第百五十八話 戦後の勘定
姫路城。
血の匂いと土の臭いを纏ったまま、
芋粥軍は一足先に城内へ入っていた。
城内に満ちるのは、勝利の安堵ではなく、
損耗の重さであった。
鬼兵の数は明らかに減っている。
農兵に至っては、列そのものが痩せ細っていた。
戦は終わっても、戦の結果は残る。
その事実を、誰もが理解していた。
*
やがて、城外に再び土煙が立つ。
羽柴軍の帰還であった。
必要な礼を尽くすために門前に出迎えた。
それだけであった。
門が開く。
先頭の騎馬から、一人の男が姿を現す。
羽柴秀吉。
秀政の姿を認めた瞬間、
秀吉は馬上で手綱を引き、勢いよく飛び降りた。
そのまま歩み寄る。
いや、歩み寄るというより、踏み込んでくる。
「おぉ、芋。久しいな!」
声は明るい。
だが、その目は戦場帰りのそれであった。
「秀吉、お前も無事で何よりだ」
応じる秀政の声は平坦である。
労いではない。
確認である。
秀吉は構わず続ける。
「いや、お前が囲まれとると聞いて、儂は気が気ではなくてな。
褌を履き忘れるほど慌てて急行したのだぞ!」
軽口である。
だが、秀政の表情はわずかに曇る。
(よく言うわ)
内心の評価はそれで終わる。
だが秀吉は、その視線を意に介さぬ。
距離を詰め、両肩を掴んだ。
力が入っている。
芝居ではない。
だが、計算は入っている。
「九死に一生を得たな!儂のおかげで命拾いしたぞ」
「お前が手薄にした姫路を代わりに守ってやったぞ」
秀吉と秀政が同時に口を開き、
自分の恩を売りつける。
二人とも目を丸くする。
「いやいや、お前、わしが出向かねば今頃死んでおったろうに」
「いやいや、お前、俺が出向かねばそもそも姫路は毛利の物だ」
再び二人が同時に恩着せがましく言う。
沈黙が一瞬だけ生まれる。
だが、それは対立ではない。
呼吸である。
「……もうその辺にしておけ、兄者」
横から入った声が、それを断ち切った。
秀長である。
苦笑を浮かべながらも、視線は冷静であった。
秀吉と秀政が、同時にその方を見る。
そして――
笑った。
「「お前のおかげで助かった」」
今度は同じ言葉を重ねる。
だが、先ほどとは違う。
これは終わらせるための言葉である。
互いに理解している。
ここでこれ以上やれば、
ただの子供の張り合いになる。
だから引く。
だが、譲ったわけではない。
*
秀吉が腕を組む。
そのまま、城内の様子を見回しながら言った。
「芋、お前のおかげで姫路は押さえられた。
此度は織田の勝ちだ」
断定である。
戦の評価を、まず確定させる。
「これでしばらくは、播磨の国人も揺れる。
どちらにも付かぬ以上、補給線は確保できる」
戦術ではない。
政治の話であった。
秀政も頷く。
「あぁ、そうだな。
その間に、お前なら周りを切り崩せる」
これは評価である。
そして同時に、仕事の押し付けでもある。
秀吉はそれを笑って受けた。
「時間さえあれば、容易いことよ」
軽く言う。
だが、その中身は重い。
続けて、視線を戻す。
「それにしても……
まさか毛利がお前を狙いに来るとはな。
名を上げたな」
「……少々、目立ち過ぎたようだ」
自覚はある。
だが、それを悔やんではいない。
結果として、狙われた。
そして予測できなかった。
それだけである。
秀吉が肩をすくめる。
「まぁ、ゆっくり休め。
――もう戦えまいな。伊勢に帰るのだろう?」
確認ではない。
読みである。
秀政は否定しない。
「あぁ。
想定以上に痛手を受けた」
事実である。
数字は口にしない。
だが、双方とも理解している。
鬼兵の損耗。
農兵の壊滅。
あれを見れば、誰でも分かる。
秀吉はわずかに視線を落とした。
「……すまんかったな」
短く言う。
「正直に言うが、出陣が遅れた。
毛利の動きが儂らを誘い出しているようにしか見えなんだ。
本来なら救援すら出れぬところであった。
礼は官兵衛に言え」
「ん?」
「こ奴の諜報力は馬鹿にできん。
即時、毛利の動きを多角的にとらえ、
取捨選択して正しく把握した。
ゆえに芋、お前の救援に全力を注げた」
黙って控えている官兵衛に秀政が目をやる。
「小寺官兵衛孝高、よく知っている。
天下一の知恵者よな。
お前にはもったいないほどの男だ。
いや、お前だからこそ使える男かもしれないがな」
「買いかぶりすぎです」
官兵衛が静かに反論するが、秀吉はそれを無視して続けた。
「なんじゃ、お前もこいつに目をつけとったか。
もう儂のもんじゃ。やらんぞ。
とにかく、お前には血を流させてしもうた」
だが、それで終わらせない。
「帰りの米は用意しておく。
それと、お前の兵は荼毘に付した。
陣僧に弔わせてある」
事務処理である。
だが、必要な配慮でもあった。
秀政は静かに頷く。
「かたじけない。
奴らは俺が那古野城代の頃からの兵だ」
一瞬だけ、間が空く。
「……死なせてしまった」
言葉は短い。
だが、重い。
秀吉はすぐに返す。
「無駄ではない」
断言である。
「西の包囲に、一石を投げ込んだ。
ここから織田が押し返す」
戦の意味を与える。
死に意味を与える。
それは、武将の務めであった。
秀政もそれを否定しない。
「あぁ。
お前の働き次第で、大きく動く」
秀吉は笑う。
「殿にはお前に助けられたことも、ちゃんと伝えておくでな」
その言葉に、秀政は視線だけを流した。
(嘘をつけ)
思うだけで、口には出さぬ。
ここで否定しても意味はない。
言った者のものになる。
それが戦国の論功である。
*
秀政は軽く息を吐いた。
「今日は休む。
三日後には発つ」
それで話を切る。
秀吉も追わない。
「あぁ。ゆっくり休め」
それだけで終わる。
互いに背を向ける。
だが、その背中は語っていた。
この戦は終わった。
だが――
お互いの次の戦はすぐに来る。
*
姫路城奥の間。
そこで交わされる言葉は、
戦場と同じ重さを持つ。
秀吉は胡座をかき、
向かいに座る秀長を見据えていた。
「……ちょうどええ所に芋が来たな」
ぽつりと落とす。
軽いようでいて、計算の入った声である。
「小一郎。お前、伊勢へついて行け」
唐突であった。
だが秀長は驚かない。
ゆっくりと顔を上げる。
「あれのことか」
「ああ」
即答である。
秀吉は続ける。
「徳川は、芋の農政の仕組みを盗んだ」
言い切る。
評価ではない。
断定であった。
「三河、遠江、駿河。
あの三国にそれを布き、地盤を固めた。
結果はどうだ。
百万石だ」
指を折るように、言葉を積む。
「もはや徳川は、織田の中でも無視できぬ。
あれは“力”を持った」
秀長が小さく息を吐く。
「百万石、か。
そりゃあ、すげぇな」
素直な感想であった。
だが秀吉は、そこを流さない。
「噂では、隣国の立場を利用して、
民を使い吸い上げたらしい」
視線が細くなる。
「上手い事やったもんじゃ。
だが、それで芋も警戒しておろう。
今は探るのは難しい」
秀長もまた、言葉を継ぐ。
「……だが、羽柴もやらねばならん。
このままでは、立ち行かんぞ。
領地は細い。
兵も銭も足りぬ」
現実であった。
「だから行けと言うんだな、兄者」
「そうじゃ」
秀吉は頷く。
だが、すぐに釘を刺す。
「ただし――
欲しがっておると思われてはならん」
ここが肝である。
「足元を見られる。
あいつは銭にうるさい」
秀長が苦笑する。
「ああ、確かにな。
何を吹っかけてくるか分からん」
秀吉はわずかに肩をすくめる。
「だからな。
ふと思いついたかのように、
成り行きでついて行け」
「……無理があるじゃろうて」
秀長は率直に言う。
「芋粥殿には、素直に頭を下げた方が早いのでは?」
だが秀吉は首を振る。
「それでは駄目じゃ。
“欲しがっている”と悟られる」
丸投げする。
「上手くやれ」
命令は、それだけであった。
*
二日後。
出立を前にした姫路城。
「おう、芋、明日には発つか」
秀吉が軽く声をかける。
「ああ。世話になった」
秀政は簡潔に返す。
やり取りは短い。
それで十分であった。
「もう少し手伝って貰いたかったが仕方ねぇの。
気を付けていけよ」
そこへ――
秀長が、ふと口を開いた。
「なぁ、兄者。俺も一回伊勢に行っていいか?」
「何言っとる、小一郎。
これから忙しくなるのに、遊んでくる気か?」
「いや……そういうわけではないが」
歯切れが悪い。
演技である。
だが、やや粗い。
秀吉が唸る。
「むぅ……」
わざとらしく考える。
「普段我儘言わんお前の頼みじゃ。
叶えてやりたいのは山々じゃがなぁ……」
そのやり取りを、秀政が見ていた。
やがて、頭を掻く。
「……おい」
一言で割って入る。
「茶番はよせ」
空気が変わる。
秀吉が目を細める。
秀政は続けた。
「なんだ、お前も徳川殿のように俺の農政を猿真似する気か?
猿だけに」
「こら、芋。
上手い事を言った顔をするな」
すぐに言い返す。
「別に小一郎が見たい言うとるだけじゃ」
「そうか」
秀政はあっさり引く。
「ならば、小一郎殿、諦められよ。
秀吉がそう言っておる」
秀長が苦笑する。
秀吉が即座に乗る。
「あー、待て待て、芋」
声が少し低くなる。
「お前も性格が悪い奴だなぁ」
本音が混じる。
「羽柴は国が細い。
友なら助けてやろうとは思わんのか?」
踏み込む。
秀政は間を置かず返す。
「ただでか?」
即答であった。
秀吉が困った顔で両手を広げる。
「儂にはお前にやれるもんがないんじゃ!」
開き直りである。
そこで、話は一度終わりかける。
だが――
秀政が、黙って考え込んだ。
*
「……俺は伊勢に戻れば」
ゆっくりと口を開く。
「殿から、滝川殿の与力を命じられるだろう。
おそらく次は武田攻めだ」
状況を提示する。
秀吉が頷く。
「ははっ。
殿の目に留まる働きをした証やな」
だが、秀政は続ける。
「……だが、兵を率いる将が足りん」
秀吉の顔がわずかに変わる。
「将が足りん、か」
「そうだ」
断定である。
「浅野も鷺山も優秀だ。
だが、それだけだ」
言い切る。
「軍団を任せられる若手がいない」
そして核心。
「俺の軍は“技”と“兵站”は強い。
だが、“武人”が足りん」
秀吉が腕を組む。
「……で、何が言いたいんや」
秀政は一切濁さない。
「小一郎を預かり、教育するのは構わん。
だが対価がいる。
――若手の武人を貸せ。期間で良い。」
秀吉が即座に反発する。
「軽う言うな!
将は儂の宝やぞ!」
秀政は平然と返す。
「死なせたら、すまんな」
「軽う言うな言うとるやろ!!」
怒鳴る。
だが、それでも話は止まらない。
「だが貸せ」
秀政は押す。
「福島でも、加藤でもいい」
名前を出す。
「お前の若手は、戦場で暴れるために生まれたような連中だ。
うちで預かれば、必ず強くして返す」
秀吉が黙る。
計算が走る。
「……待て」
ゆっくりと口を開く。
「あんな小童どもでええのか?」
疑念ではない。確認である。
「小一郎を預ける以上、何かは払うつもりやったが……」
秀政は短く返す。
「どうだ。乗るか?」
沈黙。
そして――
「……分かった」
秀吉が決断する。
「市松と虎之助。
期間で貸したる」
低く言う。
「死なせたら承知せんぞ」
「決まりだ」
秀政が笑う。
だが、その瞬間。
「待て」
秀長が割って入った。
空気が再び止まる。
「芋粥殿。
少々、吹っかけ過ぎではないか」
静かな声である。
だが、芯がある。
秀吉が驚く。
「小一郎?」
秀長は続ける。
「農政の知見は確かに欲しい。
だが――市松と虎之助では割に合わぬ」
言い切る。
「奴らは小童だが、いずれは大名になれる器だ」
秀政が目を見開く。
そして――笑う。
「ははは……なるほど」
楽しげであった。
「小一郎殿も見抜いたか」
すぐに頷く。
「同感だ。
あいつらは大名にもなれる器だ」
秀吉もすぐに何事もなかったかのように乗る。
「芋、割に合わぬ。もう少しお前も手札をだせぃ」
流れが変わる。
秀政は肩をすくめる。
「調子のいい奴め」
だが、引く。
「分かった」
条件を重ねる。
「小一郎殿には、我が芋粥流を教える。
だが時間がかかる」
ここで畳み掛ける。
「福島と加藤を貸してくれるなら、
こちらも南條と木曾の弟子を遣わそう」
交換条件である。
「市川と杉野というのが居る。
若いが郡奉行を任せても、十分に成果を出している。
即戦力の文官だ。
それならば、すぐに羽柴でも農政改革に取り組める」
秀吉の顔が明るくなる。
「おぉ、それは良い」
思い出したように言う。
「芋、昔言うとったな。
南蛮の言葉で何とか……」
秀政が短く答える。
「ウィン・ウィンだ」
秀吉が笑う。
「おぉ、それやそれや」
満足げに頷く。
「これで羽柴は肥える。
芋粥は戦に備えられる」
「……あぁ」
秀政も応じる。
「明日発つ。
福島と加藤には準備させておけ」
すでに話は終わっている。
「こちらも文を伊勢へ送り、
市川と杉野に今から引き継ぎをさせておく」
秀吉が頷く。
「頼むぞ」
戦は終わった。
だが――
彼らの次の戦の準備は、すでに始まっていた。




