第二百九話 摂津の現実
翌朝、政親は少数の供を連れ、摂津町の様子を確かめるために歩き出した。
町は人の往来こそあるが、政親の目に映るのは統制の欠如ばかりであった。
まず町役人の詰所を訪ね、佐久間家からの命令書を示した。
しかし役人は帳面を閉じようともせず、面倒そうに顔を上げた。
「殿の御判があるのは確かに拝見しましたが。
我らは一役人に過ぎませぬ。
殿のお下知はご家老、ご奉行、郡代を通して我らに伝わります。
我らは郡代の吉田様の裁可まで得ねば、動けぬ決まりにございまする。
特にこの手の封鎖や番所の設置は、一歩間違えれば、戦に大きな影響を及ぼすため、我らだけでは判断できかねまする」
政親は命令書を指で軽く叩いた。
「これは佐久間様の命にて発せられたものだ。
そして我ら芋粥に任せると書いてある。
そなたらが動かぬ理由にはならぬはずだが?」
役人は、待っていましたと言わんばかりに言葉を重ねた。
「いえ、その……殿の御判があるのは重々承知しております。
しかしながら、先ほど申しました通り、我ら役人は郡代の吉田様の裁可を得ねば動けませぬ。
吉田様が動かれねば、奉行所も動きませぬ。
奉行所が動かねば、家老方の承認も下りませぬ。
家老方の承認がなければ、村々への触れも出せませぬ。
つまり、殿の御判があろうとも、
この場で我らが勝手に動けば“越権”と見なされ、
後に責を問われるのです」
政親は眉をひそめたが、役人はさらに続けた。
「もちろん、全力で与力させていただきます。
まずは郡代の吉田様へお伺いを立てますゆえ、
しばしお待ちいただきたく。
吉田様が奉行所へ取り次ぎ、
奉行所が家老方へ伺いを立て、
家老方が承認されれば、
その時こそ、我らも全力で動けます」
屁理屈であった。
おそらくこの流れのどこかで、村々の反発や、何らかの利権が絡んで揉み消される。
帳簿を求めても、出てきたのは数字が食い違い、記載も粗雑で、公的帳票としての価値がない代物ばかりである。
自ら調べようとすれば「他領の者が勝手に調べるとは何事か」と声を荒げられ、間者扱いされる始末であった。
実際の封鎖に関しても同様である。
政親が地図を広げ、封鎖の必要性を説いても、農民たちはどこか上の空で、「田の準備が」「村の寄り合いが」と言い訳を並べる。
村長の婿と名乗る男は特に強硬であった。
「封鎖などすれば、村の商いが滞ります。
門徒衆の反発も招きましょう。
我らとしては、賛同しかねますな」
政親はその男の態度に違和感を覚えた。
言葉遣いは丁寧だが、こちらの意図を先回りして潰すような話しぶりである。
政親の部下の一人がふと、世間話のように安芸訛りで語り掛けた。
あらかじめ、そうするように政親によって命じられていた。
「ほう、そがぁな事情があるんか。
わしらも無理強いする気はないんじゃがの」
すると村長の婿は、何の戸惑いもなく安芸訛りで返した。
「ほいじゃがの、殿方。
この村にもいろいろ事情があっての。
急に封鎖と言われても、動きようがないのです」
表情には出していないが、途中で気づいたか無理やり訛りを消した。
政親はそれに気づいていないふりをした。
(ここは毛利の忍び――世鬼衆が巣食っておる。
世鬼衆はこうした潜伏に長けている。
村長の婿とやら、あれが元凶だな)
この状況では封鎖の話が進むはずもない。
佐久間家の役人は動かず、村々は協力を拒む。
おそらく佐久間右衛門の耳には万全の封鎖として伝わっているのだろう。
実際は“笊”もいいところである。
結局、政親がどれほど足を使ったとしても、村々には本願寺側の影が潜み、情報は歪められ、手の施しようがない。
(これでは埒があかぬ。
予想通りとはいえ、思った以上に酷いな。
明智様が一年動けなかった理由が、ようやく肌で分かったわ)
政親は馬を引かせ、東方本陣の方角へ視線を向けた。
(まずは明智様に会う。
この地の実情を、互いに擦り合わせねばならぬ)
政親は馬に跨り、ゆっくりと手綱を引いた。
摂津の町を抜け、東方本陣へ向けて歩みを進める。
背後で村長の婿がじっと視線を送っていたが、政親は振り返らなかった。
*
政親が摂津町の視察に向かったその頃。
二の丸御殿の一室では、明が帳簿と地図を広げ、困った顔で眉を寄せていた。
摂津の兵站は伊勢とはまるで別物であり、村々の協力が得られぬ以上、どれほど理屈を積み上げても机上で止まる。
村々からの米の納入予定、兵糧の在庫、荷駄の確保、船頭の手配――
どれも数字が揃わず、伊勢では考えられぬほど乱れていた。
そこへ長政が入ってきた。
明の表情を見て、すぐに状況を察した。
「明、摂津の兵站は、伊勢のようには参らぬそうだな」
「長政様!」
明は顔を上げ、少しだけ肩を落とした。
「摂津では、米も兵糧も、必要な量が揃いません。
村々や商人が納めると言っても、実際には半分も届かない。
荷駄も足りず、船頭も動かず、戦備品の手配も滞っています」
長政は驚いたように眉を上げた。
「それほど違っているのか……」
明は頷き、帳簿の乱れた数字を指で示した。
「はい。
伊勢では“納めると決まれば納まる”のが当たり前でした。
ですが摂津では、村の事情、寺社の顔、門徒衆の影……
誰かが反対すれば、数字がそのまま消えます。
納入予定が“予定のまま”で終わるのです」
長政は地図を見つめ、静かになるべく穏やかに言った。
「政親殿が申していた。
“摂津は恐怖と利権で動く土地”だと。
ならば、調達も同じ構造に縛られているのだな」
明は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「はい。
米を出せば門徒衆に睨まれる。
荷駄を出せば別の村から恨まれる。
船頭を動かせば、佐久間家の役人に止められる。
何もかもが現場で消されてしまうのです」
長政は明の手元に視線を落とし、落ち着いた声で言った。
「では、どうすればよい?」
明は帳簿を閉じ、決意を込めて言った。
「まずは“理由”を整理します。
調達が滞る理由を一つずつ潰さねば、兵站は動きません」
長政は頷き、筆を構えた。
「では、明。
そなたが理由を挙げよ。
私はそれに対して、どう動けばよいか考える」
明は指を折りながら、丁寧に言った。
「一つ目。
“米を出すと門徒衆に睨まれる”という恐怖です」
「分かった。
これは……村だけに任せず、こちらが“守りの兵”を置く必要があるな」
「二つ目。
“荷駄が足りない”という理由です。
これは……荷駄持ちの村々に利を示す必要があります。
荷駄を出せば得をする、そう思わせねば動きません」
「では、荷駄を出した村には、別の役を軽くするなどの策を考えよう」
「三つ目。
“船頭が動かない”という理由です。
これは……佐久間家の役人が止めているのです。
どうにもなりません」
長政は苦笑した。
「そこは政親殿が何とかしてくださるだろう。
私も何かできる方法がないか考える。
明は村々と荷駄持ちを固めることに集中すればよい」
明は深く息を吸い、静かに言った。
「長政様。
私、摂津の兵站を成し遂げてみせます。
伊勢とは違う形でも、必ず」
長政は明の言葉に力強く頷いた。
「ならば、私はその隣で支える。
お前が前に出るなら、私は後ろから押す。
お前が迷うなら、私は道を探し、先導する。
夫婦とはそういうものだと、義父上も申していた」
明はその言葉に、ようやく笑みを浮かべた。
「はい。では、次の村の調達状況を確認しましょう。
まだまだ課題は山ほどあります」
長政は筆を走らせ、明は帳簿をめくる。
ただ、長政は帳簿の端に記された“調達不能の村々”の欄を見つめながら、
胸の奥で理解していた。
(……この陸路は、どれほど積み上げても崩される。
摂津の兵站は、根から歪んでいる。
最終的には、海を使うしかないのではないか?
だが――海は佐久間殿が最大限に警戒している。
至難の業だ)
幼い夫婦の作戦会議は続く。
だが摂津の兵站は、二人が思っている以上に根深い問題を抱えていた。
*
一方、その頃。
秀政は鷺山を呼び、外郭攻めについて議論をしていた。
「鷺山、お前の意見も聞きたい。
先の軍議では、明智殿の東方軍団が外郭攻めを、一手に引き受けられることになった」
「我らは留守番ですか?」
「まぁ、そうなるな。
佐久間殿は外郭攻めを危険だとみなされている。
西方軍団が巻き込まれて被害を受けたくないとな」
「いやいや、どれほど亀なのですか?
折角我らが一万も連れてきたのです。
ここで攻めに転じなくて如何にするのでしょう?」
「ここは佐久間家だぞ、口を慎め。
とはいえ、俺もそう思う。
もうすぐ農期だ。
そうなると折角連れてきた、俺の農兵五千も伊勢に返さねばならん。
一当てするならまだしも、城に籠って威圧するためだけに一万も寄越せというのは腑に落ちん。
農兵の移動、滞在、帰郷にかかる米は芋粥持ちだ。
こんな馬鹿らしいことはないな」
「かといって、総大将が一万を要求したのですから、それには逆らえませんね。
普通は農期までに砦の一つや二つは落とすものですが……」
「そうだな、これだと米の無駄遣いにしかならん。
ところで味方の陣容は調べたか?」
「はい、ご指示いただきましたので、すぐに探らせました」
本願寺攻めの東方軍団と西方軍団の陣容が記された紙を広げた。
光秀の東方軍団は畿内防衛の責任者。
全力で本願寺に張り付くことはできない。
ゆえに控えめな陣容である。
明智光秀。
常備兵、二千〜三千。
動員兵、四千〜六千。
細川藤孝。
丹後の兵、千五百〜二千。
高山右近。
摂津のキリシタン勢力、五百〜千
佐久間信盛の西方軍団。
佐久間は畿内の“名目上の総責任者”だが、実際の兵力は弱い。
佐久間信盛。
常備兵、千〜二千
動員兵、二千〜四千
中川清秀。
摂津の国衆、千〜二千。
芋粥秀政。
勢洲兵。
鬼兵、三千百。
常備兵、二千。
動員兵、五千。
それを眺め見たあと、悪態をつく。
「なんだと?俺が一番多いじゃないか。
兵糧だって、ただじゃないんだぞ」
困った顔をしながら鷺山が返す。
「それは仕方のないことですが、四月になれば農兵五千もの大軍を伊勢に帰す必要があります。
何もせずに帰すとなると、何のためにここまで連れてきたのかが分からなくなりますな」
「うむ、そうだな。
もしここに明が居たら、鬼の形相で“これだけ米を浪費しました!”とでも言いそうだ」
「確かに……おぉ、怖い」
「笑い事ではないわ!
はぁ、なんとも口惜しい戦だな。
俺を西方軍団長にしてくれたらいいものを……」
「殿、ここは佐久間家です。
口にはお気を付けくだされ」




