第二百十七話 虎
芋粥家は、長政の秘策を実行に移した。
お悠が三千貫という破格の予算を用意し、政成が既に切り札のために動き始めている。
だが、この策は一朝一夕で実を結ぶものではない。
そうして数ヶ月が過ぎた。
相変わらず秀政は花隈を離れられず、今日も政親と茶を飲んでいた。
「あれはまだか?」
「義兄上、あれとは若の策のあれのことですか?」
大きく息を吐いてから不貞腐れる。
「それ以外何がある?」
「姉上がそろそろかと思いますが?」
「な!?おぉ、そうであったな!」
政親が呆れたような顔をする。
「姉上のことをあれほど大事にされているのに、まさか忘れてたんですか?」
(むぅ、これもそれも佐久間のせいだ!)
「いや、忘れるわけがなかろうが!
あれというのはお悠のことに決まっておる。」
「姉上が怒るかもしれませんので、黙っておきますね」
「忘れておらんっ!」
ばつが悪そうに、明後日の方向を向く。
そんな時、芋粥家の小母衣を纏った使いが、慌ただしく駆け込んでくるのが見えた。
秀政は勢いよく立ち上がった。
「ま、まさか?!」
使者は秀政の前に滑り込むと、慌てて頭を下げて、興奮気味に報告した。
「も、申し上げますっ!」
「うむ、落ち着け。どうした?何の件だ?」
「は、はい!
御台様、姫君をご出産あそばしました!」
「おぉ、姫か。では澪だな」
「はい!澪姫様と名付けられました」
亀状態で常に憂鬱そうだった秀政の表情が晴れ渡った。
「お悠の体は大丈夫か?」
「はい、御台様、姫様、お二方様とも何も問題はございませぬ」
「そうか、そうか!
おぉ、会いに行きたいのぉ!」
政親も嬉しそうに茶化す。
「おめでとうございます。
ですが、ここを離れるのは駄目ですよ。
義兄上はこの花隈を守る切り札ゆえ、佐久間様がお許しになりませぬ」
秀政が頭を掻きむしる。
「くそぉ、佐久間めぇ!」
「義兄上、ここは佐久間様の城ですよ」
そう言いながら政親も、笑みを絶やさない。
(でかした!姉上!
澪姫こそ、我が嫡男桂丸が頂くのだ!
それで千種家の一門としての立場は盤石となろう)
秀政が鼻息を荒くする。
「分かっている!
こうなれば早くあれが完成せぬものかな?
海を開きさえすれば、俺が澪に会いに行くくらいの時間は取れようものを!」
政親もいつもの表情に戻って応じた。
「そうですね、あれを待ちましょう」
*
結局それからさらに数ヶ月が経った。
年の暮れが近い。
羽柴秀吉も、明智光秀も、荒木村重を攻めきれずにいた。
毛利と本願寺が背後から圧力をかけ続け、二人は常に兵を割かざるを得ない。
有岡城は落ちる気配を見せなかった。
佐久間信盛もまた、摂津の国人たちが反織田の姿勢を見せ始めたことで、攻めに出るどころか守りに徹する他なかった。
そのあおりを最も強く受けているのが、芋粥家である。
花隈の守備に追われ、半年の間にただ一つの功も挙げられなかった。
得意の兵站も、伊勢と尾張などの遠方からの米を買い集めて、ようやく体裁を保っているだけだった。
それでも、輸送費を含む割高な経費を極限まで抑え、兵たちの腹を満たし続けられているのは、明とそれを支える長政の努力の賜物だった。
*
花隈城の一室で、秀政は苛立ちを隠そうともせず歩き回っていた。
「くそぅ……政親。伊勢からの知らせはまだか?」
政親は呆れたような表情で、首を振った。
「まだです」
「出陣の下知は?」
「あると思いますか?」
その言葉に、秀政は天を仰いだ。
「はぁ……俺はこれから病にかかる。
来年はお前が新年の軍議に出てくれ」
政親は苦笑しながら答えた。
「義兄上。
童みたいなことを言わないでください。無理です。
それに来年からは安土城で行われます。
楽しみにしていたじゃないですか」
秀政は肩を落とした。
「あぁ、安土城をこの目で見てみたいのはその通りだ。
だが叱られに行くために行きたいわけではない。
しかもだ。今年の俺は佐久間並みに亀だ。
ど叱られるのが見えている」
「佐久間“殿”です。
義兄上、腐りすぎです。
苛立つのは分かりますが、もう少し冷静に……」
秀政は手を振った。
「分かってはいる。冗談で駄々をこねているだけだ。
……しかしまぁ、こうも早く、しっかりと明智殿の気持ちが分かることになるとはな」
「明智殿も会った当初から腐ってましたからね」
秀政は苦笑した。
「自らの要因ではなく、力を発揮する場がない。
これがこんなにも辛いこととはな。
……そりゃあ、明智殿も頭痛が絶えなかったわけだ」
政親は小さく息を吐いた。
「……確かに。
今は父上を待つしかありませんね。
しかし……若はよくあれに気づきましたね」
「そうだな、まだ長政の策がある分、望みは繋いでいる」
政親は頷きつつも、不平そうな顔をした。
「私はあれの存在を知らされておりませんでした。」
「あぁ、そうだったか?すまんな。
俺も完全に忘れていた。オワコンだったからな」
政親が不思議そうな顔をした。
「おわこん?」
「いや、何でもない。
取るに足らないどうでも良いものというものだ。
そのどうでも良い物が、いまや一石三鳥の種になっている」
「そうですね。
海を開き、大殿の機嫌を取り、大功と大金を手に入れられる。
言っておきますが、義兄上が私にあれの存在を伝えていたら、もっと早くに私なら気づきましたよ」
「ん?なんだ、政親。
長政と張り合っているのか?」
政親は誤魔化すように鼻で笑った。
「いーえ、張り合ってなどいませぬ。
若の成長を私も喜んでおりますよ」
秀政も苦笑して返した。
「そうか、ならいい。
まぁ、お前に伝えていたら、もっと早くに打開できたというのは確かだったな」
政親はそれには返さずに、真面目な顔で伊勢の方を見つめた。
「三千貫もつぎ込めば半年は進捗が前倒しになるはずです。
そろそろのはずなんですが……。
しかも今回は父上が陣頭指揮を執っているはずです。
もっと効果が出ているかもしれません。
まぁ、義兄上は“おわこん”などと仰いましたが、普通に考えれば夢の兵器ですよ」
政親が伊勢の方角を見つめていたその時、
花隈の静かな廊下に、急ぎ足の音が響いた。
二人が同時にそちらへ目を向けると、
埃を巻き上げながら早馬の使者が駆け込んでくるのが見えた。
「伊勢からの使者……!」
政親が息を呑むより早く、秀政は口元を吊り上げた。
「噂をすればなんとやら、とはこのことだな」
使者は部屋の前に膝をつき、声を張り上げた。
「急使にございまする!
伊勢の千種筆頭様より、至急の御報せにございます!」
「入れ」
秀政が短く命じると、使者は両手で包むように文を差し出した。
秀政はそれを受け取り、封を切る。
紙を広げた瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。
「……来たか」
政親が身を乗り出す。
「義兄上、何と?」
秀政は文を政親に渡しながら、ゆっくりと息を吐いた。
「ガレオンの完成だ」
政親は文を読み、思わず声を失った。
数年前からフリゲート開発の裏で、ひっそりと建造が続けられていた芋粥版ガレオン船。
本来は献上用の“飾り物”にすぎず、秀政自身も「隠れ蓑としての価値しかない」と考えていた。
今までは、急ぐ必要がなかったため、最低限の予算でその作業は行われていた。
だが研究開発と異なり、最も難しい骨組みが解決済みのガレオン船は、金さえ積めばいくらでも建造期間の短縮が行えた。
冬の瀬戸内は風が強い。
巨大な帆を張ったガレオンは、海を滑るように進む。
風さえあれば、手漕ぎの和船では追いつけない。
その重量は、まさに“動く城”。
ぶつかるだけで小早は沈む。
積まれた南蛮大砲は、関船も安宅船も一撃で沈めるだろう。
高速で縦横無尽に動き回る城――瀬戸内の海で、こんな化け物に対抗できる船は存在しない。
まさに……瀬戸内無双。
秀政は、かつてこう語った。
『織田のガレオンは森の王者・虎の如く。
他家の水軍は虎を恐れて穴に縮こまる兎の如し』
そこから名付けられた名――『虎王丸』。
秀政は豪快に笑った。
「……これを殿に献上する。
有料でな。一万貫だ」
政親が目を丸くした。
「い、一万貫……!?」
「安いものだ。
殿はすぐに計算されるだろう。
本来なら研究開発だけで二万、三万貫かかる代物だ。
それが一万貫……たったの一万貫で虎が手に入る」
(ふっ……今回、三千貫を余分にかけたが、それでも芋粥にとっては利益が出る)
秀政は窓の外、冬の空を見上げた。
「そして殿に乗艦していただく。
目の前で瀬戸内無双をお見せするのだ。
この半年の“亀”を吹き飛ばす大功になるだろう」
「確かに」
「まぁ、ガレオンは一隻しかない。
孤高の虎であるガレオンは、瀬戸内全てを押さえるには至らないのは事実だ。
だが間違いなく海の状況は一変する。
制海権の一部は織田が取り戻す。
それで佐久間も考えを変えるだろうよ」
秀政の声には、久しく忘れていた熱が宿っていた。
その熱が政親にも移り、語気を強めながら呟いた。
「一石三鳥とは、よく言ったものだ」
半年間、摂津の闇に沈み続けた芋粥家。
功もなく、動けず、ただ耐えるだけの日々。
その中で、唯一前へ進んでいた策――
それが今、形となって現れた。
「……義兄上。これで、ようやく……」
「ようやく、だ」
秀政は拳を握った。
「明日早速、殿の元に向かう。
虎王丸の初陣に立ち合い頂くのだ。
これほど気持ちよく安土城見物が出来るとは格別だな!」
花隈の外では、冷たい風が城壁を鳴らしていた。
だがその音は、もはや絶望の風ではなかった。
虎王丸の完成は、芋粥家にとって――長い冬を破る、最初の光だった。




