第二百二十九話 浅野の貫禄
五月も半ばに差しかかり、信貴山城を囲む陣は初夏の湿り気を帯びていた。
鷺山利玄と綾芽の夫婦は、秀政より多聞衆の謀略を妨げる任務を預かっていた。
浅野家の伝手を頼り、伊賀忍びを手配し、朧や霞らに率いさせて摂津各地で妨害に当たらせていた。
だが――実際のところ成果は芳しくない。
陣帳の中、地図と報告書が散らばる机を前に、朧が静かに口を開いた。
「多聞衆ですが……神出鬼没。なかなか追いきれませぬ」
その言葉に、綾芽の表情がわずかに曇った。
焚き火の影が頬をかすめ、沈黙が落ちる。
「……さすが謀略の名手と謳われる松永弾正。
そして、それを支える多聞衆。
一筋縄ではいきませぬ」
綾芽の声は低く、悔しさを押し殺していた。
鷺山は綾芽の肩にそっと視線を寄せた。
「綾芽、そう気負うな。お前はよくやってくれている。
多聞衆と言えども、摂津の国人相手に調略がやりにくくなったはずだ」
綾芽は首を振った。
その瞳には焦りと自責が滲む。
「気負うなと? 気負わずにおれましょうか。
あなたは殿から信頼されて命を受けたのです。
それなのに私が不甲斐ないばかりに……。
“やりにくくなった”では意味がありません。
結局、謀は止まっていません」
鷺山は言葉を探しながら、静かに返した。
「意味がないわけではないぞ」
その時、陣帳の入口が揺れた。
「おう、利玄。ここにおったか」
入ってきたのは政親だった。
鷺山は眉を上げる。
「ん? 松か。何か用か?」
政親は一歩踏み込み、陣内を見渡した。
その目は状況を察している。
「どうやらあまり芳しくないようだな」
鷺山は即座に否定した。
「そのようなことはない。
以前に比べて奴らは動きにくくなった。
ここから追い詰めにかかる」
政親は鼻で笑った。
「そうか。そうしてもらわねば困る。
元々、多聞衆も伊賀衆も世間では互角とみられている。
多聞衆は“揺らす”が得手の忍びだ。
流言、国人離反は得手中の得手。
対して伊賀は“止める”が得手の忍びよ。
潜伏、監視、暗殺、封鎖――本来、多聞衆を止められるのは伊賀衆しかないはずだ。
だが、ここで負ければ伊賀の威信に関わるぞ。
お前の采配次第だ。気張れ」
鷺山はむっとした顔で政親を睨んだ。
「むぅ……何じゃ、松。
俺の力不足を貶しに来ただけか?」
政親は肩をすくめた。
「いや、別に貶しにきたわけではない。
明姫様が事を為されたぞ。
一ヵ月後には南蛮大砲六門と弾薬が届く。
お前はこの一ヵ月を押さえ切れば良いだけだ。
ゆえに気張れと言いに来た。
このままでは若と明姫様に全ての功を奪われるぞ。
意地を見せてみよ」
鷺山は拳を握った。
「言われるまでもないわ!」
政親は満足げに頷いた。
「頼んだぞ。
お前の働きで摂津が崩れるかどうかが決まる」
「見ておれ、松。俺とてやる時はやる男だ」
「ふふ、それでいい。期待している」
政親はそう言い残し、陣帳を出ていった。
綾芽はその一連のやり取りを黙って聞いていた。
拳が震えている。
その震えは怒りではなく、決意の震えだった。
「一ヵ月……何が何でも多聞衆を押さえねばなりませぬ。
あなたがあのように貶されて黙ってはおれませぬ」
鷺山は苦笑した。
「ん? 松はあれが普通じゃ。
別に貶しているわけではない。
奴とは付き合いが長いからな。
あれで奴なりの励ましの言葉じゃ。
心底は悪い奴ではない」
だが綾芽はもう聞いていなかった。
その目の奥に、静かな炎が灯っている。
鷺山は内心で呟いた。
(伊賀は誇りの民だ。威信を賭けると言われて黙っていられまい。
綾芽のためにも、何としてでも多聞衆を押さえねば……)
綾芽はふっと息を整え、言った。
「私に策があります」
鷺山は目を細めた。
「策?」
「一度、伊勢に参ります。
申し訳ありませぬが、白鬼たちの指揮をお任せします。
もちろんすぐに戻ります。
必ずや多聞衆を押さえる秘策を果たしてみせます」
「一人で大丈夫か?」
「はい。私一人で為さねばならぬことです」
鷺山は静かに頷いた。
「分かった。この場は任せよ。
お前はお前の為すべきことを為せ」
綾芽はようやく、ほんのわずかに笑みを見せた。
「ありがとうございます」
*
急ぎ伊勢へ戻った綾芽は、浅野家の屋敷に入ると、父・浅野清隆の前に正座した。
庭の新緑が障子越しに揺れ、静けさの中に緊張が満ちていた。
清隆は綾芽の顔を見て、まず深く息を吐いた。
「よく帰った……そう言いたいところではあるが、何故伊勢に戻った。
お前は殿より多聞衆に対する任務を受けていると聞いておる。
投げ出して、この父に泣きつきに来たか?」
その声音は厳しいが、娘を案じる気配がわずかに滲んでいた。
綾芽は迷いなく首を振った。
「今のままでは多聞衆を抑えきれませぬ。
これでは伊賀の威信にも関わります。
父上に泣きつきたいわけではありませぬ。
ですが、私では為せぬこともあります。
恥を忍んでお頼み申し上げます」
綾芽は深く頭を下げた。
畳に額が触れるほどの深さだった。
「私を伊賀上忍家の方々と面会できるように、お力添えを願いたく。
それさえ果たして頂ければ、私は私の手で道を切り開きまする」
清隆は眉を寄せた。
「上忍家と面会……?」
綾芽は顔を上げ、真っ直ぐに父を見た。
「上忍家の助けを得ることは易くはございませぬ。
ですが、殿は織田家宿老家。
そして当家は伊賀中忍家の出身で、宿老家の家中家老にございます。
決して格は及ばぬわけでもありませぬ」
綾芽は息を整え、静かに続けた。
「一ヵ月だけであれば……この頭を下げて伊賀上忍家の協力を仰ぎます。
さすれば多聞衆など恐るるにも足りませぬ」
清隆は腕を組み、しばし沈黙した。
障子の向こうで風が竹を揺らし、その音だけが部屋に響く。
「……伊賀上忍家が動けば、多聞衆など手も足も出なくなるだろう。
それはそうだが、お前に上忍家を動かせるのか?」
綾芽は即答した。
「動かせるかどうかではありませぬ。
動かします」
その声音には迷いがなかった。
娘の瞳に宿る炎を見て、清隆はわずかに目を細めた。
「このままでは玄蕃様が恥をかきます。
妻として、それは耐えられませぬ。
私が上忍家によって、如何様に圧し潰されようとも、必ずや説き伏せてみせます」
清隆は静かに息を吐いた。
「……であるか」
その一言の後、清隆は筆を取り、さらさらと紹介状を書き上げた。
墨の香りが部屋に満ちる。
書き終えると、清隆は綾芽にそれを差し出した。
「好きにいたせ」
綾芽は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!
それでは行ってまいります!」
綾芽は勢いよく立ち上がり、廊下を駆けるように去っていった。
その背中には、決意が形となって見えるほどの気迫があった。
清隆はその後ろ姿を見送りながら、静かに心の中で呟いた。
(気持ちだけでは上忍家は動かせぬ。
お前では貫禄が足りぬ……)
*
伊賀の山里は、初夏の風が木々を揺らし、どこか冷たい静けさが漂っていた。
綾芽は浅野家の紹介状を携え、上忍家の屋敷へと向かった。
門前に立つだけで、胸の奥が強く締めつけられる。
案内され、広間に通される。
畳は磨き上げられ、空気は張り詰めていた。
百地、藤林、服部――三家の代表が静かに座している。
綾芽は深く頭を下げた。
「本日はお時間を頂き、誠に恐れ入ります。
摂津にて多聞衆の謀略が続いております。
このままでは国人衆が揺らぎ、摂津は崩れましょう。
どうか、一ヵ月だけ――
伊賀の御力をお貸し頂きたく……」
声は震えていなかった。
だが、広間の空気は綾芽の言葉を吸い込み、返さない。
百地が静かに口を開いた。
「摂津の争乱は承知しておる。
だが、伊賀は伊賀の務めがある。
織田の内政に深入りするのは、上忍家の筋ではない」
藤林が続ける。
「そなたは浅野殿の娘である。家格も筋も通っておる。
だが――我らを動かすには、まだ軽い」
服部は綾芽を見据えた。
その視線は刃のように鋭いが、怒りではなく“評価”だった。
「多聞衆は確かに厄介よ。
だが、伊賀が動けば済むというほど、軽い相手ではない。
そなた一人の願いで動くほど、我らは安くない」
綾芽は唇を噛んだ。
反論したい。
言葉を返したい。
だが、三家の言葉は“家格の壁”そのものだった。
綾芽は深く頭を下げた。
「……伊賀の威信が問われております。
多聞衆に揺らされれば、世間は伊賀を嘲りましょう。
どうか――」
百地が手を上げ、綾芽の言葉を遮った。
「威信を語るならば、まずはそなた自身が積むべきものがある。
浅野殿ならばまだしも、そなたでは重みが足りぬ」
藤林が静かに告げる。
「そなたの気持ちは受け取った。
だが――それだけだ」
服部が最後に言った。
「帰れ。
そなたの働きで摂津を守れ。
それが出来たなら、次は話を聞こう。」
綾芽は顔を上げられなかった。
胸の奥が、ぎゅっと潰されるように痛む。
(……何も、為せなかった)
広間の空気は冷たく、綾芽の言葉は一つも届いていないように思えた。
案内役が静かに「こちらへ」と告げる。
綾芽は深く頭を下げ、立ち上がった。
(玄蕃様のために……。
伊賀のために……。
私は何も出来なかった)
綾芽は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
それでも、涙はこぼれなかった。
綾芽が広間を出ようとしたその時、廊下の向こうで足音が重なり、屋敷全体が騒がしくなる。
百地が眉をひそめる。
「何事だ?」
障子の向こうから忍びが控えめに声を発した。
「芋粥家ご家老、浅野清隆様がお越しにございます」
「浅野殿が……!」
百地、藤林、服部の三家が一斉に姿勢を正した。
障子が静かに開く。
浅野清隆が現れた。
その歩みは静かだが、広間の空気が一段重くなるほどの威を帯びていた。
綾芽は息を呑む。
「ち、父上……!」
清隆は娘に一瞥をくれただけで、すぐに三家へ向き直った。
その所作は、伊賀中忍家の出でありながら、織田宿老家の家中家老にまで成り上がった、傑物としての重みそのものだった。
清隆は深く礼をした。
「急な訪問、無礼をお許し頂きたい。
本日は、伊賀の未来に関わる大事にて参上いたした」
百地が静かに促す。
「浅野殿、話を伺おう」
清隆は一歩進み、広間の中央に膝をついた。
その姿勢は、綾芽とは違う“家格の重さ”を帯びていた。
「摂津が揺れております。
多聞衆が国人衆を惑わせ、兵庫津を狙い、流言を流し、このままでは摂津が――いや織田が崩れましょう」
藤林が頷く。
「承知しておる。だが――」
清隆はその言葉を遮らず、静かに続けた。
「これは摂津の争乱に留まりませぬ。
摂津が崩れれば大和が揺らぎ、大和が揺らげば伊賀も揺らぎます。」
服部の目がわずかに細くなる。
「……続けよ」
清隆は広間を見渡し、言葉を置くように語った。
「この一大事を収められるのは、伊賀のみ。
多聞衆の謀略を止められるのは、この伊賀しかござらぬ。」
百地が腕を組む。
「しかし、伊賀が織田の内政に深入りするのは筋ではない」
清隆は静かに首を振った。
「これは内政ではござらぬ。
天下に関わる大事にございます」
広間の空気がわずかに揺れた。
「大殿様――織田信長公も、伊賀の働きを厳しく見ておられる。
この摂津争乱は、忍びの力が試される場。
ここで伊賀が力を示せば、天下一の忍びとして名を轟かせましょう」
藤林が息を呑む。
「天下一……」
清隆は続けた。
「伊賀は血を流す必要はない。
ただ、多聞衆を一ヵ月の間だけ押さえつけて頂きたい」
服部が問う。
「一ヵ月だけで良いのか?」
「一ヵ月で十分にございます。
かつて大和を平定せし我が芋粥の必勝の策がまもなく完成します。
摂津が揺れなければ、松永弾正の勝ち筋は潰えます」
百地、藤林、服部の三家が互いに視線を交わす。
その空気は綾芽の時とは明らかに違っていた。
清隆は最後に深々と頭を下げた。
畳に額が触れ、広間の空気が震えるほどの深さだった。
「どうか――伊賀の御力を。
この浅野清隆、芋粥家家老として、伊賀の未来のために心よりお願い申し上げます」
その頭は、軽くなかった。
織田宿老家の家中家老としての重みが上忍家にも伝わった。
百地が静かに口を開いた。
「……浅野殿の頭を軽んじるわけにはいかぬ」
藤林が続ける。
「一ヵ月だけならば、伊賀の得手が最も活きる」
服部が最後に言った。
「伊賀上忍家――総力を挙げて多聞衆を封じよう」
綾芽は息を呑んだ。
胸の奥が熱くなる。
百地が綾芽に向き直る。
「浅野殿の娘よ。
そなたの願いは届かなんだが――浅野殿の願いは届いた」
藤林が言う。
「それはそなたの気持ちがあったればこそよ」
服部が静かに告げた。
「摂津は伊賀が守る。そなたは胸を張って戻れ」
綾芽は深く頭を下げた。
涙はこぼれなかった。
ただ――胸の奥が、熱く震えていた。




