第二百十九話 瀬戸内無双
冬の堺湊は、灰色の雲が低く垂れ込め、海風が町の屋根を震わせていた。
その静けさを破るように、沖合から巨大な影がゆっくりと姿を現した。
――虎王丸。
五つ木瓜を大きく描いた帆が冬の風を受け、堂々と膨らむ。
その威容は、海に降り立った城郭そのものだった。
湊の会合衆、商人、船頭たちが一斉にざわつく。
「ん、なんじゃ?南蛮船くらいこの堺なら珍しくもなかろうて」
「いや、ただの南蛮船ならな。だがあの御紋をよく見ろ」
「五つ木瓜……織田様の船だと……?」
虎王丸が堺へ入るだけで、町の空気が変わった。
南蛮人はガレオン船を日本人には売らない。
それは織田家に対してもだ。
つまり、この船は織田家が自力で作り出したことになる。
人々は息を呑み、ただその巨体を見上げるしかなかった。
*
九鬼嘉隆が小早で虎王丸へ乗り移ると、甲板の上で信長に拝謁した。
信長は船首に立ち、冬の海風を受けながら虎王丸の威容を眺めていた。
「……ふん。よい船だ。嘉隆。
いずれはこの船をお前に預ける。
使い方を芋からよく学べ。織田の海の切り札とせよ」
「はっ!!」
九鬼が深く頭を下げた。
秀政はその隣から信長に落ち着いた声で伝えた。
「殿。瀬戸内無双の初陣は、殿の御前にてお見せいたします」
信長の口元がわずかに吊り上がった。
「芋……楽しませてもらおうぞ」
*
その頃――村上武吉のもとへ、堺の湊から早馬が駆け込んでいた。
「武吉様! 怪物船が堺に入ったとのこと!」
武吉は眉をひそめた。
「怪物船……鉄甲船か?」
「いえ……南蛮の巨大帆船とのこと。五つ木瓜を掲げております!」
武吉はしばらく黙り、やがて低く呟いた。
「……鉄甲船とは違う。南蛮の怪物か」
その声には、恐れではなく、戦の匂いを嗅ぎ取った獣のような鋭さがあった。
「初戦から全戦力を投入する。
機動戦で集中攻撃し、撃破せよ。
この海を知るは我らよ。波も風も我らが知るところ。
我らの海で我が物顔する愚か者どもは焼き払ってしまえ!」
村上水軍は即座に動き出した。
*
堺沖に、安宅船、関舟、そして数え切れぬほどの小早の群れが黒い影となって現れた。
虎王丸を遠巻きに観察し、じりじりと距離を詰める。
九鬼水軍は虎王丸の左右後方に陣形を取り、牽制するが突撃はしない。
信長が明言していた。
「突っ込むのは虎王丸だけだ」
秀政は静かに頷いた。
「殿。虎王丸は一隻で十分にございます」
信長は愉快そうに笑った。
「ふん……見せてもらおうぞ、芋」
*
虎王丸の横帆が冬の風を受けて大きく膨らむ。
三角帆が向かい風を捉え、巨体が海を滑るように前進した。
村上の水夫たちがざわつく。
「速いぞ……!」
「なんじゃ、あれは?!空でも飛んでおるのか?!」
「人が漕いでおっては追いつけぬ……!」
村上武吉は歯を食いしばった。
「南蛮の化け物め……!」
信長は船首で風を受けながら叫んだ。
「芋、よいぞ。もっと走らせろ!」
秀政は帆柱に向かって声を張った。
「御意! 虎王丸、風を食え!」
鍛え抜かれた白子水軍の兵たちが自由自在に帆を操る。
虎王丸は黒潮の風を受け、海を切り裂くように加速した。
*
村上水軍は「まずは試す」ために、いつもの戦法を順番に繰り出した。
複数の小早が接近し、兵が炮烙玉を構える。
だが虎王丸は一切意にも介さない。
高速で迫り、巨大質量が壁のように押し寄せる。
村上兵は恐怖のあまり、全身が固まった。
「……あ、あれ……止まらん……!」
「も、もう来るぞ。距離が……詰まる……!」
「う、うわあああ! おいっ!避けろ! 早ぉ早ぉ!」
炮烙玉は投げられないまま、虎王丸に体当たりされて、小早は砕け散る。
また、通り抜ける際に起きた大波や風圧で、別の小早はひっくり返る。
兵たちは皆、海へ投げ出された。
*
関船の火矢隊が火矢を放つ。
だが虎王丸が速すぎて、狙った矢が届く前に虎王丸は通り過ぎる。
「狙え!……いや、速い!
矢が……追いつかん!」
火矢は海に落ちるだけ。
逆に、矢を射るために速度を落とした小早へ、虎王丸のカルバリン砲が容赦なく降り注いだ。
ドドドーン!
一発で木っ端みじん。
外れても立つ水柱に船が横転し、兵が海へ投げ出される。
しかも砲撃は一度に四発――音と衝撃、爆発と水柱。
もはや生きた心地がしない。
*
村上の得意技である接弦戦、いわゆる白兵戦だ。
どんな波をも自由に操り、高速で虎王丸に詰め寄る。
関船が横腹に寄ろうとするが、その船体は城のように高い。
村上武吉は唸った。
「……高すぎる。鉄甲船とは違う……これでは登れぬ」
さらに虎王丸は高速で突っ込むため、接舷しようとした関船が避けるので精一杯だ。
その間にさらに上方の甲板から黒鬼兵が一斉に関船の村上兵に鉄砲の雨を浴びせた。
「うわああああ!!」
*
安宅船が大砲を撃つ。
だが虎王丸の南蛮大砲の射程は圧倒的に長い。
秀政が信長に告げる。
「殿。距離、十分にございます」
「よい。撃て」
カルバリン砲が射程外から関船を粉砕。
カノン砲が安宅船すら一撃で吹き飛ばす。
村上の大砲は一発や二発、虎王丸に当たった所で致命傷には至らなかった。
あとで修理は必要になるだろうが、表面の木材を吹き飛ばしたに過ぎなかった。
多少の揺れはあるが、それすらも信長は楽しんでいた。
一方、村上水軍は一発で大破した。
*
大量に砲弾を詰め込んだ虎王丸は、容赦なく大砲を撃ち続けた。
左右の砲列が一斉に火を噴き、遠距離ではカルバリン砲が関船を粉砕、近距離ではカノン砲が小早を吹き飛ばした。
海面に巨大な水柱が立ち、村上水軍は散り散りに逃げた。
九鬼嘉隆が叫ぶ。
「殿、これが海の王者の戦にございます!」
信長は高笑いした。
「ははははは!!
これが虎王丸か!!
芋、よくぞ造った!」
秀政は胸を張った。
「殿の虎王丸は、瀬戸内の王者にございまする!」
*
虎王丸が突っ切った後には――残骸と海に投げ出された兵だけが残った。
九鬼小早が虎王丸の後ろを離れて進む。
海に落ちた村上兵を槍で突き倒し、止めを刺していく。
「逃がすな!
虎王様の後ろは我らが掃除する!」
海が赤く染まった。
「ま、待て!やめてくれ。助けてくれ!」
命乞いする村上兵を、九鬼兵が容赦なく突いていった。
*
村上武吉は即座に撤退を決断した。
「……勝てぬ。
これ以上やられては再起不能だ。
あれは戦う相手ではない。海の化け物だ。
潮を使って退くぞ!」
村上水軍は潮流を使い、一気に姿を消した。
虎王丸は追撃可能だったが、信長は満足していた。
「芋、よい。儂は十分に見た」
秀政は深く頭を下げた。
「ありがたき御言葉……!」
*
堺の町は騒然となった。
会合衆は震えながら虎王丸を噂し、九鬼水軍は歓声を上げた。
信長は上機嫌。
秀政は半年の“亀”を完全に払拭した。
虎王丸は冬の風を受け、堂々と堺の湊へ向かった。
その姿は、まさに“海の虎”であった。
*
信長が上機嫌に秀政へ語り掛けた。
「芋、見事だ。
虎王丸はお前の言う通り、一万貫で買ってやろう。
そして、褒美に志摩をやる」
「え?!し、志摩を……、でございますか!?」
「うむ、志摩と九鬼水軍をお前の下に置く。
九鬼嘉隆に虎王丸の扱い方を叩き込め。
そして、我が命ありし時に虎王丸を繰り出せ」
「はっ!ありがたき幸せ!」
「まずは直近、本願寺攻めのために、この瀬戸内の海を押さえよ」
「御意!」
そこで秀政は、少しだけ遠慮がちに言葉を続けた。
「殿、本当に志摩を頂いてもよろしいですか?
実は虎王丸にも弱点が二つもございます」
「何?弱点が二つ?」
信長の目が厳しくなる。
「はい、帆船は風が命です。追い風でも向かい風でも風さえあれば無双できます。
ですが、夏、六月から九月にかけては凪が発生します。
そのような状況では万が一に備えて、虎王丸での戦はできませぬ」
「部分的に制海権を取れると言うたのは、そういう意味か?」
「はい。そして二つ目の弱点もそれに関係します。
二つ目の弱点は虎王丸は孤高の王者であることです。
さすがの芋粥でも二隻目は作れませぬ。
この虎王丸は唯一無二、奇跡として生まれ出た船です。
もう一隻作れと申されても、南蛮人の助けなくば難しゅうございましょう。
つまり、虎王丸が座する海は織田の物ですが、そこから離れればそこは毛利の海です。
局所的にしか制海権は取れませぬ」
信長は少し考えこんだ末、いつもの口調で続けた。
「左様か。
馬鹿正直な奴よ、弱点など儂に黙っておればわからぬものを」
「いえ、黙っていて失望される方が嫌でございますので」
「弱点は承知した。
だが一万貫で買うことも、志摩をやることも覆さぬ」
「真にございますか?」
「その弱点をもってしても、虎王丸にはそれだけの価値がある」
「はは、恐悦至極にございます!」
そう言って秀政は再び頭を深く下げた。
それを見た信長は鼻で笑った。
「ふん、芋、お前は相変わらず食えぬ役者よ。
この戦を見せておいて、儂が渋るとは思うてもおるまいに」
「いえいえ、とんでもない。この芋めは三文役者にございますよ」
そう言いながらにやりと笑う。
「儂は安土に帰る。
あとはよきに計らえ」
「御意!」
そうしていると堺湊が目の前に見えてきた。
第十三章 伊勢太守編(本願寺膠着編) 終幕




