第二百四十五話 遅れた者は置いていく
信長の視線が秀吉へ向いた。
秀吉は膝を正し、深く頭を垂れた。
「はっ……!申し上げまする」
声は張っていたが、その背筋には緊張が走っていた。
「去年、この猿めが掲げました目標は――
播磨を完全に手中へ収め、さらには荒木村重を討ち取ることでございました」
秀吉は一度息を整え、続けた。
「播磨の国人衆は、当初は荒木の動きを見て揺らいでおりました。
ですが、我らが調略を重ねたことで、徐々に味方へ引き寄せることができました。
播磨の半ばは、すでに我らの手に収めておりまする」
秀吉は、ここまでは自信を持って語った。
だが次の言葉は、少しだけ慎重に選んだ。
「有岡城を力攻めで落とし、荒木村重を摂津から逐うことができました」
光秀が静かに頷く。
秀吉はわずかに視線を動かし、秀政の方をちらりと見た。
「信貴山を吹き飛ばした伊勢守の大筒の威が、荒木の肝を冷やしたことも、確かに一因であったと聞き及びまする。
しかし――播磨攻略を優先するためには、我らは力攻めを敢行する必要がありました。
その上で荒木を打ち破り、播磨の調略も進めました。
とはいえ、播磨全土の掌握には未だ至っておりませぬ」
秀吉は深く頭を下げた。
「去年掲げた目標、“播磨を完全に手中に収める”には……まだ道半ばにございます。
以上にございます」
信長は秀吉の報告を黙って聞き終えると、ほんのわずかに顎を引いた。
「……荒木を打ち破った働き、よくやった」
信長はそれ以上、秀吉の働きを褒めなかった。
続けて、信長の声が鋭くなる。
「だが筑前守。
播磨はまだ半ばにすぎぬ」
秀吉の背筋がわずかに強張る。
「本来の役目は、中国攻めよ。
荒木を逐った以上、今年は播磨を完全に手中に収め、毛利へ攻め込む道を開け」
広間の空気が再び張り詰める。
信長は秀吉を真っ直ぐに見据えた。
「はは!この猿めにお任せくだされ!
今年は播磨を揺るぎなく治め、中国攻めを前へ進めまする!」
そう言い切ると秀吉は深く頭を下げた。
*
秀吉の報告が終わると、信長の視線が静かに光秀へ移った。
光秀は膝を正し、深く頭を垂れた。
「……はっ、申し上げます」
静かに顔を上げる。
「去年、掲げました目標は――
本願寺を攻め立て、荒木村重を討ち取り、摂津を安定させることでございました」
光秀は淡々と続けたが、その声には悔しさが滲んでいた。
「しかし……荒木村重の反乱に対処するため、摂津の兵を大きく割かざるを得ませんでした」
光秀はすぐに言葉を継いだ。
「荒木攻めにつきましては、筑前守と力を合わせ、有岡城を包囲し、荒木を追い詰めることができました」
秀吉がわずかに頷く。
光秀は慎重に言葉を選んだ。
「伊勢守の大筒の威が、荒木方の士気を下げたことも確かにございます。
されど一刻も早く有岡城を落とす必要があったため、筑前守と力攻めを敢行いたしました。
その甲斐もあって、現在は再び本願寺への攻勢を強めておりまする。
ただ――本願寺を守る外周の砦も堅く、摂津の安定にはいまだ至っておりませぬ」
光秀は深く頭を下げた。
「本願寺を追い詰め、摂津を安定させるという目標には、遠く及びませなんだ。
以上にございます」
信長は光秀を睨んだまま、しばらく答えなかった。
やがて、冷たく言い放つ。
「……荒木を打ち破った働きは、筑前守と日向守の両名、確かにあった」
その一言は、秀吉と光秀の面子を保つための“最低限の労い”だった。
しかし次の言葉は容赦がなかった。
「だが日向守。
本願寺は未だ健在だ。弱ってすらおらぬ。
いつまで待たせる気だ!」
広間の空気がさらに冷え込む。
「荒木を討った以上、今年は本願寺を必ず降せ。
摂津を揺るぎなく治めよ」
光秀は深く頭を下げた。
「……はっ」
*
信長の視線が佐久間へ向いた。
佐久間は膝を正し、その顔はすでに青ざめていた。
「……はっ」
声が震えていた。
「去年、それがしが掲げました目標は――
本願寺を締め上げ、摂津を安定させることでございました」
佐久間は唇を噛みしめながら続けた。
「しかし……荒木、松永の反乱で国人衆が本願寺へ靡く中、軽々しく打って出ることが出来ず……。
本願寺をほとんど攻め立てることができませなんだ」
広間が静まり返る。
佐久間は、自分が最も言いたくない事実を言わざるを得なかった。
「有岡落城の後、本願寺へ攻勢を強めましたが……。
下間頼廉を相手に、五百余の損害を出す大敗を喫しました」
光秀がわずかに目を伏せる。
「明智殿との合流が間に合わぬまま、攻勢を急いだことが敗因にございます。
それがしの見通しが甘うございました。面目次第もありませぬ。
結果として、軍勢を一から立て直さねばならなくなりました」
佐久間は深く頭を下げた。
「去年掲げた目標、“本願寺に圧をかける”には……
全く及ばぬ結果となりました」
「以上にございます」
*
信長は佐久間を睨みつけたまま、しばらく沈黙した。
その沈黙が、叱責よりも重かった。
やがて、冷たく言い放つ。
「……右衛門。
お前は亀のように縮こまった挙げ句、動けば大敗を喫した」
佐久間の肩が震える。
「荒木を討った以上、今年は本願寺を必ず追い詰めよ。
日向守と共に、すぐに本願寺を降せ」
佐久間は震える声で答えた。
「……は、はっ……!」
そして改めて、信長は光秀の方を見た。
「日向守。
右衛門は軍の立て直しに、しばし時間を要する。
本願寺戦線の主将は日向守とする。
右衛門は日向守を支えよ」
「はは!」
伏せる光秀には、ようやく安堵の表情が浮かんだ。
一方の佐久間は黙ったまま頭を下げた。
信長は広間を見渡し、宿老たちを一人ひとり射抜くように睨んだ。
その声は低く、しかし広間の隅々まで響いた。
「……去年は、皆が皆、目標に届かなんだ。
言い訳は要らぬ。
戦が難しいことなど、儂が一番知っておる」
袖を払うように手を振った。
「……今年は、誰一人として遅れるな。
天下は待たぬ。
儂も待たぬ」
信長はゆっくりと歩きながら続けた。
「以上じゃ。
皆、己が戦を進めよ」
広間の空気が張り詰めたまま、誰も動けない。
信長は扉の前で一度だけ足を止めた。
振り返らずに、静かに言い捨てた。
「……今年、遅れた者は置いていく」
その一言を残し、信長は広間を去った。
*
信長の足音が完全に聞こえなくなっても、しばらく誰も顔を上げなかった。
最初に大きく息を吐いたのは勝家だった。
「……殿の『期待を裏切るな』は、怒鳴られるより堪えるのう」
丹羽が額の汗を拭いながら苦笑した。
「権六殿はまだ良うござる。
調略が利かぬと申し上げた時、殿がこちらを見た目を思い出すだけで、胃が痛うなりまする」
「五郎左でも、そのようなことを申すか」
勝家が意外そうに見ると、丹羽は肩をすくめた。
「殿の前で平気な者など、筑前守殿と伊勢守殿くらいではござらぬか?」
秀吉が笑いながら返事をした。
「いやいや、儂だって怖いぞ。
“この猿っ”と言うて蹴られるのではないかと、いつもびくびくしておるわ!
平気なのは図々しい芋ぐらいだで」
不意に話を向けられ、秀政は顔をしかめた。
「冗談ではない。
平蜘蛛を吹き飛ばしたのは俺のせいかと聞かれた時は、寿命が縮んだぞ」
勝家が堪えきれずに笑った。
「あれは伊勢守が自ら信貴山を吹き飛ばしたと申したからであろう」
「城を吹き飛ばしたとは申したが、平蜘蛛までとは申しておらぬ」
一益が急に割り込んでくる。
「伊勢殿、殿はきっと恨んでおるぞ。はははは。
あの価値がわからぬは伊勢殿ぐらいだからな」
その言葉に、今度は丹羽も小さく笑った。
信忠は緊張を解くように膝を崩し、一益へ顔を向けた。
「左近。父上は徳川殿に図に乗らせるなと仰せになった」
一益は頷き、秀政に問いかけた。
「どうじゃ?伊勢殿は徳川の隣国じゃ。
伊勢殿から見て、徳川殿はそれほど武田領を欲しておるのか?」
先日の会談を思い出した秀政は、すぐに濁した。
「まぁ、武士ですからな。狙ってないことはありますまい。
ですが、徳川殿とて殿のことは怖いはず。
少し削り取ったら、本来の北条攻めに向かわれましょう」
一益が渋い顔をした。
「そうかの?あの御仁は相当な曲者のように思われますがな」
秀吉がそこで、張り詰めていた肩を大きく回した。
「いやぁ、しかし今年の殿はまことに怖かったのう!
猿の心の臓まで縮み上がったわ」
「筑前守殿は随分と元気に答えておられたではないか」
光秀が言うと、秀吉は大げさに胸を押さえた。
「元気に答えねば、余計に怒られるでな。
内心では、播磨を半分取ったのだからもう少し褒めてくだされと思っておったぞ」
「それを口にせぬだけ、秀吉も賢うなったな」
秀政がからかうと、秀吉は顔をしかめた。
「芋にだけは言われとうないわ。
お前は殿の前で、自分の大筒が荒木を逃がしたと売り込んでおったではないか」
「あれは事実を申し上げただけだ」
「そういうところじゃぞ。荒木は儂らの功じゃ。
少なくともそういうことにせぇ!友を無くすぞ」
今度は光秀も僅かに笑った。
それから光秀は秀吉へ顔を向けた。
「筑前守殿。有岡では大いに世話になった。
今後、筑前守殿は播磨へ戻られますが、摂津の後始末はこちらにお任せくだされ。
ようやく儂も本領発揮じゃ」
「うむ。日向守殿なら心配しておらぬ。
ただし本願寺は頼廉がおる。力攻めだけは気をつけられよ」
「承知しておりまする」
主将となった光秀の返事には、先ほどまでになかった力があった。
秀吉は広間を見回し、最後に小さく息を吐いた。
「それにしても……誰も遅れるな、天下は待たぬ、か。
あの『置いていく』は、ただ事じゃにゃあぞ」
勝家も丹羽も、信忠も一益も、秀政も光秀も、それぞれの言葉で応じた。
ただ一人、佐久間だけは何も言わなかった。
額を畳へ向けたまま、信長が残した言葉を繰り返し聞いているように動かない。
光秀も今は声をかけなかった。
やがて宿老たちは一人ずつ立ち上がり、それぞれの任地へ戻るため大広間を後にした。
佐久間が顔を上げたのは、他の宿老たちが立ち去った後だった。




