
秀政は拳を握りしめた。
「くっ……出し抜かれたか」
政親は淡々と続けた。
「長宗我部元親……油断ならぬ男です。
他にも早馬が次々と届いております。
村上水軍が大阪湾へ進出し、九鬼殿は虎王丸と九鬼水軍を率いて迎撃に向かっております。
同じ頃、本願寺勢も各砦から打って出ました。
明智殿は、その鎮圧に動いております。
これでは、明智殿にも九鬼殿にも岸和田への援軍を求められませぬ」
秀政は深く息を吐いた。
「今回はしてやられた。
村上水軍も本願寺も、全て岸和田攻めに合わせて動かしてきた。
こちらは何もかも後手に回っている」
しばし沈黙し、やがて決断を口にした。
「松浦に淡路への調略を打ち切らせ、岸和田城の守りに専念するよう伝えよ。
岸和田は堅城だ。すぐには落ちぬ。
三月の本隊が到着するまで、松浦が守りに徹すれば十分に耐えられる」
政親は即座に頭を下げた。
「はっ。
我らは軍制を組み替えている最中ゆえ、本隊をすぐに動かすことはできませぬ。
関親子であれば、手勢を率いてすぐに伊勢を発てます。
先に和泉へ向かわせましょう。
ただし――決して長宗我部とは正面から当たらぬよう厳命いたします。
関親子は、少数の兵を素早く動かす戦を得手としております。
長宗我部の荷駄と、淡路から渡ってくる船を狙わせます。
正面から戦わずとも、岸和田を攻める手を鈍らせることはできましょう」
秀政は頷いた。
「……時間稼ぎか。
良い考えだ。関親子に指示を飛ばせ」
長政が一歩進み出た。
「義父上。私も浅野殿をご支援し、鬼兵が一刻も早く出陣できるよう手を尽くします」
秀政は力強く頷いた。
「頼むぞ。
明にも伝えてくれ。兵站準備を急ぐようにな」
長政は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
政親と長政はすぐに立ち上がり、各々の役目を果たすため足早に退出した。
*
大阪湾。
冬の海は鉛色に沈み、低く重い波が続いていた。
その海上で、九鬼水軍と村上水軍が睨み合っていた。
九鬼嘉隆率いる九鬼水軍。
そして、その前方には瀬戸内の潮と航路を知り尽くした村上水軍が展開していた。
両者の間には、巨大な影があった。
虎王丸――
南蛮の技術を取り入れた、織田家の象徴とも言えるガレオン船。
その船体は海を割るように進み、村上水軍の小早船を圧するだけの威容を備えていた。
村上の船が近づけば、虎王丸はゆっくりと前へ出る。
そのたびに村上の船は、潮に押し戻されるように後退した。
距離が開けば、村上水軍は再びじりじりと虎王丸に迫る。
巨大な虎へ、狼の群れが噛みつけぬ距離を保ったまま付きまとっているようだった。
九鬼嘉隆は舳先に立ち、苛立ちを隠さず吐き捨てた。
「……くそ。虎王を恐れるのはわかる。
だが、これではまるで我らを足止めしているだけではないか。」
その言葉は、海風に乗って甲板の兵たちにも届いた。
実際、村上水軍はそうしていた。
虎王丸の威は瀬戸内に知れ渡っていた。
村上水軍はゆえに決して近づかない。
だが、逃げもしない。
潮を知り尽くした彼らは、虎王丸が“勝てない相手”であることを理解していた。
しかし同時に――“負けない戦”をする術にも長けていた。
村上の小早船は、潮の流れを読み、虎王丸の大筒の狙いを定めにくい距離と角度を保つ。
砲声は一度も響かない。
矢も飛ばない。
ただただ、海の上で二つの水軍が時間を削り合っていた。
九鬼嘉隆は歯噛みした。
傍らにいた船将の一人が、苦い顔で進言した。
「殿……村上は潮を知り尽くしております。
この海で村上水軍を討ち尽くすのは難儀しそうです」
嘉隆は拳を握りしめ、追撃を命じても、村上の小早船は再び射程の外へ逃れていった。
九鬼水軍と村上水軍の海戦は、勝敗もなく、血も流れず、ただひたすらに“時”だけを消費していった。
その間に――長宗我部元親の岸和田に対する猛攻が始まろうとしていた。




