第二百四十三話 六千の鬼と千種の未来
徳川家との極秘会談を終え、年の暮れを迎えた芋粥家の兵舎は、異様な熱気に満ちていた。
三千の常備兵が整列し、その前には赤・青・黒、それぞれの鬼兵を率いる将たちが並び立っている。
秀政がゆっくりと壇へ上がると、兵たちの背筋が一斉に伸びた。
「立て続く戦において、皆の働きは実に見事であった」
冬空の下、秀政の声が兵舎の隅々まで響き渡る。
「常備兵三千。その訓練、その忠義、その働き。
いずれも鬼兵に劣らぬものであった」
兵たちは息を呑み、秀政の次の言葉を待った。
「よって、本日をもってこの場に並ぶ常備兵三千を、鬼兵へ昇格させる。
浅野、長政、政親、鷺山の四名が、お前たちの適性を見極め、所属する鬼兵をすでに決めておる。
この後、一人ずつ役人のもとへ進み、自らの所属を確認せよ」
兵列が大きく揺れた。
歓声を上げる者、涙をこぼす者、その場に膝をついて天を仰ぐ者までいる。
これまで鬼兵は、芋粥家の精鋭だけに許された名であった。その一員として認められたことは、兵としての働きだけでなく、これまでの忠節まで認められたことを意味する。
「鬼兵になって終わりではないぞ。
今後は鬼兵の将を目指し、さらに精進せよ」
「おおうっ!」
兵たちの雄叫びが返った。
新たに鬼兵となった者たちは役人から所属を聞き、それぞれの鬼兵将のもとへ進み出る。
鬼兵将たちは、新たな配下となる者へ具足を手渡していった。
赤鬼の朱塗りの胴。
青鬼の深藍に染められた袖。
黒鬼の漆黒の兜。
具足を受け取った兵たちは、その重みを確かめるように、両腕でしっかりと抱えた。
「これより、芋粥家の鬼兵は六千。
伊勢を守る刃は、さらに鋭くなる」
秀政の言葉に、新たな鬼兵たちは胸を叩き、声を合わせた。
「御意っ!」
その声は鈴鹿の山々にこだまし、伊勢の冬空を震わせた。
*
鬼兵昇格式の翌日、伊勢の城下は祭りのような騒ぎとなった。
「常備兵を募集するそうだぞ!」
「三千人だと!? それほど増やすのか!」
「働きを認められれば、俺たちも鬼兵になれるかもしれんぞ!」
若者たちが家を飛び出し、農民も漁師も職人も、城下の役所へ押しかけた。
お悠は帳簿を広げ、役所の前にできた応募者の列を見ながら告げた。
「弥八様。今年は募集数に対して、例年の三倍を超える応募がございます」
秀政はその列を見ながら頷いた。
「昨日の昇格が、早くも城下へ伝わったようだな。
働きを重ねれば鬼兵になれると、皆が知ったのだろう」
長政も応募者たちを眺め、目を輝かせている。
「義父上、皆、良い顔をしております。
芋粥家の兵になることを、伊勢の民が誇りに思ってくれているのでしょう」
鷺山が豪快に笑った。
「だが、鍛錬は地獄だぞ。
常備兵も鬼兵と同じ鍛錬を受ける。
半端な覚悟で来た者は、すぐに逃げ出すだろうな」
秀政は首を振った。
「逃げる者は逃げればよい。
それでも残った者が、いずれ次の鬼兵となる」
浅野が手にした書付を開き、選抜の基準を読み上げた。
「体力、持久力、命に従う規律、芋粥家への忠義。
さらに、苦しい鍛錬から逃げぬ者を選びまする」
お悠も帳簿へ目を落としたまま補足する。
「装備にかかる銭は問題ございません。
鬼兵六千の維持費はすでに確保しております。
新たに雇い入れる三千人の装備も、来年の収入で賄えます」
秀政は深く頷いた。
「よし。新たな三千も鍛え上げる。
鬼兵六千を支え、いずれその中へ加わる兵たちだ。
浅野、引き続き錬成を頼むぞ」
「は!」
こうして芋粥家は、鬼兵六千と常備兵三千、合わせて九千の常備軍を抱える大名となった。
表向きの石高は二十万石余に過ぎない。
だが、その軍勢はすでに六十万石の実収を持つ大名のものとなりつつあった。
*
年末の冷たい風が伊勢の町を吹き抜ける頃、千種屋当主の松之助が、秀政の帰国後初めてとなる定例報告のため鈴鹿館を訪れた。
いつもなら明るい顔で帳簿を抱えてくる男だが、この日は挨拶の声にも張りがなく、表情も沈んでいる。
秀政はすぐに異変を察した。
「松之助、どうした。
顔色が優れぬぞ」
松之助は深く頭を下げ、しばらく言葉を選んでいた。
やがて覚悟を決めたように口を開く。
「義兄上……我が父、政成のことでございます」
秀政の胸がざわついた。
「義父殿がどうした?
まだ具合が悪いのか。
無理はさせておらぬはずだが」
松之助は俯いたまま答えた。
「父上は……労咳にございます」
その一言を聞いた瞬間、秀政は言葉を失った。
「……労咳、だと?」
松之助は苦しげに頷いた。
「はい。
私も直接顔を合わせることは許されず、今は襖越しに言葉を交わすのみでございます。
父上のそばへ入ることが許されているのは、薬師だけにございます」
松之助は一度言葉を切り、喉の奥から絞り出すように続けた。
「今はまだ咳が出る程度ではありますが、少しずつ痩せ、声もかすれてきていると聞いております。
薬師は、年を重ねるごとに衰え、二年、三年を越すのは難しかろうと申しております」
秀政は息を呑んだ。
(労咳……結核か。
この時代では治せぬ。不治の病だ)
政成は千種屋を支え続け、芋粥家をここまで大きくした名宰相である。
人を見る目にも優れ、芋粥家に多くの人材が揃ったのも、政成あってのことだった。
秀政にとっては、この世界で父と呼べる唯一の存在でもある。
その政成が、少しずつ死へ近づいている。
すぐには受け入れ難い話だった。
松之助は深く頭を下げた。
「義兄上……父上は、長くはありませぬ」
その声は震えていた。
「近頃の蘭姫様の御活躍については、父上にも常々伝えております。
蘭姫様の商才について話すたび、父上は嬉しそうに聞いております」
松之助は顔を上げ、秀政を見つめた。
「そこで、この際、我が嫡男松之丞と蘭姫様の祝言を早め、父上を安心させたいと考えております。
千種屋の先は安泰である。
千種屋と芋粥家の絆も、今後揺らぐことはない。
それを父上に見届けてもらいたいのでございます」
蘭の祝言――秀政にとっては、出来るならば手元に置いておきたいという父としての気持ちはある。
政成がまだ自らの目で見届けられるうちに祝言を挙げる。
政成が最も気にかけていた芋粥と千種の未来。
この祝言は秀政にとっても、政成へ返すことのできる数少ない恩の一つであった。
秀政はしばらく黙り込み、松之助を見つめた。
秀政は深く息を吸い、頷いた。
「……分かった。
蘭の祝言を早めよう。
俺は来年も戦に明け暮れることになる。
その前に、俺も義父殿へ親孝行をしておきたい」
秀政は日取りを頭の中で確かめた。
「祝言は来年二月初めに行う。
お悠と相談し、準備を進めよ」
松之助は深く頭を下げた。
「承知いたしました。
お聞き届けくださり、ありがとうございます」
それから顔を上げ、話を続ける。
「実は、もう一つ考えていることがございます」
「何だ?」
松之助は一度目を閉じ、再び開いた。
先ほどまでの父を案ずる息子の顔から、千種屋を預かる当主、そして芋粥の裏の宰相の顔へと戻っていた。
「蘭姫様の発案により、和紙と漆器の交易を始めることになりました。
この事業は、蘭姫様御自身に取りまとめをお任せになると聞いております」
秀政は頷いた。
「うむ。蘭に任せたい。
娘に活躍の場を与えたいという親心もあるが、それ以上に、蘭が最も適任だと考えておる」
「はい。私も蘭姫様こそ、この事業を預かるに相応しいと考えております。
蘭姫様の商才を信じているからこそでございます」
松之助はさらに言葉を続けた。
「そうであるなら、芋粥家の姫としてサンパイオ商会と接するよりも、千種屋の若女将として接する方が都合は良うございます。
この商いによって生まれる莫大な利益は、芋粥家の財として表に出すべきではありませぬ。
徳川様のように、芋粥家の内情を探ろうとする者は、今後も現れましょう。
商いを千種屋のものとして扱えば、芋粥家の実収を外から悟られずに済みます」
秀政は黙って話を聞いていた。
「千種屋をお信じください。
この交易によって得られた利益は、遠慮なく芋粥家のためにお使いいただいて構いませぬ。
我ら千種屋は、義兄上の表には出ぬ財袋なのですから。
無論、千種屋も甘い汁は吸わせていただきますがな」
秀政はゆっくりと頷いた。
「すまんな、松之助。
確かに、その方がよいだろう。
蘭を頼むぞ」
「はい!」
松之助は、ようやく普段の笑みを見せた。
「蘭姫様のことは、このように小さな頃から可愛がってまいりました。
幸い、蘭姫様も私を慕ってくださっております。
今後は義理の娘となりますが、義兄上以上に可愛がってみせますぞ」
秀政は思わず笑った。
「ふっ。千種屋へ嫁ぐのであれば、蘭にとっても幸せだろう。
あやつは武家の姫として暮らすより、商家の若女将となる方が合っていたのかもしれんな」
「左様でございますな」
松之助は深く頷いた。
「祝言につきましては、私どもへお任せください。
織田家宿老を務める芋粥家。
そして東海一の千種屋。
両家に相応しい立派な祝言としてみせまする」
「任せた。
俺は年始の軍議を考えるだけで気が重い。
祝言の細かな準備まで考える余裕はないからな。
ただ楽しみに待つとしよう」
松之助は、今度こそ力強く頷いた。
そして年が明けると、安土で開かれる年始の軍議へ出席するため、秀政は伊勢を発った。




