第二百二十一話 残された政親
花隈城・二の丸。
冬の風が石垣を鳴らす中、秀政は軽い足取りで帰還した。
その表情は、この半年では見たことがないほど晴れやかだった。
政親が出迎え、目を丸くする。
「ほぉ……珍しいですね。
義兄上が年始の軍議でご機嫌に帰ってこられるとは」
秀政は鼻を鳴らし、得意げに顎を上げた。
「ふふふ、何があったと思う?当ててみよ」
政親は即座にため息をついた。
「面倒くさいです。焦らさず言ってください」
「……はぁ、可愛げがない奴だな。
やはりこういうことはお悠に一番に伝えないとなぁ」
「姉上はこの場に居ないのです。私が聞きますよ」
秀政はむっとした顔をしたが、すぐに口元が緩んだ。
「……仕方ないか。
お?明、それに長政ではないか。早く来い。重大発表がある」
明が駆け寄り、目を輝かせた。
「父様!いつ安土からお戻りに?」
長政も深く頭を下げる。
「おかえりなさいませ。
何やら良いことでもありましたか?」
秀政は腕を組み、ふんぞり返った。
「おう、あったぞ。当ててみよ」
明は少し考え、ぱっと顔を明るくした。
「え?ん……分かりました!
伊勢に帰れるんですね!」
秀政は政親を見て、満足げに頷いた。
「ふふふ、これだぞ、政親」
政親は肩を落とした。
「はい、次は努力します」
秀政は明へ向き直る。
「明、正解じゃ。お前も長政も帰れるぞ」
明は目を潤ませた。
「え?本当ですか!?あぁ、澪に会いたかったんです」
長政も笑った。
「それは義父上もですよね?」
秀政は思わず拳を握った。
「おう!やっと会える!」
政親が首を傾げる。
「ん?明姫様も戻れるということは……全軍帰国ですか?」
秀政は胸を張った。
「あぁ、そうだ!
俺はな、織田家宿老に取り立てられたのだ」
「「しゅ、宿老!?」」
三人の声が二の丸に響いた。
秀政は満足げに頷く。
「そうだ。虎王丸の件で褒められた。
その功で宿老になれた」
政親は息を呑む。
「宿老ということは、次の任務は?
佐久間様の副将は解任ですか?」
秀政は笑った。
「あぁ、そうだ。
俺は四国方面軍の軍団長に抜擢された。
遂に副将からの脱却だ」
「「おめでとうございます!」」
政親がすぐに尋ねる。
「いつ撤収しますか?」
秀政は指を一本立てた。
「撤収は来月だ。この一ヵ月で色々な後処理をせねばならん」
明が少し肩を落とす。
「そうですか……すぐには澪に会えないんですね」
秀政は首を振った。
「いや、俺やお前を含めた主だった将は三日後にはここを発つ」
政親が目を細める。
「まさか……」
秀政はにやりと笑った。
「察しがいいな。
ここにいる五千の全軍は政親、お前とお前の部下に預ける。
芋粥家の大将代理だ。
後処理を済ませた後で伊勢に戻れ」
政親は顔をしかめた。
「……嫌な役目を押し付けましたね?」
秀政は肩をすくめた。
「仕方あるまい。俺が居れば佐久間殿が何やら難題を吹っかけてくるかもしれん。
足止めされて、帰国を引き延ばされてはかなわん。
それに俺の後釜は松永久秀だ。
あいつとは大和戦でひと悶着あってな。
顔を合わせたくない」
政親は苦笑した。
「なるほど……」
秀政は続けた。
「ゆえに早々に立ち去るしかないのだ。
明日、佐久間殿に挨拶して即逃げ出す。
後は任せたぞ、政親」
政親は肩を落としながらも、静かに頷いた。
「嫌だと言っても無駄ですよね……承知しました」
秀政は手を叩いた。
「皆、帰る準備を致せ!
長政、鷺山にも伝えよ。
さぁ、伊勢へ帰国だ。
ようやく澪に会えるぞ!」
政親はその様子を見ながら、心の中で呟いた。
(織田家宿老ですか……さすが義兄上だ。
そうなると……明智殿とはお会いしておいた方が良いな。
芋粥大将代理を任されたのも、悪いことではないやもしれん)
冬の花隈城に、久しぶりに温かな空気が満ちていた。
*
秀政は三日後、花隈城・本丸の一室で佐久間信盛と対面した。
冬の光が障子越しに差し込み、二人の影を長く伸ばしている。
佐久間は、いつもの厳しい顔つきではなく、どこか名残惜しげな表情をしていた。
「伊勢守には……まだまだ支えてもらわねばならなかったのだが」
秀政は静かに頭を下げた。
「もちろん今後もお支えしますよ。
九鬼嘉隆も俺の下につきました。
あの者には虎王丸を預けて、瀬戸内に睨みを利かせます」
佐久間は深く息を吐いた。
「そうか……虎王丸が海を制してくれるのは助かる」
秀政は少し笑みを浮かべた。
「それに後釜の松永久秀は摂津の事情にも詳しく、またかなりの切れ者。
この俺よりもよく働くやもしれません」
佐久間は眉をひそめた。
「そうであればよいが……儂はあの者はどうにも好かん。
何を考えておるか分からん。まるで日向守のようだ。
だが殿の仰せであれば致し方ない」
秀政は穏やかに言葉を返した。
「佐久間殿であれば松永をも使いこなして、本願寺に止めを刺されましょうぞ」
佐久間はゆっくりと頷いた。
「うむ……今年こそ本願寺を降して見せよう。
伊勢守も四国攻めを励め」
秀政は深く礼をした。
「はっ!ではこれにて失礼いたしまする」
このあっさりとした別れは、一年間の苦労と佐久間の不器用な信頼が滲むものだった。
秀政はその想いを背に受けながら、花隈城を後にした。
*
翌朝。
政親とその家臣たち、そして多くの兵を残して、芋粥家の諸将は花隈を発った。
各鬼兵百を護衛に、秀政たち各将は馬を進めた。
その顔は、久しぶりに明るかった。
此度の摂津遠征では、ほとんど戦らしい戦もできなかった。
多くの将を連れてきたが、そのままの帰国となった。
鷺山はこの遠征であまり活躍できなかったことに不満を覚えていた。
だが、久しぶりに会える綾芽や道丸の顔を思い浮かべ、笑みを見せた。
その後ろに続く大野と河村も物足りない顔をしていた。
次は四国の長宗我部と聞いているため、既にその目は次に向いていた。
長政は明の乗る輿の隣に馬を合わせ、小窓から覗く明と何やら楽しそうに会話している。
竹内はその後ろに控え、帰国の喜びを隠す気もなく、終始にこにこしていた。
元より戦向きではない男だ。
しかし今回の遠征の兵站という意味では、明と長政の手足となって最もよく働いた。
逆に、戦向けの佐野は不満げだった。
毎日弓の鍛錬しかできず、「これでは腕が鈍る」とぼやき続けていた。
村瀬はというと――
独身の強みか、有り余る銭を堺で使い倒し、遊び惚けていたらしい。
帰国の列でもどこか疲れた顔をしていた。
皆の足取りは軽い。
伊勢へ帰れるというだけで、花隈の寒風も心地よく感じられるのだろう。
秀政は馬上からその光景を見渡し、胸の奥に温かいものが広がるのを感じていた。
(……ようやく帰れる。
澪にも会える。
そして四国へ向かう準備を始めるのだ)
花隈城の石垣が遠ざかる。
半年の停滞と苦悩の地――その景色が、ようやく背後へ消えていった。
*
彼らを見送った政親は、その列が見えなくなると大きく息を吐いた。
(義兄上が宿老になられた。ようやく土俵に立たれたわけだ。
そうなると敵は毛利や長宗我部、本願寺だけではない。
他の宿老どもこそが強敵となろう。
佐久間は先が見えた。あれは義兄上の敵ではない。
柴田、丹羽、滝川とは直接会ったことはない。
明智はかなりの切れ者だが……今なら付け入る隙がある。
毒を飲ませるなら、今をおいて他にあるまい。
松丸様の世を安定させるためには――
義兄上には強くなって頂かなくてはならん)




