第二百十八話 虎王の出陣
安土城は、冬の冷気を切り裂くようにそびえ立っていた。
湖面に映る天主は、まるで天下そのものが形を成したかのような威容を放つ。
秀政は馬上からその姿を見上げ、思わず息を呑んだ。
(……これが、安土城か。
現物が残ってないだけに、直に見れるとは夢があるな)
本来なら胸が高鳴るはずだった。
だが今日の胸の鼓動は、期待だけではなく――叱責への覚悟も半分含まれる。
虎王丸の完成という切り札を携えてきたとはいえ、
半年の“亀”を帳消しにできる保証はどこにもない。
案内役の近習に導かれ、秀政は安土城の奥へ進む。
廊下の空気は張り詰め、足音すら吸い込まれるようだった。
そして――信長の前に通された瞬間、秀政は膝をついた。
信長は、冷たい冬の光を背に立っていた。
その眼光は、氷の刃のように鋭い。
「……芋」
低く、重い声が落ちた。
「この半年、摂津で何をしておった。
どの面を下げて儂の前に現れた?」
秀政は深く頭を垂れた。
「……はっ。申し開きの術もございませぬ」
信長の足が一歩、秀政の前へ踏み出す。
その気配だけで、部屋の温度が下がったように感じた。
「羽柴も明智も荒木に苦しめられておる。
佐久間は守りに徹し、摂津は膠着。
その中で、お前たちは半年“亀”か?」
「……面目次第もございませぬ」
「功もなく、敵を討つこともなく、
ただ花隈で冬眠しておったと申すか」
秀政は拳を握りしめた。
「……佐久間殿の指示に従い、荒木殿の乱が収まるまでは花隈を動かさず。
摂津西方の守りを固めることが、織田家のためと心得ておりました」
信長は鼻で笑った。
「ほう……右衛門の指示とな。
右衛門が亀なのは知っておる。
それでお前まで亀になってどうする?
何のためにお前を西方の副将にしたと思うか?」
秀政は唇を噛んだ。
「はっ。力及ばず申し訳ありませぬ。
羽柴殿、明智殿が荒木殿を討ち倒されれば、佐久間殿も出陣の構えを見せておりました。
その折には、我らも西より呼応する手筈にございました」
「……言い訳にしか聞こえぬぞ」
「……はっ」
「そちは右衛門の影に隠れておっただけではないか?」
秀政は深く頭を下げた。
「……殿の御意に背くつもりはございませぬ。
ただ、摂津の国人が荒木殿に靡き始め、花隈を空にすれば一気に崩れると判断し――守りを優先いたしました。
それが佐久間殿、そして西方の戦略にございます」
信長の声が鋭く跳ねた。
「守りを優先した結果が“半年の亀”か?」
「……返す言葉もございませぬ」
信長は冷たく言い放つ。
「摂津は荒木一人の裏切りで崩れた。
その中で、芋、お前は何をした?
国人調略も進まず、兵站も細り、天王寺砦は奪い返され……。
半年で何一つ、儂に見せるものがない」
秀政は拳を握りしめたまま、何も答えず、深く頭を下げた。
「お前ほどの男が、この程度か。
失望したぞ、芋」
その言葉は、刃よりも鋭く胸に刺さった。
だが――秀政は顔を上げた。
「……殿。
この半年、確かに功はございませぬ。
しかし――この芋とて、黙って冬眠は致しませぬ。
摂津の冬を破る策を、ひとつだけ成し遂げております」
信長の眉がわずかに動いた。
「ほう?
この状況で、まだ口を開くか。
申してみよ」
秀政は深く息を吸い、静かに告げた。
「殿に、瀬戸内の海をご覧いただきとうございます」
「……何の話だ?」
「以前お伝えしました、ガレオン船。
遂に完成いたしました。
名を――虎王丸と申します。」
信長の目が細くなる。
「――ガレオンだと?……虎王丸か」
「殿に乗艦いただき、その目で瀬戸内で無双する“織田の”虎王丸をお確かめいただきとうございます」
一瞬の沈黙。
そして――信長の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「芋……。
ははははは!!
お前は――半年の沈黙の裏で、そんなものを隠しておったか?」
秀政は深く頭を垂れた。
「殿の御前にて、海を制する力をお見せいたします」
「……面白い。見せてもらおうぞ。
申すに値するわ」
「つきましては、九鬼嘉隆も同乗させたく」
「九鬼?」
「はい。虎王丸は織田家のため、今後瀬戸内で暴れ続けることになりましょう。
これを操れるのは九鬼殿にございます。
そして九鬼の水軍を背後に着けて威容を示します」
信長は即答した。
「許す」
「御意!
殿、九鬼は連れますが、戦うのは殿の虎王丸一隻です」
「ほぉ?一隻であの村上水軍と対峙するか?」
「はい、そうでなければ瀬戸内無双とは呼べますまい」
信長は愉快そうに笑った。
「面白い。大口で終わるなよ」
「はっ!では、堺まで虎王丸を運びまする」
「まて、芋。
儂も伊勢から乗ろう。
海原を走るガレオン……悪くない」
秀政は一瞬目を瞬かせた。
「え?あ、御意。
それでしたら殿に鳥羽まで足を運び頂くわけには参りませぬ。
尾張熱田の湊まで運びまする。そこから堺まで五日かけて虎王丸で参りましょう。
途中で九鬼水軍とも合流します」
「日は?」
「今から最速でご準備致します。
十一月十五日にて熱田の湊へお越しくださいませ」
信長は満足げに頷いた。
「分かった。
ふはははは。芋、やはりお前は面白い奴よ」
そう言い残し、信長は踵を返した。
その背中には、先ほどまでの冷たさはもうなかった。
(一度伊勢に寄ってお悠と澪に会うつもりだったが……。
致し方ない。この戦を勝ち切ってから会うことにしよう)
秀政は深く息を吐いた。
(……よし。ここからだ。虎王丸で、摂津の冬を終わらせる)
*
十一月十五日。
熱田の湊には、冬の風が鋭く吹きつけていた。
白い波頭が立ち、海は荒れている。
だが、その荒波をものともせず、巨大な影が静かに揺れていた。
――虎王丸。
五つ木瓜の紋を大きく描いた横帆が、冬の風を受けてはためく。
その姿は、まるで海に降り立った城郭のようであった。
信長が桟橋に姿を現すと、周囲の空気が一変した。
家臣たちが一斉に頭を下げる中、信長は虎王丸を見上げ、目を細めた。
「……ほう。
儂の五つ木瓜が海に映えると、こうも壮観か」
秀政は膝をつき、静かに答えた。
「殿の御紋を掲げた横帆は、海の上では陸よりも遥かに威を放ちます」
信長は満足げに鼻を鳴らした。
「芋。儂は満足しておるぞ」
「恐悦至極にございます」
「この船……儂が乗るにふさわしい。
よくもまぁ、このような物を隠していたな」
秀政は微笑を浮かべた。
「殿にお見せするまでは、虎王丸は“秘すれば花”にございました」
信長は喉の奥で笑った。
「ふん……。
摂津の膠着を破るのは、陸ではなく海かもしれぬな」
「そのために、殿に乗艦いただきとうございました」
「隠していたことはけしからんが――許す」
「は!」
信長が乗艦すると、虎王丸はゆっくりと帆を張り始めた。
冬の風が帆を叩き、船体がわずかに軋む。
次の瞬間、虎王丸は海面を滑るように前へと進み出した。
*
三日目。
南紀沖――黒潮の風が帆を満たし、虎王丸は海を切り裂くように進んでいた。
信長は船首に立ち、吹きつける潮風を受けながら呟いた。
「この速度……櫂も使わず、和船の比ではないな」
秀政は隣に立ち、帆を見上げた。
「はっ。
前方二本の横帆で追い風を受け、後方二本の三角帆で向かい風を受けますゆえ。
風さえあれば、和船とは次元が違います」
「……速いな。
まるで海が道になったかのようだ」
「殿。
虎王丸は“風を食う”船にございます。
追い風でも向かい風でも前へ進めますゆえ、黒潮の風を受ければ、この通りにございます」
信長は海を見渡し、低く笑った。
「和船では考えられぬ芸当よな」
「はい。風と潮が合えば、和船が一日かける距離を、虎王丸なら半日で駆け抜けます。
もちろん瀬戸内海でも風さえあれば、虎王丸は走りますぞ」
「ふん……毛利水軍も本願寺も、この速さにはついて来れまい」
「ついて来れませぬ。
それに殿、こちらをご覧ください」
秀政は信長を砲列へ案内した。
船腹に並ぶ黒鉄の砲口が、海に向けて静かに口を開けている。
「左右八門ずつの十六門。
前後に二門ずつ、計二十門の大砲にございます」
信長は目を見開いた。
「二十門……南蛮船は化け物よな」
「殿、これでも控えめな方で、あと十門は余裕で乗ります。
戦闘に特化した南蛮ガレオンは全部で八十門積むとも言われます」
「ほぉ、想像がつかんな」
秀政は砲身を軽く叩きながら続けた。
「しかも全て南蛮大砲。
カルバリン砲は射程が長く、海城すら粉砕できます。
カノン砲は威力が高く、近距離で安宅船すら一撃で沈めます」
「距離で使い分けるわけか」
「はい。
どんな距離でも対応できるのが虎王丸の強み。
和船の戦い方とは天と地ほど違います」
信長は満足げに頷いた。
「……儂の軍勢に、これほどの力が加わるか。
面白い。実に面白いぞ、芋」
「殿にそう仰せいただければ、
虎王丸も本望にございます」
*
五日目。
大阪湾が近づき、堺の町影が遠くに見え始めた。
信長がふと船首を指さした。
「芋。あの船首の像……虎か?」
秀政は微笑んだ。
「はっ。
南蛮では、船首像に“船の想い”を乗せます。
海獣、海神、鷹――海の安全と武威をそこへ込めるのが習いにございます」
「ほう……だからこそ虎王丸は虎か」
「はい。虎王です。
森の王者の如く、瀬戸内の王者になるのです」
信長は満足げに笑った。
「ふん……よい。儂の船にふさわしい」
秀政は心の中で呟いた。
(ふっ……こいつは大阪湾を制する船だ。
虎ほど縁起の良いものはないさ)
信長は振り返り、秀政を見た。
「芋。この五日、儂は満足しておるぞ」
秀政は深く頭を下げた。
「殿の御前で虎王丸を走らせられたこと、
この上なき誉れにございます」
「海の戦でもその威容が見れることを期待しておる」
「はっ……!お任せを!」
虎王丸は冬の風を受け、堂々と堺の湊へ入っていった。
その姿は、まさに“海の虎”であった。




