第二百四十二話 表に出ぬ六十万石
家族たちとの話し合いが一段落した頃、明がそっと秀政へ歩み寄った。
「父様」
その声は、いつもの明るさより少しだけ慎重で、何か胸に秘めた思いを抱えているようだった。
秀政は顔を向ける。
「ん?なんだ?」
明は一度だけ蘭の方を見て、意を決したように口を開いた。
「もし蘭に和紙を任せるのでしたら、父様と蘭に……もう一つだけお願いがございます」
秀政は眉を上げた。
「なんだ?」
蘭も不思議そうに首を傾げる。
「姉様、私に何か?」
明は静かに頷いた。
「実は……しゃぼん交易において、元々この国で買い手のないなまくら刀を使った取引に関して、私は乗り気ではありませんでした。
何か……まるで人を騙しているようで……」
その言葉に、蘭がすぐに反応した。
「姉様、違いますよ。刀を買い取る南蛮の方も喜んでいるのです。
双方が納得し、得をしています」
明は微笑んだが、その目は揺れていた。
「商人はそう考えるのでしょうね。
ですが、これは私の気持ちの問題なのです」
秀政は明の胸の内を理解した。
明は優しい。
人を騙すような商いは、たとえ双方が得をしていても心が痛むのだ。
明は続けた。
「ですから、この商いを徳川様にお譲りしても、しゃぼんさえ手に入るのであれば何の問題もありません。
そもそも、別の交易に関して少し興味がありましたので、丁度良い機会だと思いました」
秀政は目を細めた。
「他の交易?和紙以外にも売れる物があると?」
明は小さく頷いた。
「考えている物はあります。
売れるかどうかは父様や蘭の意見を聞きたいです」
蘭が身を乗り出す。
「何ですか?」
明は少し照れながらも、しっかりと答えた。
「漆器です。
この伊勢には“伊勢春慶”という漆器文化があります」
その名を聞いた瞬間、蘭の瞳が輝いた。
「知っていますっ!
伊勢春慶は、檜の木地、柿渋の下塗り、透明漆の仕上げという特徴を持っていて、木目が透ける美しい赤褐色の漆器……!
確かに南蛮で売れると思います!」
明は嬉しそうに笑った。
「よかった!
蘭が良いと申すものは、たいてい多くの者にも喜ばれるのです。」
秀政は感心したように呟く。
「蘭はセンスが良いのだな」
明は首を傾げた。
「扇子?」
秀政は苦笑した。
「扇子ではない。
南蛮言葉で商売の感性が優れているという意味だ」
明は照れながらも頷いた。
「はい!蘭は本当にそうです。
蘭、この伊勢春慶をロレンソ様との商材に使えますか?」
蘭は少し考え、すぐに答えた。
「はい!
そうですね……。
伊勢湾の真珠を象嵌したり、螺鈿を追加したり、金銀細工を施すと、ますます南蛮交易で高い値が付きそうです」
明は思わず声を上げた。
「まぁ! それは良いかもしれませぬ」
蘭は勢いづいた。
「宝飾漆器として売れば、なまくら刀よりも嵩張らず、重くもありませぬ。
ロレンソ様も喜ばれましょう。
伊勢型紙と伊勢春慶。
この伊勢を代表する工芸を使えば、価値が跳ね上がりましょう!」
明は力強く頷いた。
「はい!そういう訳です。
父様、これも蘭に任せてよろしいでしょうか?」
秀政は笑った。
「良いも何も……こちらから頼みたいくらいだ。
お前たちは本当に義父殿やお悠、松之助に似て、商才が化け物だな!」
蘭は口元を押さえて笑いながら茶化すように言った。
「父様、化け物だと恐ろしゅうございます。
天賦の才とお褒め下さい、ふふふ」
秀政も笑いながら続けた。
「そうだな。
なまくら刀を飾り刀に仕立て、南蛮人へ売る商いは、いずれ誰かが真似をするやもしれぬ。
そんな商材は早々に徳川にくれてやっても損にはならぬ。
逆に和紙や漆器は伊勢だからこそできるのだ。
一を失ったことで二を得た。
お前達のおかげで芋粥は栄える。
俺の誇りの娘達だ」
明と蘭は本当に嬉しそうに笑い、二人で見つめ合った。
秀政はその光景を見ながら、静かに思う。
(禍を転じて福と為す……か)
*
商いの話が一段落したところで、政親が口を開いた。
「私も商人の息子ではありますが……
明姫様と蘭姫様には敵いませぬな」
政親は苦笑しながらも、どこか誇らしげだった。
「この和紙交易と漆器交易、そしてしゃぼん交易が上手くいけば、山椒交易も含めて――
表向きの石高には現れぬ二十万石相当の収入にはなりましょう」
その言葉に、秀政の眉がわずかに動いた。
政親は続ける。
「姉上、そろそろ芋粥も常備兵の拡充を図るべきかと思いますが……
今の実収は、石高に換算して如何ほどでございましょうか?」
お悠は静かに頷き、帳簿を思い浮かべるように目を細めた。
「そうですね……石高に関しましては、南條たちの活躍によって、新田開墾がここ数年で着々と広がっております」
その声は落ち着いていたが、内容は驚くべきものだった。
「大殿様には二十万石余で報告しておりますが――
湊からの銭収入も含めれば、四十万石相当にはなるかと」
秀政は思わず身を乗り出した。
「なんだと!?
そこまで膨らんでおったのか」
お悠は淡々と続ける。
「はい。
新田開墾による増収、肥料の改良による上田化、二毛作の普及による収量増加。
さらに湊の通行税・倉敷料・海運の取り分……これらを合算すれば、四十万石は堅い数字です」
秀政は息を呑んだ。
「これに南蛮交易の差益二十万石を上乗せすると……
俺の実質石高は六十万石!?
大大名ではないか!」
胸の内で、家康の顔が浮かぶ。
(む……?
徳川め、これに関しては正確に四十万石と見抜きおったな。
南蛮交易で二十万石も上乗せされるとは思わなかったようだが……)
秀政は深く息を吐き、改めてお悠へ向き直った。
「お悠。
そこまでの石高が見込めるならば――
常備兵六千をもっと拡充できぬか?」
お悠は静かに秀政を見つめる。
秀政は続けた。
「さらに欲を言えば、その内訳の鬼兵を増やしたい。
常備兵三千に、鬼兵が赤・青・黒の各二千。
合計九千にしたい」
秀政の一度お悠の目を見つめてから続けた。
「お悠、出来るか?」
お悠は少しだけ目を閉じ、頭の中で数字を組み立て始めた。
そして――ゆっくりと口を開いた。
「弥八様。可能でございます」
その言葉は、迷いのないものだった。
「まず、六十万石相当の実収があるならば――
常備兵九千は十分に維持できます」
お悠は指を折りながら、淡々と説明を続ける。
「その上で、鬼兵六千、常備兵三千――
常備兵三千を一人二十石、鬼兵六千を一人三十石で扶持いたしますと、合わせて二十四万石となります。
しかし、弥八様。
六十万石の実収がある芋粥家ならば、全体のおよそ四割を軍事に回しても、なお三十六万石が残ります。
維持は工夫次第で可能にございます」」
「二十四万石……それを食わせることが出来るようになったのか」
秀政は思わず息を呑んだ。
お悠は続ける。
「はい!芋粥家の財力ならば“なんとか”維持できます。
私にお任せ下さい」
そして、静かに微笑んだ。
「赤・青・黒の鬼兵を二千ずつ。
合計六千の精鋭。
これこそ、芋粥家の武威を示す軍勢となりましょう」
秀政はしばらく言葉を失った。
そして――ゆっくりと頷いた。
「……そうか。
ならば、鬼兵六千でいく」
芋粥家は、経済でも軍事でも――ついに“化け物”の領域へ踏み込んだのだった。
あとがき
公表二十万石、実高四十万石というんは武家芋粥家の米収入や湊の税、従属勢力からの上納、芋粥家の交易によるものです。
表に出ないスパイス貿易等の二十万石は千種屋によって行われており、芋粥家では実態はあまり見えていません。
結果的にそれのおかげで徳川家もつかめないのかもしれません。
二十万石相当は千種屋が芋粥家に支援できる資金で、実質芋粥家の裏金でもあります。
おそらく二十万石はあるだろうという政親の予想です。
和紙や漆でもっと増えるかもしれません。




