第百五十六話 餌となる兵
飾磨の海沿いの平地に、
絶え間なく続いていたざわめきが、
ふと質を変えた。
それは風でも波でもない。
槍と槍が擦れる音とも違う。
敵陣の奥から、何かが走った。
伝令である。
声は届かぬ距離。
だが、それが何を意味するかは、動きが語る。
次の瞬間、毛利方の列が一斉に変わった。
それは合図であった。
*
最初に変わったのは、目である。
これまでの国人衆は、
押されれば止まり、危うければ引く。
数に任せて前へ出るが、死を好む兵ではない。
だが今は違う。
恐れが消えている。
代わりに宿ったのは、明確な欲であった。
勝ちではない。
功でもない。
「狩る」という意思である。
鷺山はその変化を即座に読み取る。
「気を付けよ。
敵の質が変わった。
来るぞ……!」
声が落ちる。
その直後であった。
敵が一斉に押し寄せる。
これまでの押し合いとは明らかに違う。
命を惜しまぬ動きではない。
狙っている。見定めている。
弱った者を、崩れた箇所を、遅れた一歩を。
それは、まるで捕食者の群れが獲物を追い立て、
弱みを見せる者を探り出すかのようだった。
視線が走る。
列ではなく、人を見ている。
*
青鬼兵の列が、わずかに揺れた。
密集は崩れていない。
だが、敵の狙いが変わっている。
これまでの敵は列を押した。
だが今は違う。
「個」を狙っている。
前列の一人が、半歩だけ体勢を崩した。
その瞬間、狙いが定まった。
五人、六人が同時に殺到する。
合図などない。
しかし、動きは一致していた。
青鬼兵は反射的に連携する。
左右が支え、槍が差し込まれる。
敵は刺し貫かれる。
だが――止まらない。
倒れた仲間を踏み越え、
さらに後ろから押し寄せる。
恐れがない。
いや、違う。
恐れよりも欲が勝っている。
遂に、押し返しきれぬ一瞬が生まれた。
五人が、体勢を崩した一人へ同時に襲いかかる。
支えに入る隣の者も、その一瞬だけは手が回らない。
狙われた一人は、複数の槍に貫かれた。
周囲の青鬼が即座に敵を刺し貫く。
だが、その間に遺体が引きずられる。
持ち去られる。
青鬼兵の目に、初めて明確な恐怖が宿った。
この動きは一点では終わらない。
武器が折れた者。
足を取られた者。
息が上がった者。
至る所でその全てが標的となる。
仲間の援護は間に合わぬ。
刺され、崩れ、引きずられる。
列はまだ保っている。
だが、その内側で確実に削られていた。
「……俺達が、狙われている……」
青鬼兵の一人が、遂に声を震わせる。
事実であった。
これまで彼らは狩る側であった。
主を守り、敵を押し崩す側であった。
だが今は違う。
三倍を超える敵に囲まれ、
常に押し寄せられる中で――
自らが獲物に変わっている。
青鬼兵にとって、初めての状況であった。
狩る側から、狩られる側へ。
その認識が広がる。
一人が守りに入る。
また一人が余裕を失う。
最も弱い箇所から、順に削られる。
*
この変化は、後衛にも波及していた。
赤鬼兵の側でも同様に狙われる。
だが、こちらは兵差が小さい。
七百五十に対して二千。
そして一人一人が圧倒的に敵に対して力量が勝る。
圧倒ではない。
ゆえに被害は集中しない。
結果として、損耗は前面の青鬼に偏る。
戦場全体の圧は、前へ集まっていた。
*
「勇気を出せ!
今まで通り支え合え!
それが最も生き残る!」
鷺山の声が飛ぶ。
理は正しい。
だが、間に合わぬ。
恐怖は理屈より早い。
秀政も嫌悪感を露わに青鬼の遺体に群がる敵を撃ち倒す。
「皆、怯えるな!
お前達は鬼であろう!
地獄の光景など珍しくはないはずだ!」
秀政の鼓舞ですら届かない。
青鬼兵の列に、初めて明確な“穴”が生まれた。
即座に後列が詰める。
農兵である。
槍を差し出し、列の綻びを埋める。
だが――
ここで、もう一つの変化が生じる。
*
引きずられた青鬼の遺体。
それに群がる国人衆。
首を掻く。
だが、首は一つしかない。
五人、六人が奪い合う。
掴み合い、押し合い、怒鳴り合う。
これは異常ではない。
戦国において、首級は曖昧である。
誰が討ったか。
どの首か。
証は何か。
確実な基準など存在しない。
ゆえに、奪い合いは常であった。
討っていない者が名乗る。
横から奪う。
首の代わりに武具や別の部位で証明する。
そして――
首が取れぬ者は、次を探す。
今回は鬼兜首が功の対象だ。
鬼鎧は立派な証となるが、首が必要だ。
ここで、思考は一つに収束する。
代用。
鬼の証を持ち、
首を持たぬ者が見る先は――
農兵であった。
*
一人の農兵に、複数の国人が襲いかかる。
槍を差し出していた手が、引き裂かれる。
抵抗する術はない。
農兵は戦うための兵ではない。
支えるための兵である。
青鬼兵は助けられない。
そこへ手を伸ばせば、
自分たち青鬼に隙が生まれる。
その一瞬で、自らが斬られる。
首だけではない。腕も足も斬り裂かれる。
選択はない。
青鬼兵は守りに徹した。
農兵が次々と討ち取られていく。
だが、それで列が薄くなる。
槍の供給が滞る。
支えが減る。
青鬼兵の負担が増す。
この流れは明確であった。
本来、鬼兵への懸賞策によって、鬼兵が狙われる。
それは時間とともに指数関数的に損耗を増やす策である。
だが、今は予想もしない展開に陥った。
農兵が先に狙われることで、
鬼兵の損耗は劇的に抑えられている。
だが、それは全く楽観できるものではない。
遅れて崩れる。
農兵という、支えが削られている。
つまり――
時間の問題であった。
「……まずい」
鷺山が息を呑む。
敵は理解している。
弱りを見つける。
隙を突く。
奪えるものを奪う。
このままでは、
いずれ鬼兵そのものが崩れる。
秀政も、長政も、同じ未来を見ていた。
だが――
その未来が確定する前に。
戦場の空気が、もう一度変わった。




