第百九十七話 不戦の勝利
厚手の陣帳に覆われた本陣は、
外の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
その中央で、足軽姿のままの信雄が、
落ち着かぬ様子で林の帰りを待っている。
膝の上で握った拳が、時折わずかに震えていた。
やがて、外から鉄具の擦れる音が近づいてくる。
ガシャガシャと重い鎧の音――
林だ。
陣幕が勢いよく開き、
林が満面の笑みで飛び込んできた。
兜のバイザーを跳ね上げ、
片手には血の滴る首級をぶら下げている。
「殿ぉ! お待たせしました!!
木本砦、落として参りましたぞ。
これが兵庫助の首にござる!」
ドン、と文机の上に首を置いた瞬間、
信雄の肩がビクリと跳ねた。
「ひ、ひぃ!?
み、見事だったな、林」
「はっ!」
林は褒められた嬉しさを隠しきれず、
にたぁっと笑う。
その様子を横で見ていた秀政は、
鼻で笑いそうになるのを必死に堪えた。
(もしこいつに尻尾があれば、
今頃ブンブン振っておるな。
こやつのあだ名は忠犬、林丸だ)
秀政が一歩進み出て、淡々と報告する。
「三介様。
これで新宮と木本は三介様の直轄領。
勝浦は私が押さえております。
太地と三尾も、すでに三介様に従属いたしました」
信雄は胸を張りつつも、どこか不安げに問う。
「うむ……これだけ取れば、
父上も満足いただけそうか?」
秀政は一瞬だけ考え、内心で呟く。
(微妙な線だな。十分と言えば十分。
石高は大したことはないが、
湊の収入を考えれば紀伊大名を名乗れる。
だが、あと一押しあれば確実か)
「お喜びいただけるとは思いますが……
あと一押しあれば、確実でしょうな」
「そ、そうか……。
どこが安全に取れそうか?」
秀政は信雄の顔を見て、ふっと目を細めた。
「三介様、戦に飽きられましたか?」
「ん? あぁ、まぁな。
べっ、べっ、別に恐れをなしたわけではないぞ」
「承知しております。
そもそも戦など、本来はない方が良いのです。
なぁ、林?」
突然振られた林は、目を白黒させた。
「は? いえ、武士たる者、やはり――」
信雄がすかさず口を挟む。
「百戦百勝、非善之善也。
不戦而屈人之兵、善之善者也。
であるな?」
林は完全に混乱した。
「戦をしてこそ……は……はぁ、
さすが三介様、お、お、仰る通りです!
り、り、六韜でしたかな?」
(おぉ、混乱しておるな。孫子だ。
こ奴は馬鹿だが、見ている分には面白い)
秀政は心の中で肩をすくめた。
「では、一旦新宮に戻りましょう。
林、農兵千を置いていく。
ここは死守せよ」
「は、ははぁ!」
新宮城・改築中の仮居
新宮城は清正の手で大改築の最中で、
仮の居館には木の香りと土の匂いが満ちていた。
信雄が落ち着かぬ様子で秀政に尋ねる。
「秀政殿、今後どうする?」
秀政は柴垣を呼び、石高の確認を促した。
「柴垣殿。
新宮、木本、太地、三尾の石高は?」
柴垣は帳面を開きながら答える。
「新宮は五千石ほど。木本は三千石前後。
太地と三尾は千石にも満たず……
漁業や捕鯨、廻船の利益を合わせて三千石といったところです」
秀政は頷き、指を折って計算する。
「従属地は三割四割徴収するのが関の山。
合わせて一万石ほどか。
だが湊の価値を加えれば二万石弱にはなろう。
ここで三万石だな」
柴垣が渋い顔をする。
「少々弱いですね」
秀政も頷く。
「やはり波田須、二木島、串本も必要だな」
再び帳簿を開きながら柴垣が補足する。
「従属させれば実収入は一万石強。
ようやく四万石といったところでしょう」
信雄が不安げに眉を寄せる。
「これでは父上が喜ばぬか?」
秀政は静かに首を振った。
「四万石あれば十分です。
ここは開発の余地が大きい。
もしお任せいただけるなら、千種屋を使って湊を最大限活かせます。
五万、六万石も夢ではありません。
三介様は開墾を指示してください。
土地は狭いですが、痩せた土地ではございますまい」
信雄の顔がぱっと明るくなる。
「うむ、湊は千種屋に任せる。
我が領土を発展させてくれ」
「承知しました。
では紀伊遠征を終わらせるためにも、
締めとして波田須、二木島、串本を落とさねばなりません」
信雄はげんなりした顔で呟く。
「戦かぁ……」
秀政は微笑んだ。
「いえ。お任せいただけるなら、少々時間はかかりますが、
俺だけでこの三地を降らせてみせます。
手出し無用、完全に任せていただけるのであれば……ですが」
「うむ、完全に任せる!」
「“三介様が雇われた”九鬼水軍も、
自由に使わせていただきますぞ?」
「うむうむ、良きに計らえ」
秀政は深く頭を下げた。
「は!」
秀政控室
九鬼、朧、霞を呼び寄せた。
「ようやく全権委任をいただいたわ」
朧がいつものように微笑みながら頭を下げる。
「おめでとうございます」
九鬼も腕を組んで頷いた。
「で、どうされるおつもりか?
儂は芋粥殿に従えとお達しを受けておる」
秀政は地図を広げ、指で三つの湊を示した。
「今までは駆け足で急ぎすぎた。
ここからは“恐怖”を使う。
霞、伊賀忍びを使って噂を流せ」
「どのような噂を?」
「九鬼水軍が一月後、
新宮のように波田須・二木島・串本を焼き尽くす、と」
霞が無表情のまま、頭を下げた。
「承知」
秀政は九鬼に向き直る。
「九鬼殿は、その準備をしているかのように、
各湾へ船団を見せてくれ」
「承知した」
「恐怖が浸透した頃、そうだな。十五日後にしよう。
朧、お前が芋粥の伝手で降伏を説け」
「はい」
秀政は満足げに頷いた。
「新宮は九鬼に焼かれ、
勝浦、太地、三尾では芋粥によって救われた。
この前例がここで活きる。
元よりこの方法で良かったのだ。
あれが下手にかき混ぜたせいで、ややこしくなったが」
九鬼が笑う。
「だが芋粥殿は勝浦を手に入れた。
結果としては良かったではないか」
秀政も笑った。
「確かにな。南蛮貿易で勝浦はどうしても欲しかった。
得した、得した! ははは。
よし、皆、頼むぞ。これ以上犠牲は要らぬ!」
*
そして――
ひと月も経たぬうちに、
波田須、二木島、串本は、
戦わずして織田家に降伏した。




