第二百三十七話 偽りの巨砲
岸和田城の城門が見え始めた頃、秀政は馬をゆっくりと進めた。
安土から戻る道のりは長かったが、胸の内には確かな手応えがあった。
城門をくぐると、政親、鷺山、長政がすでに城門で待ち受けていた。
三人とも緊張した面持ちで、秀政の帰還を迎える。
政親が一歩進み出て、静かに問うた。
「義兄上……如何でしたか?」
秀政は馬を降り、軽く息を吐いた。
「あぁ、殿から許可を頂いた。
面白い戦をする、と褒められたぞ」
その言葉に鷺山が目を丸くした。
秀政はそちらに向き直り、口元を緩めた。
「鷺山、お前のおかげだ」
鷺山は慌てて手を振った。
「い、いえ、とんでもない。
俺の案は浅いけど……その……松ですら思いつかぬ、途方もなく素晴らしい案でした」
政親がすかさず横から小さく咳払いした。
「利玄、調子に乗るな」
鷺山は肩をすくめ、長政は笑いを堪えている。
秀政はその空気を楽しむように笑った。
そして、すぐに顔を引き締めた。
「ふっ。……で、すぐに発てるか?」
長政が一歩進み出て、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。
「はい。ですが、少々お待ちいただくことはできますか?」
秀政は眉をひそめた。
「ん? 何かあるのか?」
長政は胸を張って答えた。
「はい。これは明の発案ですが――
“雷神巨砲の台車”を作っております」
秀政は思わず目を細めた。
「明の案? 台車?」
「はい。折角の鷺山殿の途方もなく素晴らしい案ですので」
鷺山は顔を真っ赤にした。
「わ、若……からかうのはおやめくだされ」
長政は笑いながら続けた。
「はは。いや、明としては“噂に尾ひれを付けた方が効果が高い”と申しておりまして」
秀政は腕を組んだ。
「それで台車か?」
長政は力強く頷いた。
「はい。八組の車輪で支え、木製で中身が見えない巨大な馬車箱を作らせております。
まもなく完成します。
実際は中に兵糧を入れて運びますが――
道行く者はその異様な台車と雷神巨砲の噂が相まって、“凄まじい砲台”を想像するでしょう」
秀政は腹の底から笑った。
「ははは、それは面白い。
そのように巨大な箱で運ぶ大砲であれば、城すら粉砕してしまうな」
政親も口元を緩めた。
「明姫様らしい、実に細やかで巧妙な尾ひれですな」
秀政は頷き、声を張った。
「よい。待つぞ。
完成するまで噂を流し続けろ」
長政は深く頭を下げた。
「は!」
雷神巨砲の噂は、さらに巨大な影を伴って摂津へ広がっていく。
有岡城の城兵たちがその影を見た時、何を思うか――芋粥家の者たちは、すでにその未来を確信していた。
*
そこから十日ほどして、雷神巨砲の台車は完成した。
巨大な馬車箱を、八組の車輪が支えている。
車輪はいずれも人の背丈ほどの直径があり、外周には鉄の輪が巻かれていた。
箱は小さな櫓ほどの高さがあり、その側面には南蛮文字を思わせる見慣れぬ印が黒々と描かれていた。
十頭の馬が力を合わせて曳くたび、鉄輪が街道を軋ませ、道端の小石が跳ねた。
「……あれが雷神巨砲か」
それまで雷神巨砲を法螺話だと笑っていた者まで、巨大な箱を前にすると口を閉ざした。
信貴山城を吹き飛ばした大筒が、あの中に収められている。
誰も中身を確かめられぬ以上、その噂を否定することもできなかった。
*
摂津・明智の陣。
本願寺攻めは停滞し、荒木村重の反乱で戦線は乱れ、光秀の胸中は晴れないままだった。
その光秀のもとへ、家臣の明智秀満が駆け込んだ。
「殿……芋粥軍が、有岡へ向かっております」
光秀は地図の前で立ち尽くしていた。
摂津の地形を見つめるその目は、静かだが深い影を宿している。
「……聞いておる。
雷神巨砲とやらを作ったそうだな」
秀満は苦笑した。
「はい。道行く者が震え上がるほどの代物だとか」
光秀はゆっくりと秀満へ向き直った。
怒鳴りもせず、机を叩きもしなかった。
ただ、有岡城の上に置いた指だけが、いつまでも地図から離れなかった。
本願寺攻めで功を挙げられぬまま、今度は摂津平定まで秀政に先を越されようとしている。
それを看過できるほど、光秀は功名に淡い男ではなかった。
「秀満。
本願寺攻めは停滞し、荒木の反乱で我らは振り回された。
その結果……儂は泥水ばかりを啜らされておる」
秀満は言葉を失った。
光秀は続けた。
「摂津の乱を鎮める功。
荒木村重を討つ功。
それらは本来、我らが立てるべき大功だ。
それを……芋粥に先んじて奪われるやもしれぬ」
秀満は慌てて言った。
「殿は大殿の寵臣、織田家中でも指折りの出世頭にございます。
――たかが芋粥の奇策くらいで殿のお立場は揺るぎますまい。
その場しのぎの奇策など功とも言えませぬ」
光秀は首を横に振った。
「秀満。
戦国において“奇策”は功そのものだ。
信長様は結果を見られる方だ。
芋粥が有岡を一夜で落とせば……必ずあやつを高く評価される」
光秀は地図の上に手を置いた。
「……我らは、また一歩遅れを取ったのだ」
秀満は何も言えなかった。
「いや、まだ間に合う。
その巨砲とやらで荒木の心を乱し、芋粥が訪れる前に有岡を落としてくれん」
*
一方、佐久間信盛の陣は騒がしかった。
兵たちが槍を整え、馬を引き、戦支度を進めている。
その喧騒の中で、信盛はただ一人、沈んだ顔で座していた。
そこへ嫡男・佐久間信栄が歩み寄った。
「父上。芋粥軍が有岡へ向かっております」
信盛は顔を上げた。
彼は秀政を敵とは思っていない。
命を救われた恩も忘れてはいなかった。
それでも、自分の担当する摂津で秀政が大功を挙げれば、信長の目に両者の差がどう映るかは分かっていた。
「……聞いておる。
雷神巨砲だと? 馬鹿げた噂だと思っていたが……
道行く巨砲を見た者が震え上がっておるそうだな」
信栄は頷いた。
「はい。
有岡の兵も、芋粥が来ると聞いて浮き足立っているとか」
信盛は拳を握った。
「信栄。
摂津を任されているのは誰だ?」
「父上です」
「そうだ。
摂津を治めるのは佐久間家の役目だ。
それを……芋粥に奪われるなど、あってはならぬ」
信栄は少しだけ言いづらそうに口を開いた。
「父上……芋粥は今や織田家宿老。
功を奪われてばかりいては、我らの立場が……」
その言葉に、信盛の顔がわずかに歪んだ。
怒りでもなく、焦りでもなく――
恩義と恐怖が混ざった、不穏な影 だった。
「……信栄。
秀政には命を救われた。
危地から引き上げてもらったこともある。
あやつのことを信頼しておる。
だが――」
信盛は拳を強く握りしめた。
「宿老にまで昇り、横に並ばれた。
恩義半分、恐れ半分だ。
このまま功を奪われ続ければ……
殿の御前で、佐久間家は立つ場所を失う」
信栄は息を呑んだ。
信盛は深く息を吐いた。
「……芋粥が有岡を落とせばすぐに、我らも動くぞ。
本願寺を仕留めて、我らも功を積まねばならぬ!」
信栄は力強く頷いた。
「は!」
光秀が秀政に先を越されまいと動いたのに対し、信盛は自らの立場を守るために本願寺攻めを急ごうとしていた。
二人の大名が、それぞれの立場を守るために焦り、動き始めていた。
そして――その全ての中心にいたのは、芋粥家だった。




