第百六十話 戦の後を継ぐ者
播磨からの帰還より、幾日かが過ぎた。
傷は癒えたとは言い難い。
だが、止まっているわけにはいかぬ。
秀政と長政は、まず最初に手を付けるべきことへと向かった。
戦で失った兵の後始末である。
*
伊勢各地。
鬼兵として名を連ねていた者たちの家を、一軒一軒訪ねる。
香典米を持たせる。
それは形でしかない。
本当に渡すべきものは、別にある。
最期である。
どこで戦い、どう戦い、どう死んだか。
それを、将の口から伝える。
それが責務であった。
ある家では、老いた母が静かに頭を下げた。
「……あの子は、役に立ちましたか」
問いは短い。
だが、その内にあるものは重い。
秀政は迷わず答える。
「役に立った。
最後まで列を崩さず、味方を支えた」
それだけで十分だった。
母は深く頭を下げたまま、顔を上げなかった。
涙を見せぬためである。
またある家では、妻がその場に崩れ落ちた。
言葉にならぬ声を上げる。
子がその袖を引く。
何が起きたのか理解していない。
ただ、母が泣いていることだけを感じている。
長政は、その光景から目を逸らさなかった。
逸らしてはならぬと、知っていたからだ。
さらに別の家では、誰も声を出さなかった。
ただ、座ったまま動かぬ。
放心である。
受け入れるには、あまりにも唐突であった。
同じ死でも、受け止め方は異なる。
だが、共通しているものがある。
それは――
一人の兵ではない、ということであった。
誰かの子であり、
誰かの夫であり、
誰かの父である。
代えの利かぬ、一個人である。
それを、嫌というほど思い知らされる。
長政は、帰りの道で言葉を失っていた。
秀政もまた、何も言わない。
言葉にする必要はなかった。
見たものが、全てである。
*
戦の後始末は、死者だけでは終わらぬ。
軍は常に欠ける。
ゆえに、常に埋めねばならぬ。
鬼兵の枠もまた、同じであった。
今回の戦で失われた分を、常備兵の中から補充する。
選ばれるのは、元よりあと一歩で届かなかった者たちである。
力が足りぬわけではない。
ただ、経験と安定が僅かに及ばなかった者たち。
その差は、戦を経れば埋まる。
むしろ、今回の戦を目の当たりにしたことで、
彼らの意識は変わっていた。
鬼兵とは何か。
それは強さではない。
崩れぬことだ。
支え続けることだ。
その意味を、彼らは理解している。
ゆえに、育つのは早い。
すぐに穴は埋まる。
だが――
それで失ったものが戻るわけではない。
あくまで補うだけである。
浅野は並行して、新たな常備兵を雇い入れていた。
戦は続く。
兵を途切れさせぬことが、すなわち戦力である。
新兵は未熟だ。
だが、芋粥の軍は、未熟なまま戦場に出すことはしない。
鍛え上げる。
運ばせる。
作らせる。
支えさせる。
戦の裏を徹底的に叩き込む。
それができて初めて、前に出る資格を得る。
鬼兵とは、その先にあるものだ。
*
この鬼兵に、強い関心を示した者がいた。
福島市松と加藤虎之助である。
両名とも若い。
だが、天性の軍才か。
鬼兵の死線を越えた強さに興味を持った。
ゆえに見物だけでは終わらなかった。
「中に入れてくれ」
そう言って、鍛錬の列へと入る。
止める理由はない。
長政もまた、特別扱いはしなかった。
初めの数合で差が出る。
市松は強い。
だが、前に出すぎる。
虎之助は崩れぬ。
だが、押し切れぬ。
どちらも一人で戦っている。
鬼兵の中では、それでは噛み合わぬ。
だが――
長政は口を出さない。
代わりに、自ら前に入った。
左右に兵を置く。
一歩踏み込み、止める。
半歩引き、受ける。
その動きに、市松と虎之助が自然と合わせる。
言葉はない。
だが、動きが合う。
三人で一つの流れになる。
市松が押す。
長政が受ける。
虎之助が繋ぐ。
その循環が崩れない。
「……なるほどな」
市松が息を吐く。
理解したのは、技ではない。
戦い方の前提である。
虎之助も小さく頷く。
「一人で勝つ場ではないな。
ここは、崩れぬことが勝ちだ」
長政はそこで初めて口を開いた。
「そうだ。
崩れなければ、勝てる。
俺も最初は分からなかった。
だが――
戦に出て嫌というほど知った」
短い言葉であった。
だが、三人の認識はそこで揃う。
*
それからは早かった。
市松は踏み込みを抑える。
無駄に出ない。
虎之助は受けに徹しない。
押し返す瞬間を逃さない。
そして長政は、それを見て調整する。
三人とも、役割を固定しない。
状況で入れ替わる。
誰かが押せば、誰かが支える。
それが自然にできる。
*
軍事演習でも同じであった。
模擬戦の中で、三人は馬上から鬼兵の動きを追う。
若い二人は兵を率いたことがない。
自らの意志で兵が動く。
言い換えれば、自らの失策で兵が死ぬ。
この場で学ぶことは“将として統率”である。
長政はあえて口を出さなかった。
市松と虎之助に任せる。
「市松殿、虎之助殿、やってみるか?」
それだけである。
「おう!」
市松が前に出る。
虎之助がそれを支える形で布陣する。
鬼兵は従う。
だが――
噛み合わない。
相手は浅野である。
黒鬼兵が静かに動く。
押さない。
だが、引かない。
市松が圧をかける。
前へ出る。
黒鬼兵は半歩下がる。
追う。
その瞬間、左右が閉じる。
「……っ!」
気付いた時には遅い。
横を取られる。
虎之助が支えに入るが、既に形が崩れている。
前に出た分だけ、深く入っている。
退けない。
押し返そうとすれば、さらに包まれる。
動けば動くほど、絡め取られる。
「参った」
市松が歯噛みしながら宣言した。
*
二度目。
今度は虎之助が主導を取る。
無理に攻めない。
距離を保つ。
崩れを待つ。
だが、崩れない。
黒鬼兵は動かぬ。
いや、動いている。
前に出ず、後ろにも引かず、
位置だけをずらす。
圧だけが変わる。
気付けば、じわじわと外側へ押し出されている。
「……囲まれているのは、こっちか」
虎之助が低く呟く。
その通りであった。
押していないのに、位置が悪くなる。
形が削られていく。
「かかれ!」
急遽、浅野の黒鬼兵が襲いかかった。
多方面で状況が動く。
どこが有利でどこが不利か。
考えることが多い。
その考えることを一つでも減らすために、
先手を打つ、有利な立場を作る。
浅野はそれを積み重ね、虎之助はただ時間を使った。
「参った」
二人とも、言葉に力がなかった。
*
浅野は馬上で静かに一礼する。
「無理に勝とうとされましたな。
それでは形が崩れます。
まずは勝てる形を作る。
状況の判断も必要、また読み合いも必要」
責める口調ではない。
事実を述べただけである。
市松が舌打ちする。
「分かってはいる。
だが、崩せねぇ」
虎之助も頷く。
「守りが固いのではない。
崩れぬ」
その言葉に、長政が初めて口を開いた。
「それが将の差だ。
それには将器もあれば、場数を越えた経験もある。
市松殿、虎之助殿。
貴公らの器は俺よりも大きい。
だがな、一日の長がどれほどか見せてやる」
*
三度目。
長政が手綱を握る。
指示は少ない。
だが、全てが意味を持つ。
「前へ出るな」
まず止める。
市松が眉をひそめる。
だが従う。
黒鬼兵は動かない。
待っている。
「まだだ」
長政は動かない。
圧だけを見る。
どこが強いか。
どこが薄いか。
兵ではなく、流れを見る。
やがて――
一瞬、浅野の列が動いた。
わずかな前進。
その裏で、側面が遅れる。
「そこだ」
短い命令。
市松が踏み込む。
虎之助が外を回る。
深追いしない。
追わせる。
黒鬼兵が反応する。
前を支えに来る。
その瞬間、逆が空く。
「回れ」
既に動いている。
一歩先に。
気付いた時には、形が反転していた。
押されているのは、黒鬼兵であった。
逃げ場はない。
囲んでいる。
浅野が槍を下ろす。
「参り申した」
静かに告げる。
「さすが、若。
いくさ場で随分、鍛えられましたな」
*
市松と虎之助が、同時に息を吐いた。
目が変わっている。
「……今のは何だ」
市松が問う。
長政は簡潔に答える。
「攻め時と、耐え時だ」
それだけである。
だが、意味は重い。
虎之助が深く頷く。
「ただ先に動いたのではない。
耐え時に場を捉え、攻め時が来たから動いた……」
長政は否定しない。
その通りだからだ。
*
市松が槍を握り直す。
「浅野殿」
浅野が顔を上げる。
「もう一勝負、頼む」
虎之助も続く。
「今のままでは終われぬ」
浅野はわずかに笑った。
「よろしい。
何度でも参りましょう」
長政は何も言わない。
だが、その目は満足していた。
この二人は伸びる。
戦場で通じる。
そして――
同じ場で戦うことになる。
そう確信していた。
*
一方で、槍働きとは別の戦も動いていた。
秀長である。
姫路から伴った秀長は、休む間もなく南條と木曾の元へ入った。
目的は明確である。
芋粥の根幹――農政の吸収。
区画を切り、地を均す。
水を制し、流れを作る。
そこに数字が入る。
統一された升。
曖昧であった量を、正確に測る。
これだけで徴収も分配も変わる。
さらに肥料。
現代知識を元に組み上げた配合は、
従来の経験則を一段引き上げる。
二毛作。
土地を遊ばせぬ発想。
収穫は単純に倍にはならぬ。
だが、確実に増える。
治水設計。
水は恵みであり、災いである。
それを制御する。
農具の改良。
一人あたりの作業量を引き上げる。
どれも単体では決定打ではない。
だが、積み上げれば国が変わる。
秀長は、それを一つ一つ噛み砕いていった。
理解するためではない。
持ち帰るためである。
この施設団の中には木村常陸介や増田長盛、片桐且元、藤堂高虎などが
秀長の家人として同行していた。
これら者たちは、史実では後に名君・名宰相と呼ばれる面々たちである。
その若き日に、鈴鹿で芋粥の内政術を目の当たりにした。
ここで得た知識は秀長はじめ、
史実における後の豊臣政権を支える、優秀な彼らに計り知れぬ影響を与えた。
*
入れ替わるようにして、二人が伊勢を発った。
朝明郡の郡奉行、市川雄一郎。
三重郡の郡奉行、杉野考太郎。
それぞれ南條と木曾の弟子筋にあたる者である。
単なる技術ではない。
運用を知る者。
現場で回せる者。
それが選ばれていた。
芋粥においては、役を持つ者は例外なく後継を育てる。
一代で終わらせぬためである。
ゆえに、市川と杉野が抜けても、
郡は止まらない。
痛手は小さい。
だが――
羽柴にとっては違う。
南條と木曾の知見を、形として引き継いだ者が入る。
それは、単なる模倣では終わらぬ。
理解した上での展開になる。
徳川がそうであったように、
外から取り入れ、内で回す。
それができた時、国は変わる。
羽柴は、確実に一段上がる。
戦は、兵だけで決まらぬ。
国力で決まる。
そして国力とは――
積み上げたものの総量である。




