第百九十九話 褒美
九月二十日。
秋の気配がわずかに漂い始めた岐阜城の奥の間は、
外の喧噪とは無縁の静けさに包まれていた。
秀政は、紀伊遠征の完了を報告するため、
深く頭を垂れて信長の到着を待っていた。
しばらくして、廊下を踏みしめる足音が近づいてくる。
その音は迷いなく、重く、威厳に満ちていた。
秀政はさらに深く平伏する。
上座に腰を下ろす衣擦れの音がして、
信長の低い声が響いた。
「芋、面を上げよ」
秀政は静かに顔を上げた。
「は!」
信長は手元の文を軽く叩きながら言う。
「子細はこの文にある通りであるな?」
「は!
紀伊南東の沿岸部を三介様と共に切り取りましてございます」
「うむ、よくやった」
信長の声は淡々としているが、
その奥にわずかな満足が滲んでいた。
秀政は続ける。
「四万石ほどしかございませんが、
田畑はまだまだ開発の余地が大きく残された地。
開墾次第では伸びましょう。
何より湊の価値が大きうございます。
三介様は紀伊大名として力を奮われることでしょう」
信長は鼻を鳴らした。
「うむ、三介にしては上々よ」
(ほ……良かった。
いの一番に“足らぬ!”などと叱責されたらどうしようかと思ったが、
杞憂だったか)
信長はふと目を細めた。
「雑賀に三介が狙われたそうだな」
秀政の背筋がわずかに強張る。
「あ……はい。恐ろしい敵でありました」
信長は懐から別の書状を取り出した。
「これは三介からの文だ。
雑賀に狙われて肝を冷やしたことが書いてある」
(な、あいつ……
そんなものを勝手に殿に差し出していたのか。
何を書いた? 余計なことを書くなよ!?)
秀政は冷や汗をかきながら答える。
「は、はい。大変危ない状況ではありました。
申し訳ありませぬ。それがしが付いておりながら……
三介様を危険に晒してしまいました」
信長は文を軽く振った。
「うむ、九死に一生を得たと書いてある」
(……何が言いたいのだ。信長の意図が読めん……)
信長は続けた。
「お前に助けられたとも書いてある。
お前への感謝の言が並び連ねてあって、
読むのが面倒くさくなったわ」
そう言うと、信長はその文を秀政の方へ放り投げた。
秀政は慌ててそれを拾い、ゆっくりと開いた。
そこには、優雅な筆跡でこう記されていた。
『先日、紀伊国木本砦攻めの折、
雑賀孫市一党、林間より鉄砲を放ち、
我が本陣を狙い候。
その手際、まこと鬼神の如く、
忍びども相次ぎ討たれ、
近習もまた眉間を撃ち抜かれ候。
恐懼の至りにて、
我、膝の震え止まらず候。
その折、備前守、足軽の装束にて我が側に控え、
我を諭し、身を以て我を庇い候。
もし備前守なかりせば、
我、今ここに在らざること疑いなし。
影武者討たれし時、
我、死を覚悟仕り候。
されど備前守、終始沈着にて、
雑賀の狙いを読み、
我が身を守り導き候。
その働き、九死に一生を得たるものにて候。
このたびの紀伊攻め、
すべて備前守の才覚にて成り立ち候。
我が命、備前守に預け置き候こと、
まこと頼もしき限りに候。
右、恐懼ながら申し上げ候。
三介信雄 謹言』
秀政は文を読み終え、
胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
(信雄……
お前って奴は……
ちゃんと恩を返す男であったか……)
信長はふっと笑った。
「あれでも俺の倅である。
芋、よく守った。
褒美をやろう。欲しい物を申せ」
秀政は思わず身を乗り出した。
「ま、真にございますか?」
(志摩だ。志摩一択だ!
領地!領地!領地!!)
「で、ありましたら……」
信長は先に釘を刺した。
「言っておくが、勝浦をやったばかりだ。
領地はやらぬぞ。
それでも欲しいと申すならば、
伊勢を召し上げた上で四国を切り取り放題とするが良いか?」
秀政は固まった。
「あ!? いや、ご冗談を。
この秀政、伊勢を頂いた上に、
此度、勝浦まで頂きました。
領地に対する欲など一切ございませぬ!
そ、それがしが欲しい物は……」
(領地、くれないのかよっ!
領地以外で欲しい物なんてあったか……?)
その時、政親の顔が脳裏に浮かんだ。
(あった!)
秀政は深く息を吸い、静かに言った。
「それがしが欲しい物ですが……
従五位上伊勢守を頂きとうございます」
信長は目を細めた。
「ん? 伊勢守?
ようやく備前が定着したばかりではないか」
秀政は頭を下げたまま、はっきりと答える。
「伊勢は北畠始め、権威に敏感な者が多い土地。
家中をまとめるには、正当な伊勢守に任官いただくことが最上策。
それに備前は“鬼備前”が元。
それがしはここで勝負しとうございます」
そう言って、自分の頭を指で軽くつついた。
信長は鼻で笑った。
「ふっ。お前らしいと言えばお前らしいな」
秀政は続ける。
「叶うならば備前守は我が嫡男、長政に名乗らせとうございます。
あの者は軍神謙信にも命知らずに突き進む鬼備前に相応しき者。
丹羽殿を救い出す胆力は、それがしよりも備前守が似合いまする」
信長は満足げに頷いた。
「それもよかろう。
芋、今日よりお前は芋粥伊勢守秀政じゃ。
そして万太郎にも伝えよ。
備前守長政を許すとな」
秀政は深く頭を垂れた。
「ははぁ! ありがたき幸せ!」
(政親が北畠名跡と伊勢介を名乗る以上、
俺にもそれ以上の大義が必要。
そのためには伊勢守がちょうど良い。
鬼備前も長政に押し付けることができたしな)
信長は立ち上がりながら言った。
「芋、伊勢へ戻れ。
次の命を待て」
「次は何を?」
「石山本願寺攻めの副将を任せるつもりだ。
惟任と共に次は本願寺を討て」
秀政は深く頭を下げた。
「ははぁ!」
(凡介信雄の次は切れ者光秀殿か。落差が激しいな。
だが、まぁ胃痛よりましか)
信長は背を向けながら言った。
「芋、お前には期待しておる」
その言葉を残し、信長は静かに退出した。
秀政は深く息を吐いた。
(はぁ……本願寺か。きついな)
だがその顔には、
伊勢守を得た満足感と、
次の戦への覚悟が宿っていた。
第十二章 伊勢太守編(秀政胃痛編) 終幕




