第二百話 伊勢守凱旋
九鬼嘉隆の船団が白波を切り裂きながら志摩の海へ入ったのは、
秋風が涼しさを帯び始めた頃だった。
紀伊遠征を終えた秀政一行は、
志摩で一日だけ休息を取ると、
すぐさま鈴鹿へ向けて足早に進軍した。
七ヶ月ぶりの帰還である。
*
鈴鹿へ到着すると、
城門前には家族と家臣たちが勢揃いしていた。
お悠が先頭に立ち、
明と蘭、そして松丸が並んでいる。
秀政が馬を降りると、
家族の顔が一斉にほころんだ。
「今戻った」
お悠が深く頭を下げる。
「おかえりなさいませ」
明と蘭が揃って声を上げた。
「「父様、おかえりなさいませ!」」
松丸も駆け寄ってくる。
「父上!」
秀政はその頭を順に撫で、
久しぶりの家族の温もりに目を細めた。
「皆、元気そうでよかった。
無事、務めを果たして参ったぞ」
お悠が微笑む。
「はい、お疲れでしょう。鈴鹿館へ急ぎましょう」
「うむ」
*
鈴鹿館の上段の間に入ると、
城代として留守を預かっていた長政と、
補佐役の政成が控えていた。
長政が深く頭を下げる。
「義父上、おかえりなさいませ」
秀政は頷き、息子の肩に手を置いた。
「ただいま戻った。
よく鈴鹿城を守ってくれたな」
長政は謙遜して首を振る。
「いえ、義父上に比べれば、
私はまだまだにございます」
秀政が上座に座ると、
お悠や子供たち、浅野、鷺山ら重臣が次々と集まり、
部屋は温かな空気に包まれた。
*
秀政は皆を見渡し、口を開いた。
「此度の遠征で三介様は紀伊の大名におなり遊ばされた。
その功で俺にも褒美をもらえたわ」
政成が目を細める。
「それはおめでとうございます。
何を頂きましたか?」
秀政は満足げに頷いた。
「うむ。紀伊の勝浦の飛び地一万石を頂いた。
義父殿、早速代官を派遣し、
湊を南蛮貿易の拠点といたせ」
政成は思わず笑みを漏らした。
「それはそれは……勝浦ですか。
この芋粥にとっては願ってもありませんね」
「うむ。それだけでも紀伊を切り取りにいった甲斐があるというもの。
だがな、それだけではないぞ」
お悠が首を傾げる。
「そうなのですか?
よほどの大功をお挙げになられましたのね」
秀政は胸を張った。
「まぁな。俺は従五位上の伊勢守に任ぜられた。
今は芋粥伊勢守秀政だ」
政成が目を見開く。
「おぉ、それはようございます。
これで伊勢の安定化が計れましょう」
村瀬が腕を組んで唸る。
「むぅ……鬼備前改め、鬼伊勢ですか?」
秀政は笑って首を振った。
「いや、俺は鬼を名乗らんよ。
鬼備前は鬼備前のままだ。
備前守は長政に継承することをお許しいただいた」
長政が驚きの声を上げた。
「は? 私が備前守ですか!?」
村瀬がにやりと笑う。
「若か……まぁ、見込みはあるな。
鬼備前を名乗れるよう、
稽古をもっときつくせねばいけませんな」
長政は村瀬を制し、秀政に向き直る。
「いや、村瀬。それはどうでもいい。
それよりも私が父上の備前守を引き継いで良いのでしょうか?」
秀政は穏やかに頷いた。
「うむ、構わぬ。
松丸はまだ元服もしていないしな。
お前が一番相応しい」
松丸が不満げに手を挙げる。
「父上、俺は?」
秀政は笑って答えた。
「お前にはいずれ伊勢守をやるよ。
俺はその頃には関白か内大臣にでもなるかな、ははは」
松丸は目を輝かせた。
「それは凄い! 父上ならなれまする!」
秀政は軽く手を振った。
「まぁ、よいよい。
長政、伊勢の石高はどうなった?」
長政は帳面を開きながら答える。
「はい、二十七万石にはなりました。
義母上が帳尻を合わせて、
大殿には十四万石で報告してあります」
秀政は満足げに頷いた。
「そうか。引き続き石高を増やしてくれ。
鬼兵や常備兵の数を増やすにはまだまだ心許ない。
それでだ。
来年にはおそらく石山本願寺攻めに参陣することになろう。
十四万石ともなれば、
一万四千の兵を要求されるやもしれん」
浅野が低く唸る。
「大軍ですな」
秀政は静かに言った。
「準備を今の内からしておいてくれ。
米も集めておかねばならん。
実際は兵一万ほど連れていくことになる。
一万も一万四千もそう見栄えは変わらんだろう」
お悠が心配そうに眉を寄せる。
「とはいえ、一万ですか。
それは大変です……」
秀政は肩をすくめた。
「皆には苦労をかける。
俺はその代わりゆっくりできそうだがな。
まぁ、勝負は年明けだ。それまで頼むぞ」
「「は!」」
*
言葉の通り、天正五年は大きな事件もなく、
ゆっくりと過ごしながら暮れようとしていた。
秀政が紀伊遠征で胃を痛めていた間、
織田家と芋粥家では様々な出来事が起きていた。
まず、信忠総大将と滝川軍団による武田攻めである。
滝川は千五百挺もの最高品質の鉄砲を揃え、
木曽福島の狭隘地帯で武田赤備えと対峙した。
秀政は長篠の再現を期待していたが――
結果はそれを裏切ることになった。
武田勝頼は史実よりも強固な体制で家督を継ぎ、
山県昌景、馬場信春ら重臣が健在であり、
穴山ら一門衆との均衡も崩れていない。
武田家中は史実より遥かにまとまっていた。
三段撃ちは大きな効果を上げたものの、
勝頼や、山県と馬場たち名臣たちの采配により、
武田軍は壊滅を免れ、秩序ある撤退に成功した。
この戦いでは一部の赤備えと、
山県、馬場を討ち取るという戦果を得た。
織田家中はこの二将を討ち取るという大勝利に沸いたが、
武田は兵力と威信を失いきることなく、
再び織田に向けて向き直った。
長篠を知る秀政だけは浮かない顔をしたという。
*
だが、悪い知らせばかりではない。
鷺山利玄の嫡男・道丸、
千種政親の嫡男・桂丸。
芋粥家の次世代を担う命が相次いで誕生した。
鷺山が大喜びしたことは言うまでもない。
十一月、政親が九州より帰還した。
島津への援助が成立し、
九州の勢力図に大きな影響を与えたためである。
帰還と同時に長政生存の報を聞いた政親は、
複雑な表情を浮かべたが、
自らの子・桂丸の誕生を聞き、
何とか溜飲を下げたという。
最後の大きな出来事として、
期間限定で伊勢に配属されていた、
羽柴秀長一行、加藤清正、福島正則は、
その役目を終えて、播磨の秀吉の元へと帰っていった。
そして年が明け――
天正六年が幕を開けた。
*
一月三日。
正月の岐阜城は、凛とした冷気に包まれていた。
城下の喧騒は遠く、奥の間へ続く廊下には、
新年の軍議に集まった武将たちの気配が静かに満ちている。
秀政は、年始の軍議に参加するため岐阜城に登城していた。
廊下を歩きながら、ふと見知った背中を見つける。
――明智光秀。
背筋を伸ばし、眉間に皺を寄せ、
何やら思案しているような表情だ。
秀政は小さく息を吐いた。
(ん? 光秀殿か。
先に挨拶くらいしておくか)
軽い足取りで近づき、穏やかに声をかける。
「光秀殿」
光秀は振り返り、わずかに目を見開いた。
「ん? おぉ、これは備前殿。
……いや、今は伊勢殿でしたな」
秀政は軽く頭を下げる。
「明けましておめでとうございます。
内々で殿から聞いておりまする。
俺は副将として、石山本願寺攻めに参加すると」
光秀の眉がぴくりと動いた。
「副将?」
秀政は一瞬きょとんとした。
「ん? 聞いておりませぬか?」
光秀は首を横に振った。
「いえ、何も。
儂の副将は細川藤孝殿と高山右近殿で、
既に決まっておりますが」
秀政は固まった。
「は?」
光秀は困惑したように秀政を見る。
「伊勢殿……
何か、違う話を聞かされておられるのでは?」
秀政の背筋に、冷たいものが走った。
(え?
何やら話が違うぞ……
嫌な予感しかしない!)
光秀はさらに言葉を続けようとしたが、
その瞬間、奥の間から家臣が顔を出し、声を張った。
「明智殿、芋粥殿、軍議の刻限にございます!」
二人は顔を見合わせた。
光秀はわずかに眉を寄せ、
秀政は胸の奥に不穏な予感を胸に、
奥の間へと歩みを進めた。




