第二百八話 一歩の前進
軍議を終え、芋粥家に貸し与えられた二の丸御殿へ戻ると、
張り詰めていた空気がようやくほどけた。
だが、秀政の胸の内には、まだ軍議の余韻が重く残っていた。
障子を閉め、炉の火を少し強める。
冬の冷気がまだ残る畿内の空気が、じわりと温まっていく。
秀政は腰を下ろすと、深く息を吐いた。
心配そうに待っていた長政も腰を下ろし、
秀政、政親、長政が火を囲むように座る。
「政親、よくやったな。
あの軍議を目の当たりにして、正直ぞっとしたが……
あそこから一気に話を進めることが出来たのは見事だとしか言えん」
政親は肩をすくめ、湯飲みを手に取った。
「ん? いや、まさか義兄上、一気に話が進んだとお思いか?
一歩前進したに過ぎませぬ」
秀政は思わず身を乗り出した。
「いやいや、明智殿には外郭攻めの許可が下りた。
その上、西側封鎖の実働を我らが押さえた。
さらに一番心配な兵站まで実権を取れたのだぞ?」
政親は湯飲みを置き、静かに首を振った。
「楽観的過ぎます。
よくお考え下され。
あの優秀な明智様が一年もの間、進展が出ずに、足踏みしたのですよ?」
秀政は言葉を失う。
政親は淡々と続けた。
「明智様は普段、感情を表に出さぬ方。
私と同じく、上手く佐久間様を転がす術も、持ち合わせておりましょう。
その明智様が手を打てず、今では感情を抑えきれず、侮蔑の目を向けるほど、佐久間様との関係は悪化しています。
これで楽観できますか?」
秀政は唇を噛んだ。
「いや、しかし……
あの佐久間殿から俺も明智殿も任されたのだ。
後は自由にやれる。違うのか?」
政親は苦笑し、少し身を乗り出した。
「違いますね。
義兄上。
伊勢がなぜあれほど速く、効率的に発展しているか、ご存知ですか?」
秀政は目を瞬かせた。
「ん?」
政親は静かに言った。
「身内をよく言うのも憚られますが……
父・政成のおかげです」
秀政は頷く。
「いや、義父殿の功績はよく理解している」
政親は首を横に振った。
「であれば、その二倍三倍は父の功績がありますよ」
秀政は思わず姿勢を正した。
「そうなのか?」
政親は淡々と、しかしどこか誇らしげに語り始めた。
「えぇ。まず佐久間家のことを、芋粥家と同じに考えてはなりませぬ。
伊勢では、上が決めれば家老も奉行も代官も一斉に動きます。
しかし畿内は違います。
佐久間様が合意されたとしても、その下に連なる家老、奉行、代官……
何十人、何百人という石頭を、佐久間様と同じ労力をもって一つずつ砕いて回らねば、実際には動きませぬ」
秀政は息を呑んだ。
政親は続ける。
「上が上なら下も下。
利権を持つ者たちを説き伏せ、村々と寺社の顔を立て、ようやく一つの番所が動くのです。
芋粥家とは、まるで別の生き物にございます」
秀政は額に手を当てた。
「そ、そうなのか……政成の苦労のなせる業ということか?
これでは義父殿に足を向けて寝れぬな」
政親は苦笑しつつ、しかし真剣な目で秀政を見た。
「義兄上、一つだけ誤解なきよう申し上げます。
芋粥家は石頭が少なかったのではございませぬ。
石頭が生まれぬように、父が長年かけて、上意下達と横串を“仕組み”として整えてきたのです。
家老も奉行も代官も、皆が同じ帳簿を見て、同じ数字で話ができる。
だから一度方針が決まれば、伊勢の隅々にまで、ほとんど摩擦なく届くのです」
秀政は息を呑む傍ら、政親は静かに締めくくった。
「つまり父は、目の前の石頭を叩き割るのではなく “石頭にならぬように”人を選び、役目を分け、横に繋ぎ、それを十年と続けてきた。
決して身内の贔屓目で申しているわけではありませぬ。
仮に私と父の血が繋がっていなかったとしても、同様に、私は父を日の本一の宰相と申し上げたでしょう」
秀政はしばし言葉を失い、やがて静かに呟いた。
「そうであったか……
俺がここまでこれたのも義父殿あってというわけか。
薄々分かってはいたが、俺の原点は義父殿にあるわけだな」
政親は軽く首を振った。
「父の話はさておき、次の動きを考えましょう。
畿内は佐久間様の領内。
我らは手伝うことはできても、実質の封鎖は佐久間家に任せることになります。
すんなり動けばよいですが……」
秀政は苦い顔をした。
「そうだな……
明智殿の外郭攻めはどうなのだ?」
政親は即答した。
「そちらには動きがあるでしょう。
許可さえあれば、明智様であればすぐに攻め落とされると思います」
秀政は政親の表情を見て眉をひそめた。
「浮かぬ顔だな?
外郭攻めに関しても思う所ありか?」
政親は静かに頷いた。
「はい。外郭攻めと申しましたが、攻めるは易く、守るが難きです。
攻め取った地を維持するには、明智様だけでは難しいでしょう。
佐久間様のご協力は必須です」
秀政は深く息を吐いた。
「それはそれで……別の意味で難しそうだな」
政親は苦笑し、しかし目は鋭かった。
「はい。だからこそ、ようやく一歩踏み出しただけなのです」
秀政は天井を仰ぎ、静かに呟いた。
「信じたくない話だな……」
今まで圧倒されて黙り込んでいた長政が小声で呟いた。
「やはり政親殿を副将として正解でした」
秀政はそれに対して軽く答える。
「経験の差とも言える。
政親はこれまで数多の戦国大名と渡り合ってきたのだ。
肝も知恵も一朝一夕に出来上がるものではない。
まぁ、無論生まれ持った才は否定しないがな」
「……私では経験を積んでも政親殿には及びそうにありませぬ」
「まぁ、腐るな、長政。
お前にも一つ頼みがある」
「何でしょう?」
「今回、織田の兵站をこの芋粥が担うことになった。
明がいるから、上手く成し遂げよう。
お前は明の傍で支えてやって欲しいのだ」
「あぁ、はい。もちろんそうしますが、それに関しても私は明には全く及びませぬ。
邪魔をしてしまいそうで」
「違うぞ、長政。
お前がいることで、明は安心できる。
力を全て発揮できるのだ。
傍にいて支えてやることが夫婦として大事なことだ。
それに明はお悠ほど経験はない。
伊勢で兵站を担うのとはまた一味違うぞ」
それには政親も割り込んでくる。
「そうです、若。
明姫様は兵站に天賦の才をお持ちではあるが、摂津の兵站は地元の政治・利権・恐怖に支配されており、芋粥式の合理兵站が一切通用しないとお考えくだされ」
「さ、左様でございますか。
なかなか難しそうですね。
如何にしたものか」
政親がそれに対して、無表情に何か助言をしようとするが、秀政が手で制した。
「良い機会だ、そちらはお前に任せる。
自ら問題を把握し、考え、解決策を見いだせ。
そして明を動きやすくせよ」
長政が目を見開いた。
「そ、そうですね。
政親殿に頼ってばかりではいられませぬ。
義父上、任せてください」
「うむ」
(政親のあの顔を見るに、兵站も一筋縄でも行かぬやもしれん。
何かしら裏でこちらも支援しておかねばならんかもしれんな。
だが、まずは長政にやらせる)




