第百九十八話 瑞鶴城
当初予定していた地点の切り取りが完了した。
時は五月の上旬、想定よりも早く落ち着きを得た。
新宮城の完成を待ち、その間には、
新たに信雄領となった地域の足固めが必須だった。
それは現地の実態把握に止まらず、
防衛の配備にも追われることになる。
新宮新城の完成予定は七月十五日頃になるだろう。
新城完成と足固めの期間も考慮し、
信長への紀伊遠征の完了報告は九月中旬に行うことを決めた。
ただし、信雄の意向でこれ以上の戦は行わず、
現状維持のままで足固めに専念することになる。
現状把握と一言で言ったとしても、
やることは山ほどある。
湊の規模や船の数、
廻船問屋の勢力、
地元豪商の顔ぶれ、
捕鯨・漁業の収入、
熊野三山との関係、
国人の不満・不安などだ。
当の秀政は新宮の守備と治安回復を福島に任せ、
新城建築を加藤に丸投げした後は、
鬼兵と九鬼を連れて、勝浦の整備に回っている。
どうやら秀政自身、勝浦のことで頭がいっぱいで、
信雄の紀伊支配に協力する気は皆無のようだった。
柴垣と岡部が死ぬ思いで、その任務にあたっている。
*
勝浦の湊は、朝の潮風にきらめいていた。
秀政は海を見下ろしながら、
まるで遠足に来た子供のように目を輝かせていた。
「ほう、あれが捕鯨船か。思ったより大きいな」
九鬼嘉隆が笑う。
「秀政殿、湊を見る時だけ声が弾んでおりますぞ」
「当たり前だ。これが俺の湊になるんだぞ。
九鬼殿とて、ここを自由に使えるのだ。
心躍るだろう?」
「ふ、言うまでもない」
朧は帳面を片手に淡々と報告を続ける。
「船は四十余。廻船問屋は三家。
豪商の顔ぶれは――」
「湊は帳面だけでは分からぬ。
人の顔を見ねばな」
秀政はそう言って、湊の方へ軽い足取りで降りていく。
霞が小声で呟く。
「……殿は完全に楽しんでますね」
九鬼が肩をすくめる。
「戦より湊の方が好きなんでしょうな」
秀政は漁師たちの網を覗き込み、
捕れた魚を見ては「これは旨そうだ」と笑い、
豪商の店先を覗いては「この荷はどこから来た?」と質問し、
湊の子供に手を振られては「おう」と返す。
朧は苦笑しながら帳面に書き込む。
「……殿が楽しそうなのは良いことですが、
こちらは仕事が増えますね」
霞もため息をつく。
「でも、殿が楽しそうだと、
湊の者たちも安心してますよ」
九鬼が頷く。
「確かに。
“この大名なら湊を潰さぬ”と、皆が思っておる」
秀政は振り返り、海風に髪を揺らしながら言った。
「勝浦は良い湊だ。
ここを押さえれば、紀伊は動く。
……面白くなってきたな」
その顔は、
戦場では決して見せない、
心から楽しんでいる男の顔だった。
*
七月十七日。
白漆喰の天守が、まだ新しい木の香りを漂わせていた。
三層の望楼は小ぶりながらも、海風を受けて堂々とそびえている。
信雄は馬上からその姿を見た瞬間、
目を輝かせて叫んだ。
「おおっ……!
これが……俺の新宮城か!」
若い清正は、少し照れたように膝をついた。
「はっ。この加藤清正、
全身全霊をもってして四ヶ月半にて、
三介様の“華ある城”を形にいたしました。
まだまだ未熟ではございますが……どうかご覧くだされ」
信雄は石垣へ駆け寄り、思わず声を上げた。
「おい清正!
この石垣……なんだこの反り返りは!
見たことがないぞ!」
清正は、少し頬を赤らめながら説明する。
「は、はい……。
これは、拙者が考案いたしました“反り石垣”にございます。
まだ試作段階で反るのはごく一部のみ。
形は粗うございますが……
敵が登ろうとすると、
足場が滑り落ちるように角度を付けております」
信雄は石垣に触れ、驚きの声を漏らす。
「粗いどころか……十分すぎるわ!
これは……、むぅ敵は登れんぞ!」
清正は首を振る。
「いえ……まだまだでございます。
石の継ぎ目も甘く、角度も浅い。
もっと高く、もっと鋭く、もっと反らせれば……
“誰も登れぬ石垣”が作れるはずです。
これは……その、試しでございます。
いずれはもっと立派な反り石垣を築きとうござる」
信雄は目を丸くした。
「試しでこれか!
清正、お主……天賦の才を持つか!」
清正は照れ隠しに天守を指さした。
「天守も、殿のご威光にふさわしく見えるよう、
外観だけは立派にいたしました。
中身はまだ質素にございますが……
殿が立てば、誰もが“新宮の主”と認めましょう」
信雄は天守を見上げ、子どものように跳ねた。
「すごい!
俺の城が……俺の城が……
こんなにも立派に……!」
清正は続ける。
「海側の曲輪は、元の地形をそのまま活かしております。
土木の手間は少のうございますが、
敵は海からも川からも近づけませぬ。
殿の城は、限られた予算、短き工期ながら、
これは“落ちぬ城”にございます!」
信雄は清正の肩を掴んだ。
「清正!
お主は……まだ若いのに……
こんな城を作れるのか!」
清正は深く頭を下げた。
「未熟ゆえ、まだまだ改良の余地はございます。
ですが……
いつか、必ずやもっと腕を上げ、
後世五百年にもわたって語られるような城を……
天下に誇れる城を作ってみせます。
この新宮城は、その始まりの城にございます。
この城と三介様の名も末代まで語られましょうぞ」
信雄は胸を張り、満面の笑みを浮かべた。
「よし!
この城は俺の誇りだ!
清正、お主の夢も、俺が背負ってやるぞ!」
信雄がしばし考えた後、したり顔で呟いた。
「我が城が新宮城のような地味な名では恰好が付かぬ。
加藤、お前が作ったこの華がある城に相応しい名を思いついた。
新宮城改め、瑞鶴城と名付けよう」
芸術肌の信雄の美意識があふれ出た名である。
清正が感激して声を漏らす。
「瑞鶴城……白き天守、海に面した城。
これは確かに鶴が如く優雅な城にございますな。
拙者が三介様の瑞鶴城を手掛けた事、誇りに思いまする」
「うむ、加藤よ、あっぱれである。
この瑞鶴城は俺の紀伊支配の象徴となろう!」
潮風が吹き抜け、
稚拙ながらも力強い石垣が、未来の熊本城を予感させるように輝いた。
*
そして九月も中旬となり、防備を固めた紀伊を見て秀政は呟いた。
「そろそろ頃合いか。
明日、俺は岐阜へ発つ。
殿に紀伊遠征の完了を報告して参ろう」




