第二百二十二話 帰る場所
花隈城を発った秀政たちの背が遠ざかっていく。
政親は一人、摂津の冬風を受けながら馬の手綱を握った。
向かう先は摂津国。
非公式同盟を結んだ相手の明智光秀である。
*
明智の陣屋は、荒木攻めのために人の出入りが絶えない。
だが政親が姿を見せると、兵たちの態度が変わった。
「千種伊勢介殿、奥の間へ」
案内役が深く頭を下げる。
秀政が宿老となり、政親は芋粥軍大将代理――もはや“ただの陪臣”ではない。
奥の間に入ると、光秀が静かに茶を点てていた。
「千種殿。よく来てくれた」
「明智様。お目通りに感謝いたします」
二人は向かい合って座った。
光秀の目は細く、どこか探るような色を帯びている。
「さて……御用向きは退陣の挨拶ですかな?
芋粥軍は来月、伊勢へ戻られるとか」
政親は丁寧に頷いた。
「はい。義兄上が宿老に取り立てられ、四国方面軍を任されました。
ゆえに摂津の後処理を済ませ、我らも帰国いたします」
光秀は茶碗を置き、わずかに口元を歪めた。
「いやいや、残念でござる。
芋粥殿がおられれば、この摂津の情勢も変わろうものを。
……それにしても、驚きましたよ。
まさか芋粥家が、あのような隠し弾を持っていたとは」
政親は首を傾げる。
「隠し弾、とは?」
光秀は目を細めた。
「虎王丸です。
あれほどの化け物を半年も黙っていたとは……
いやはや、芋粥家は底が知れませぬな」
政親は肩をすくめ、軽く笑った。
「いえいえ、私ですら知らされておりませんでした。
もし知っていたら――荒木の謀反が起きる前に、本願寺を追い詰めていたでしょうな。
我が義兄、秀政も人が悪い」
光秀は苦笑した。
「それは……確かに」
政親は懐から一束の書状を取り出した。
「さて、去り際の土産でございます」
光秀が目を見開く。
「土産……?」
「この半年、膠着の中で我が手の者を使い、摂津の国人衆の戦力、内情、勢力、思惑を調べ上げました。
いずれ調略に必要と思ってです。ですが、もはや芋粥には必要ない物となりました。
明智様にこそ、お渡しすべきと判断いたしました」
秀政にすら内密に政親が調べ上げた詳細な情報だ。
真に秀政が困った所で、これを差し出して恩を売るつもりだった。
光秀は文を開き、息を呑んだ。
「……これは……!
荒木攻めで手が回らぬ我らには、喉から手が出るほど欲しかった情報……
政親殿、受け取ってよろしいのですかな?
本来、芋粥家の立場であれば佐久間殿にお渡しすべきだと思いますが」
政親は静かに微笑んだ。
「佐久間様は既に過去のお人、もはや手遅れです、
高野山にこの情報は必要はありますまい。
明智様が摂津を治めるための力になれば幸いです」
光秀は深く頭を下げた。
その礼は、政親が想像していたよりも重かった。
「ところで高野山とは?」
政親はわざとらしくないように、本当に驚いたような顔を作った。
「え?ご存知ないのですか?
大殿様は、働きが悪ければ――例え宿老であっても、職と領地を召し上げて高野山に追放するそうですぞ。
あははは。さすがにそれはありえませぬか」
光秀は笑わなかった。
真面目な顔で政親を見つめた。
「その話の出どころは……?」
政親は軽く肩をすくめた。
「我が義兄、伊勢守にございまする。
故にただの戯れでしょう。
芋粥家では西方の動きの悪さに、途方に暮れておりました。
このままだと高野山に追放されるぞ、と戯れで嘆きあっておったのです」
光秀の目が一瞬だけ曇った。
(……いや、確かに伊勢守のここ最近の焦りようは尋常ではなかった。
伊勢守は殿とも直接話をする。
あながち戯れとは言い切れぬ……)
その一瞬の曇りを、政親は見逃さなかった。
(……毒が効いたな)
政親は静かに立ち上がった。
「では、我々芋粥家はこれにてお暇を。
来月には伊勢へ発ちまする」
光秀は深く頷いた。
「政親殿……摂津の地での働き、忘れませぬ。
願わくばこれからも誼を通じて頂きたい」
「はい、願ってもありませぬ。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたしまする」
政親は一礼し、奥の間を後にした。
冬の風が吹き込む廊下を歩きながら、
政親は心の中で静かに呟いた。
(明智……お前は切れ者だ。
だが、今は揺らいでいる。普段は効かぬ毒さえも今のお前なら命取りとなろう。
義兄上が宿老となった今、他の宿老は一人でも多く盤上から消えてもらわねばならん。
次に会う時は謀反人のお前と義兄上が対峙することになるやもしれんな)
政親の足取りは、秀政とは違う意味で軽かった。
*
伊勢へ向かう道のりは長く、冬の風は冷たかったが、
芋粥軍の諸将の足取りは軽かった。
半月の道程を経て、一行はようやく伊勢へ戻った。
各将は家族の待つ自邸へと戻っていき、そのたびに歓声や泣き声が城下に響いた。
秀政は明と長政を連れ、鈴鹿館の奥の間へと急いだ。
*
奥の間の襖が開かれると、知らせを受けた政成とお悠が待ち受けていた。
お悠の腕には――生まれたばかりの幼子、澪。
秀政の顔が一瞬で崩れた。
織田家宿老、三十万石の大名とは思えぬほど、頬がゆるみ、目尻が下がり、まるで童のような顔になった。
「おぉ……澪……!」
澪を抱きしめると、秀政は思わず変顔をしてみせた。
澪よりも、明が笑いを堪えきれず、口元を押さえて肩を震わせている。
秀政もつられて大笑いした。
「ははは! 明、抱いてみよ。妹じゃぞ」
「はいっ!」
明は慎重に澪を受け取り、その小さな体を胸に抱いた。
秀政はお悠へ向き直り、満面の笑みで言った。
「よくやった、お悠。可愛い姫じゃな!」
お悠は嬉しそうに頷いた。
「はい!」
秀政は澪の額にそっと触れた。
「この子は澪だ。
我が芋粥の海を開く象徴となる。
海の女神様じゃ!」
お悠は目を丸くし、やがて柔らかく笑った。
「まぁ……」
横で笑っていた政成にも、秀政は声をかけた。
「義父殿、よくやってくれた。
義父殿のおかげで、俺は織田家宿老になれた」
政成とお悠が同時に息を呑んだ。
「「しゅっ、宿老!?」」
秀政は照れくさそうに頷いた。
「うむ。虎王丸の功で取り立てられた」
政成は深く頭を下げた。
「おめでとうございます……
どこまで昇りつめられるのでしょうな」
お悠も目を潤ませている。
しばし、家族で祝辞を交わす。
その温かい空気の中で――政成が突然、派手に咳き込んだ。
秀政がすぐに駆け寄る。
「義父殿!?大事ないか?ん?少し痩せたか?
無理はするな」
政成は手を振り、苦笑した。
「儂ももう歳です。五十六になり申した。
少々体も弱くなったようです」
秀政は眉を寄せた。
「……義父殿には長生きしてもらわねばならん。
これからもこの芋粥を支えてくれ。
そうだ。少し政務の負担を減らそう。
義父殿とお悠を家中宿老に取り立てる。
政親も家老にしよう。
神崎を部将にして、政務を分担させよ」
政成は深く頭を下げた。
「は……ご配慮痛み入ります。
最近は病がちになりましたでな……助かりまする」
秀政は政成の肩に手を置いた。
「義父殿は芋粥家の柱じゃ。倒れてはならぬ」
政成は静かに頷いた。
だが――宿老になった喜びとは裏腹に、芋粥家の大黒柱に病という揺らぎが生じ始めていた。
秀政は澪を抱きながら、その揺らぎを胸の奥で感じていた。
(……義父殿が倒れれば、芋粥家の政務は崩れる。
政親もまだ若い。
俺は四国へ向かう。
これからは家を空けることも多くなる……。)
澪の小さな手が、秀政の指を握った。
その温もりは、これから始まる四国の戦いと、家中の不安を同時に照らす光のようだった




