第二百三十四話 一領具足の弱点
安土城・奥の間。
信長は秀政を一瞥し、ただ一言で告げた。
「……申せ」
秀政は深く頭を下げ、正直に報告した。
「松永弾正久秀、討ち果たしました。
しかし――名物はすべて粉砕されました」
信長の指が机の上で止まった。
その一瞬の静止だけで、秀政には信長の怒りが分かった。
もちろん事前に文では伝えてある。
当然信長のことだ。
裏を取るために忍びからの報告も受けていることだろう。
秀政は続けた。
「名物を手に入れるため、二ヶ月にわたり開城を説きました。
しかし……まさか名物を道連れに、自身と天守を吹き飛ばすとは思いもよりませなんだ」
信長は表情を変えず、机の文書をゆっくりと揃えた。
乱れてもいない文書を触るのは、平蜘蛛を失った悔しさを押し殺すためだろう。
「どうやら平蜘蛛に火薬を満たし、宝物の間ごと爆ぜさせました。
他にも紹鴎薄雲、松永尻張、荒磯大海まで道連れにしたとか……。
欠片すら残っておりませぬ」
信長は文書を揃え終えると、しばらく指を止めた。
松永を討ったことより、失われた名物の方を惜しんでいる。
それほどまでに執着していたのだ。
秀政はさらに言った。
「そのため、我が鬼兵の精鋭五名も巻き添えとなりました。
松永に対する怒りは……収まりませぬ」
信長は短く息を吐いた。
怒りをなんとか理性で抑えているようだった。
秀政が口を開いた。
「殿。摂津を守るためには必要な――」
「芋、良いから黙れ」
信長は手を上げて遮った。
声は静かだが、表情は怒りに満ちていた。
しかし次の言葉はまるで逆だった。
「芋……よくやった。
褒めて遣わす」
秀政は背筋を正し、声だけは殊勝に答えた。
「ははぁ! ありがたき幸せ!」
信長はふんと鼻を鳴らし、袖を払うように手を振った。
「……お前は茶湯をやらなんだな?」
秀政は即答した。
「はい、田舎者ゆえ、茶湯は不躾で」
聞きながら信長は机を指で軽く叩いた。
「……そうか」
その一言に、秀政は“名物を惜しむ心”を感じた。
「お前に命じたのが間違いだったわ。
いや……あの名物を持ってこれば、和泉のどこかの城をやるとでも言えばよかったか?」
秀政は目を見開いた。
「おお!
和泉の城を頂けていたら、それがしが先頭を切って信貴山に突入し、平蜘蛛を抱きかかえて持ち出しましたものを!」
信長は袖を払うように手を振った。
「ふん! もう良い!
はよう、長宗我部を討ってまいれ!
早よいけ、早う!」
秀政は深く頭を下げた。
「ははっ!!」
信長は背を向けたまま、小さく呟いた。
「……弾正め……」
その声に、秀政は“怒りと哀惜が入り混じった本音”を確かに感じ取った。
*
秀政が大和の陣へ戻ると、長政たちが迎えた。
皆の顔には、信貴山の爆裂の余韻がまだ残っている。
秀政は馬から降りると、軽く肩を回しながら言った。
「名物を失ったことは――お咎めなしじゃ。
むしろ褒められたわ」
政親が目を丸くする。
「褒められた……? 大殿が、ですか?」
秀政は信長の“あの顔”を思い出し、鬼の面のような形相を作ってみせた。
「こんな顔で、じゃ」
政親は吹き出した。
「それは……褒めておられる顔ではございませぬな」
綾芽も肩を震わせ、明は口元を押さえて笑った。
秀政は手を振った。
「まあ、褒められたのだ。
怒っておられたが……褒められたのだ」
政親は笑いながら言った。
「当然と言えば当然ですね。
名物一つよりも織田家の浮沈の方が大事でしょう。
ただ、人はそう単純に気持ちを支配できませぬ、ははは」
長政も心底心配していたのだろう。
秀政の様子を見てようやく安心した。
「とにかく、ようございました。
岸和田へ向かいましょう……と言いたいところではありますが、まだ信孝様より城を受け取る御家来が参っておりませぬ」
信貴山は一旦信孝の預かりになることが決まっている。
その引き継ぎを行うまでは動くに動けない。
秀政は頷いたが、政親が続けた言葉に眉をひそめた。
「この調子では岸和田に着くのも九月になりましょう。
一領具足の弱点である農繁期が終わってしまいますな」
「あぁ、そうだな。何もかも予定が狂った。
松永のせいだ」
鷺山が話に割り込んだ。
「殿、まだ九月。
今なら間に合いまする。
この二ヶ月は米の収穫を控えた大事な時期。
半分百姓の奴らなら、忙しくて出てこられますまい。」
「ん?」
秀政が眉をひそめ、その意味を説明しようとしたが、政親がさらに割り込んできた。
「利玄、相変わらず理解が甘いな。
義兄上が農繁期に攻めると言った意味をはき違えておるぞ」
鷺山は顔を歪めた。
「なんだと?!」
「良いか?
一領具足とは、普段百姓として田畑を耕して生活しておるが、有事とあらば農作業を放り出して直ちに参陣する精強な地侍集団のことだ」
「百姓は農繁期の出陣を嫌がるが、奴らはそうではないということだな?」
政親は少し考え込み、言葉を選びながら補足した。
「うむ、もちろん嫌がりはするだろうが、それよりも長宗我部への忠義のために戦を優先する。
我々の理解が及ばぬ百姓侍ということだ」
長政も不思議そうに話に加わった。
「不思議な連中ですね」
「はい、そうです。
ただの百姓と思い込まない方が良いです。
もし仮にこの時期に攻め込んだ場合、稲刈りを後回しにしてでも、必死に防戦するでしょう。
稲刈りを邪魔されたという強烈な恨みと共に」
長政がそれを想像して肩をすくめた。
「ではなぜ農繁期に攻め込もうと?」
「義兄上がそう考えたのは……」
政親はそう言いかけて、思い出したように秀政の方へ向き直る。
「危うくまた可愛げがないと言われる所でした。
義兄上、ご説明を」
秀政が急に話を振られて困惑した顔をした。
「いや、そこまで言いかけたなら全部言ってしまえ」
「そんなことをしたらどうせまた文句を言うではありませぬか」
呆れたような表情で政親も反論する。
秀政も諦めたように続けた。
「まぁ、いい。
俺が農繁期に四国を攻めたかったのは、もちろん一領具足が半農半兵であることを突くためだ。
どのみち一度はあの力士たちと正面切って戦うことにはなる。
俺が農繁期にこだわったのは、米作りの序盤――
田植えの前後に攻めかかれば、戦に応じた一領具足も戦だけに集中できぬと考えたからだ。
田へ戻らねば苗を植えられず、植えたばかりの田なら水も見ねばならん。
家族や村の者だけで代わりが利く仕事にも限度がある。
稲刈りを邪魔されるのとは、気持ち的に違うのがわかるか?
心ここにあらず。
稲刈りは残してきた者たちが苦労して収穫してくれるだろうが、そもそも米を作れなければ冬を越せなくなるのだ。
あの一領具足が最も弱くなる時期が夏だ。
その間に我らが四国の拠点を一つでも落とし、そこへ亀のように籠ってしまえば、緊急の防戦はそこで終わる。
それ以後は、長宗我部が我らの籠もる城を攻め落とす戦だ。
一領具足にとっても、今日明日に村を守るための出陣ではなく、奪われた城を取り返すための攻めに変わる。
そうなれば彼らは奪い返すのは農繁期が終わってからで良いと考える。
我らは鉄壁の堅城を作り上げる猶予が貰えるという訳だ」
長政が気付いたように頷く。
「なるほど。今攻めれば怒りに震えた一領具足と戦うだけではなく、仮に攻め取れた拠点すらも守り切る前に奪い返されるかもしれないと」
秀政は満足げに頷いた。
「そうだ、察しがいいな」
鷺山も同時に理解したらしく、渋い顔をしたまま呟いた。
「なるほど、完全に機を逸しましたな」
秀政は大きく息を吐いた。
信貴山で失った日数を惜しんでいても、四国の農事暦は待ってくれない。
「……そうだな。
策を練り直すぞ、皆」




