第二百四十話 化け狸と化け芋
秀政はすぐには答えられず、家康も返事を急かさない。
客間には火鉢の炭が爆ぜる音だけが残った。
秀政は、家康の揺るがぬ目を真正面から受け止めた。
その目からは、虚勢なのか確信なのかを読み取れなかった。
この男は、相手を脅す時でさえ呼吸を乱さない。
秀政はゆっくりと口を開いた。
「徳川殿。
貴公は一つ間違っておる」
家康の眉はわずかに動いた。
だが表情は変わらない。
「間違いとな?」
秀政は家康の目を見据えたまま続けた。
「左様。
俺の伊勢の状況は殿も重々把握しておられる。
総構えにしても、馬にしても、財力にしても、そして帆船にしてもだ」
家康は頷きもせず、ただ聞いている。
秀政はさらに踏み込んだ。
「その上で俺が織田に忠誠を誓っていることを承知して、俺のことを信用しておられる。
そもそも、俺には叛意が全くない!」
家康の瞳は微動だにしない。
その沈黙が、逆に秀政の胸を刺激する。
秀政はあえて言い放った。
「構わぬ。
徳川殿はそのまま殿にその戯言とやらをお伝えするがよろしかろう」
(さぁ、家康よ。どう出る?
この揺さぶりに、どれほど反応を見せる?)
家康は静かに息を吐いた。
「……左様ですか。
真にそう思われているのですか?」
家康の声は穏やかだったが、秀政の無知を確信している口ぶりだった。
それが演技なのか真実なのかも判断が付かない。
「伊勢殿は何一つ、あの噂をご存知ないようだ」
(くそ……家康め。顔色一つ変えぬ。
こちらの揺さぶりには全く応じる気配がないな。
噂だと?何のことだ?)
秀政は虚勢を張った。
「噂?
俺は伊賀に独自の伝手を持っている。
噂の一つもあれば知らぬ道理がない」
家康は軽く笑った。
「はっはっは。左様ですか。
それは失敬致しました」
(くっ……主導権を握られているようで腹立たしいな)
秀政はさらに踏み込む。
「先ほども申した通り、俺は“徳川殿と違って”叛意は一切ない」
家康の瞳がわずかに細くなる。
「儂と違って?」
(これでも顔色は変わらぬな。化け狸め)
秀政は家康の腹を読むように言葉を重ねた。
「この俺が気付いていないとでも?
武士たるもの、目の前に領土が落ちていて、それを無視するわけがない。
今、徳川殿が武田領を欲することの、どこに問題がある?」
家康は静かに聞いている。
秀政はさらに深く刺した。
「殿は腹に一物ある者より、欲に忠実なる者の方を信用なさる。
一言、殿に“武田領を獲ってから北条を叩く”と申し上げれば済むこと」
家康は首を横に振った。
「いやいや、信長様より命じられたのは北条攻めだ。
それに従わぬは叛意とみなされよう」
秀政は鼻で笑った。
「そんなどうでも良いことを自らの弱点だとして、この俺を交渉の場に立たせようとでも?」
(どうだ、家康。少しくらい化けの皮を剥がしてみせろ)
家康は静かに返した。
「伊勢殿は信長様から疑われる理由などなく、儂もまた何一つ背いておらぬ。
ゆえに、信長様へ明かせぬ事情など双方に存在しない――そう申されるのですかな?」
(焦りが見えたか?もう一押しか)
秀政は家康の目を見据えたまま言い放った。
「いや、俺には問題はないが、徳川殿には問題が大いにある。
叛意が隠しきれておらぬ」
家康はすぐには答えなかった。
それまで一定だった返答に、初めて短い間が生じた。
「なんですと?」
秀政は家康の未来を言い当てるように続けた。
「徳川殿の真意は、武田領への欲ではない。
武田領はただの蓋に過ぎぬ。
先に武田領を奪い取って、織田に対して東の蓋をする。
これ以上織田が東に手を出せぬようにな。
そして東海道、甲信、関東を手に入れて一大強国を作る。
それこそ――織田にすら手が出せぬほどの坂東大国だ」
家康は鼻で笑った。
「ふっ。面白いことを」
その笑いの“間”が、ほんのわずかに狂った。
秀政はそれを見逃さなかった。
(今だ。この一瞬の揺れが、家康の本心だ)
秀政はさらに刺した。
「動機は……奥方とご子息のことか?
力がなければ家の者を守れぬとでも悟られたか?」
家康の声が低くなる。
「あの者らは武田と通じたゆえに、儂の意志で誅した。
それだけだ」
秀政は静かに言った。
「もう諦められよ。この俺には全てお見通しだ。
明日にでも安土へ赴き、この話を殿へお伝えしようか?」
家康の瞳がわずかに揺れた。
秀政は続けた。
「好都合だ。
俺は四国方面軍を解任されて、今度は東海道方面軍の軍団長になるだろう。
俺は元より四国には興味がない。
欲しいのは――三河、遠江、駿河だ!」
家康は沈黙した。
(主導権を奪い取ったか)
家康は静かに言った。
「決裂……ということですな。
次に会うは戦場でしょうか」
家康が立ち上がろうとした瞬間――秀政が手を伸ばした。
「待たれよ。
俺が技術供与したとして、貴公は何を我らに提供してくれる?」
家康は目を細めた。
「ん?」
秀政は静かに言った。
「同盟の話だ」
家康は一瞬だけ驚いたように見えた。
「ほう。まだ同盟の余地があると申されるか?」
秀政は笑った。
「望まれたのは徳川殿であろう」
家康はゆっくりと座り直した。
「一つ、信長様への取り成し。
一つ、三河、遠江における芋粥商人の通商の優遇。
一つ、三河が培ってきた馬産の技。
この三つを伊勢殿へ差し上げましょう」
(取り成し――俺の働きを徳川の側からも殿へ伝えてくれる。
織田家中で俺を危険視する声が上がった時にも、徳川が擁護に回る。
三河商人との取引で優先を得られる。
伊勢と三河を結ぶ商いを広げれば、東海道へ食い込む足掛かりになる。
三河の馬育成術を伊勢牧場へ導入すれば、巨馬の質はさらに向上する。
……なるほど。これは旨いな)
秀政は静かに言った。
「良いでしょう。その三つを頂けるなら、徳川殿と手を結びます」
家康はしばし秀政を見つめた。
「……しかし、なぜ?」
(俺に叛意はない。殿も俺の言葉を信じてくれるだろう。
だがな――家康がそう思うということは、皆もそう思うのだ。
いくら殿が信じてくれても、伊勢からは国替えを命じられるだろう。
徳川には黙っていてもらうしかない。
最初の時点から俺は徳川に負けていた。
断れぬほど追い詰められていた。
だがな――素直に負けを認める俺ではないわ!)
秀政は静かに答えた。
「徳川殿。俺は白だ。だが、貴公は違う。
今この場で事を荒立てれば、先に詰むのは徳川家だ。
ここで徳川を失うのは織田家にとって損です。
ゆえに、この場は黙っておきます。
となると、同盟しかありますまい」
(俺も半分共犯になるということだ)
秀政は笑った。
「ですが、徳川殿。
この大きな貸しは、いずれ返してもらいますよ?」
家康は肩を揺らして笑った。
「ふ、はははは。
伊勢殿は最後まで譲られませぬな」
秀政も笑みを崩さない。
「譲る理由がありませぬ」
家康はゆっくりと頷いた。
「左様ですか。
ですが、貸しなどはござらぬ。
儂は伊勢殿の腹を知った。
伊勢殿もまた、儂の腹を知った。
互いに一つずつ飲み込む。
それで五分でござろう」
秀政は黙って家康を見つめた。
家康は穏やかな笑みを浮かべる。
「伊勢殿は叛意などないと申される。
儂は、そうは思わぬ。
儂は北条の件を抱え、
伊勢殿は伊勢の備えを抱えておる。
互いに相手を信長様へ申し立てぬ。
ただ、それだけのこと」
秀政は小さく笑った。
「なるほど。
つまり貸し借りなし、と」
「左様」
家康は迷いなく頷いた。
「だからこそ、この同盟は対等なのでござる」
秀政は静かに立ち上がった。
「良いでしょう。
では、対等な同盟ということで」
家康も立ち上がる。
「末永く、よろしくお願いいたす」
二人は互いに笑みを浮かべた。
化け狸も、自らを化かせる者が現れるとは思っていなかった。
そして化け芋もまた、化け狸の腹の底を初めて覗き見た。
こうして、二人の化け物は互いの腹を知ったまま、対等な同盟を結ぶのであった。




