第二百三十九話 家康、伊勢来訪
伊勢へ向かう街道。
冬の風が馬の鬣を揺らし、乾いた土煙がゆっくりと舞い上がる。
秀政と政親は並んで馬を進めていた。
雷神巨砲の台車は岸和田にある。
あの台車を置いておくだけで、岸和田城を攻めようとする者はいなくなる。
それほどの威力を持つ空箱だった。
秀政が手綱を軽く操りながら、政親へ視線を向けた。
「政親。
……で、何か良い案は思いついたか?」
政親は深く息を吐き、肩をすくめた。
「良い案? 屁理屈を並べた言い訳のことですな?
全く……義兄上が“伊勢に帰りたいだけ”という本音を隠すための屁理屈を、考える方の身にもなってください」
秀政は笑った。
「それを何とかするのがお前の役目だろう。
俺は軍団長だ。軍略を考えるのが仕事だ。
屁理屈はお前の仕事だ」
政親は呆れたように目を細めたが、やがて観念したように口を開いた。
「……では、並べますぞ。
まず一つ目。
“度重なる戦乱で常備兵が減った”」
「ふむ。実際にはさほど減っておらぬが、言い訳には使えるな」
政親は続けた。
「二つ目。
“精鋭の鬼兵が減った”。
これも実際には今回はそれほど減っておりませぬが、鬼兵は芋粥軍の象徴。
減ったと言えば大殿は必ず気にされる」
「良いな。鬼兵は殿も気に入っているからな」
政親はさらに続けた。
「三つ目。
“長宗我部の一領具足は強い”。
これは正論です。
農閑期の一領具足は侮れませぬ。
補強せずに渡海すれば、大きな痛手を負う恐れがあると説明できます」
「それは確かに正しい。
屁理屈というより軍略だな」
政親は指を折りながら次を述べた。
「四つ目。
“新たな常備兵の雇い入れ”。
伊勢国内の守備兵を増やすという名目で、伊勢に戻る理由になります」
「殿は常備兵の増強を好むからな。
これは通る」
そして最後の一つだ。
「五つ目。
“既に雇っている常備兵を鬼兵化する”。
鬼兵の再編という名目なら、軍団長が帰国する理由として十分です」
秀政は馬上で軽く手を叩いた。
「良い。
それを言い訳にしよう」
政親は深くため息をついた。
「義兄上の我が儘とはいえ、伊勢に戻れるのは悪くありませんな」
秀政は真面目な顔で、しかし目だけは笑っていた。
「そうだろう?
言っておくが、俺は最適な軍略を考えてのことだ。
……ついでに澪にも会うだけだ」
政親は呆れたように空を仰いだ。
「はぁ……。
では“大殿への言い訳”は私が整えておきます。
もっともらしく準備しておきます」
秀政は満足げに頷いた。
「頼んだぞ、政親」
政親は肩を落としながらも、どこか楽しげだった。
冬の風が二人の馬を押し、伊勢へ向かう街道はゆるやかに続いていた。
*
秀政たちは伊勢に到着し、家族に出迎えられ、ようやく一息ついた。
(軍団長になれたことで、手に入れた長い冬休みだ)
秀政は澪と遊び、家族との団らんを楽しむ一方で、年末までに済ませるべき政務も順に片付けていた。
兵たちは久々の休息に沸き、城下には正月の支度が始まっている。
そして十二月の半ばとなった。
*
伊勢・鈴鹿城。
冬の空気は澄み、雪こそ降らぬものの、庭の松の枝は白く凍りついていた。
そんな折、城門から急使が駆け込んできた。
「秀政様……徳川家康様が、内密に来訪されております」
秀政は眉をひそめた。
「家康殿が……伊勢に?」
政親も息を呑む。
「この時期に……しかも内密とは」
秀政は来訪の目的を測りかねたまま、玄関へ向かった。
玄関には、黒羽織をまとった家康が立っていた。
供回りはわずか数名で、徳川家の当主が他国へ入るにはあまりにも少ない。
表向きは伊勢神宮参詣の帰りであった。鈴鹿の宿には大勢引き連れているが、鈴鹿城には商人にやつして訪問している。
家康は突然の来訪を詫びる様子もなく、普段と変わらぬ穏やかな顔で秀政を待っていた。
秀政は自然と手を伸ばし、家康を奥の客間へ迎え入れた。
二人が座した瞬間、家康は静かに口を開いた。
「徳川三河守家康にござる」
「芋粥伊勢守秀政です」
二人は互いの官途をもって、改めて挨拶を交わした。
そして家康はちらりと政親を一瞥すると黙り込んだ。
秀政が察する。
「政親、下がれ。誰も寄せるな」
「はい」
政親は頷くとゆっくり立ち上がり退出した。
周りから人の気配がなくなって、ようやく家康が口を開いた。
「伊勢殿。北条は強い」
秀政は目を細めた。
家康は続けた。
「北条は武田、上杉との三国同盟を後ろ盾として、我らと対峙する構えを見せております。
されど、奴らが望んでおるのは徳川との決戦ではない。
東国の均衡を保ったまま、関東を呑み込むことです」
家康は表情一つ変えずに淡々と続けた。
「徳川もまた、信長様の命で北条と対峙しておりますが……。
本心では北条と戦う気はない。
むしろ武田領を取りたい」
秀政は静かに問うた。
「それを俺に伝えても?」
家康は薄く笑った。
「伊勢殿が信長様にお伝えしたら……徳川は終わりますな」
秀政は困惑した。
自分から首を差し出して、いったい何を取り引きしようというのか――理解が追いつかない。
家康はその表情を見て、さらに踏み込んだ。
「そういう伊勢殿も……
信長様に対する謀反の準備は順調ですな」
秀政は即座に返した。
「は?謀反など微塵も考えておらぬが?」
家康は指を折りながら、淡々と秀政の“戦力”を並べ始めた。
「ならば、鈴鹿を囲む総構えは何のためですかな?
蔵も多く、兵糧も潤沢に蓄えられておる。
巨城こそないが、ここに籠れば十万の大軍も防げましょう」
「……」
「表向きの石高は二十万石ほどとされておりますが、実際の収入は四十万石を優に超えておりましょう」
「……」
「鉄砲も千五百挺ほど、最上級の物を集めておられますな」
秀政の眉がわずかに動く。
家康はさらに続けた。
「南蛮大砲など、数を悟られぬよう、各地に分けて隠し持っておられる。
大砲の弾も火薬もだ。
なにやら南蛮人と面白い商売もされておるようですな。
銭の流れが一介の大名には収まらぬ」
秀政は表情一つ変えないが、背中には汗が流れ落ちた。
(この狸……どこまで把握しておる?
鉄砲も大砲も、家康の挙げた数とは合わぬ。
おそらく当て推量で、こちらの反応を測っているのだろう。
それに、銭の流れまでは掴んでいても、スパイス貿易の仕組みまでは知られておるまい)
家康は秀政の反応を楽しむように、さらに言葉を重ねた。
「そして――ガレオンを量産しようとしておられる」
秀政は苦笑した。
「何のことやら……」
家康が笑顔を見せた。目が笑っていない笑顔だ。
「いやいや、信長様に献上されたのは最初の一隻ですな。
今なお、志摩の辺りで帆船建造の研究を続けておられる。
内密にガレオンが量産できれば……。
そして鈴鹿に籠れば、包囲した軍はガレオンの大砲で木っ端みじんです。
弱った所を打って出れば、十万の軍勢を相手に戦を覆すことも、絵空事とは申せますまい。」
秀政が大げさに手を振って否定した。
「徳川殿は妄想がすぎまする。
南蛮人の助けがなくばガレオンは作れませぬ。
それは、一隻を造らせた俺が身に染みて分かっております」
(帆船研究が見抜かれているか……。
家康はフリゲートではなく、ガレオン量産と判断したようだな)
家康はさらに続けた。
「伊勢牧場の巨馬も立派ですな。
あれほどの軍馬を揃えれば、いずれ海と陸の両方で戦える軍になる」
秀政はついに言った。
「もうよかろう。
いい加減、本心を申されよ」
家康は静かに笑った。
「ははは。さすが伊勢殿だ」
家康は背筋を伸ばし、秀政を真正面から見据えた。
「簡単なことだ。
わしは何も知らぬ。
先ほど口にしたことも、全て根拠のない戯言でござる。
その代わり、伊勢殿が築かれた富国の仕組みを、徳川にも少し分けていただきたい」
秀政は目を細めた。
家康は続けた。
「同盟を結びたい。
それも――暗黙の同盟だ」
秀政は問う。
「織田ではなく、この芋粥とですか?」
家康は迷いなく頷いた。
「はい。
一方的に伊勢殿の弱みを握ったままでは、同盟とは申せませぬ。
ゆえに、わしも徳川の本心を先に明かしました。
互いに信長様へ明かせぬ事情を持つ者同士、組む相手としては実に都合がよいと思われませぬか?」
秀政はしばし沈黙した。
家康は穏やかな顔のまま、答えを待っている。
自ら徳川の弱みを明かしたことさえ、秀政を取り引きの席から逃がさぬための手であった。
(ただ待っていて天下が転がり込んできたとも言われているが、そうではない。
この男は天下を取れる器を持つ男だ)
徳川と結べば、織田家中で生き残るための備えはさらに厚くなる。
だが同時に、信長に知られれば謀反と断じられても弁明できぬ取り引きであった。
秀政は、すぐには返事をしなかった。
家康も答えを急かさない。
秀政が容易には断れぬことを、すでに見抜いている顔だった。




