第百五十五話 鬼兵の危機
青鬼兵は、狭道の左手に連なる丘陵を捨て、
海沿いの平地へ降りていた。
本来であれば高所を取る方がよい。
上から押し下ろせば槍は届きやすく、敵は登るだけで息が上がる。
守るだけなら丘は有利だ。
だが、此度はそうはならなかった。
丘に籠れば、正面の道が空く。
そうなれば毛利勢はそのまま本陣に迫り、前後の連絡は寸断される。
しかも前後から押される今の形では、
丘の上の兵を一部だけ遊ばせる余裕がない。
ゆえに鷺山は、高所の利を捨ててでも道を塞ぐ方を選んだ。
それは守勢としては苦しい。
だが、苦しい方を取らねば全体が崩れる局面であった。
青鬼兵は平地に降りると、互いの肩が触れ合うほど密に並んだ。
前列と後列の間も詰める。
槍を振り回す間合いより、押し返し、支え合う間合いを優先する布陣である。
一人が動けば隣が揺れる。
その揺れを逆に使う。
前へ出る者がいれば左右の二人が同時に支え、
押される者がいれば後列が背に肩を入れて耐えさせる。
その陣形は、板のようであった。
一枚一枚の板は細い。
だが隙間なく組めば、人の体もまた壁になる。
敵が二人、三人と同時に迫っても、
青鬼兵は常に二対一の形を崩さない。
一人が正面を受ければ、斜め後ろの者が肩で支え、
もう一方が横から槍を差し込む。
押し返す動きは乱暴ではない。
むしろ淡々としている。
足を踏み込み、腰を入れ、敵の体勢が浮いた瞬間だけ強く押す。
倒した後に追わず、すぐ元の位置に戻る。
敵は次から次へと詰めてくる。
だが青鬼兵の列もまた、次から次へと前へ詰める。
前列が半歩押し返せば、後列が即座に肩を入れ、
その半歩を一歩に変える。
誰かが膝を折りかければ、左右が支える。
まるで呼吸のように自然であった。
「二人で一人を止めよ!
隣を見よ、離れるな!」
鷺山の声が馬上から平地へ走る。
命令は簡潔だが、意味は重い。
密集陣は一人の強さでは持たぬ。
隣との連携だけが命綱となるからだ。
毛利方は数で押す。
だが狭道では横に広がれない。
前から来る列は細く、
後ろの兵は前の兵を押すことしかできぬ。
押し寄せる列そのものを相手にしているようなものだった。
前を斬っても次が来る。
押し返しても次が来る。
その波は途切れない。
だが青鬼兵もまたそれを弾き続ける。
互いの肩、肘が常に触れている。
一人が揺れれば、全員がその揺れを吸収する。
個ではなく塊として戦っていた。
敵にとっては鉄壁であり、
味方にとっては盤石な土台である。
鷺山は馬上からその動きを見下ろし、
静かに息を吐いた。
「……よし。
まだ崩れぬ。
この密度なら、持つ」
だが視線の先には――
果てしなく続く敵の列があった。
押し返しても押し返しても、
その後ろにはまだ兵がいる。
国人衆は死を嫌う。
だが、数に任せて前へ出るだけならできる。
押し返される前提でも、
後ろから押されれば前へ出るしかない。
鷺山は矢を番え、放つ。
密集している敵には当たりやすい。
ないよりはまし、という程度の効果ではある。
だが削れるものは削るしかない。
これだけ密集していると、逆に敵は弓を撃てない。
前列に当たる。
味方を射る。
だから槍で押すしかない。
だが、それは何ら不都合ではない。
元より数を頼みに、大波のように迫るしかない。
青鬼兵は今、大軍という波そのものと戦っていた。
それでも密集は崩れない。
互いに支え合い、補い合い、押し寄せる槍を受け流し続ける。
青鬼の名は伊達ではなかった。
勇猛であるだけではない。
実戦の中で崩れぬよう鍛えられてきた兵の集まり、
それが青鬼兵である。
*
本隊に連れてきた農兵五百も、
前後に二百五十ずつ分かれて前線のすぐ後ろに控えていた。
彼らは突撃のための兵ではない。
だが、戦場の歯車として確かに組み込まれていた。
前列の鬼兵の槍が折れれば、
農兵がすぐに新しい槍を差し出す。
疲れた鬼兵が半歩下がれば、
その隙間に農兵が入り、
槍だけは前に出して列の綻びを埋める。
鬼兵が戻れば、農兵は自然に列を譲る。
誰かに教えられたわけではない。
だが、那古野の頃から兵站と工兵を重んじ、
戦では後ろの働きこそ、
命を繋ぐと見せ続けてきた芋粥軍において、
彼らはそれを身で覚えていた。
生き残るために、戦の流れに適応していたのである。
その様子を見ながら、秀政は鷺山の傍へ馬を寄せた。
「殿?!」
驚く鷺山に対し、秀政は短く返した。
「今は一兵でも要る。
俺も戦う。
長政には村瀬を送り込んである」
その言葉に、鷺山は息を整えながら深く頷く。
「殿がおられるだけで、
兵の士気は上がります」
「そうだと良いがな」
秀政の馬具は、ジョアンの進言で用意させた南蛮鞍である。
前後の鞍橋が高く、鐙も踏み込みやすい。
和鞍より姿勢が安定し、馬上で身を捻っても崩れにくい。
芋粥の馬には鉄砲を慣れさせてある。
こういう時に利が出る。
持ち込んだ鉄砲と弾薬を全て運ばせた。
装填役の農兵が、次々と火縄銃に火薬と弾を詰めていく。
秀政は受け取った銃を肩に当て、狙いを定めた。
狙うというほどのものではない。
この距離、この密度では、外す方が難しい。
ズドン。
反動が肩に来る。
だが南蛮鞍が体を支える。
すぐに次の銃が差し出される。
秀政はそれを受け取り、また撃つ。
ズドン。
(ジョアンに習っておいてよかった。
俺に射撃の才はない。
だが、この距離、この密度なら話は別だ)
ズドン。
持ち込んだ鉄砲は十七挺。
数としては決して多くない。
だが農兵でも落ち着いて装填すれば、
一挺一挺の装填に時間がかかったとしても、
連射のように撃ち続けることはできる。
一挺ごとの威力ではなく、途切れぬ音と煙が効く。
秀政は火縄の火を確かめながら、
低く言い放った。
「弾と火薬の続く限り、撃ち尽くしてやる」
それは戦況を決める決定打ではない。
だが、鉄砲の音と煙、
そして大将自らが前線で撃っているという事実は、
青鬼兵の士気を確かに押し上げていた。
鬼兵は前列で敵を押し返しながら、
背後で響く銃声に呼応するように動きを強める。
まるで軍太鼓で鼓舞されるかのように。
自分たちは前へ出ている。
大将は後ろに引かず、同じ場で戦っている。
その認識が、兵を奮い立たせる。
鷺山はその様子を見て、静かに呟いた。
「……殿が前に立てば、鬼は燃える」
戦場の空気が、確かに変わっていた。
だが、それで数が消えるわけではない。
秀政は表情を変えないまま、
前へ押し寄せる敵の列を見つめていた。
(数の暴力は重い。
鉄砲十七挺でどうにかなる差ではない)
だからこそ、今は“持たせる”しかない。
ここで崩れぬことに意味がある。
戦場で最も危険なのは、敵の勢いではなく、
味方が崩れる瞬間だからだ。
そして少しでも新たな動きがあった際に、
迅速に動く必要があるのだ。
*
一方、後衛でも、迫りくる二千を、
わずか七百五十で受け止めていた。
長政がぎりぎりの所まで前線に出る。
声を張る。
最前線の兵がそれを聞く。
将が見える場所、鼓舞が聞こえる場所にいるだけで、
列は崩れにくい。
村瀬は無駄のない動きでその前列を支え、
必要最少の一手で敵を仕留めていく。
無理に踏み込まず、だが引かない。
最も危険な槍先だけを外し、最も脆いところだけを瞬時に断つ。
その腕は一切の衰えを知らない。
村瀬のような兵法者が前にいるだけで、
列の安定はまるで違った。
その背後では青鬼隊と同じく、
二百五十の農兵が槍の交換や列の綻びを埋めている。
彼らは名も無き農兵だが、今この場では鬼兵を支える骨組みであった。
長政は挟撃という危機に面しても焦らない。
一瞬でも早く、この死地を逃れたいと――
普通の将は考える
だが、ここで焦って押し返そうとすれば、
この絶妙な均衡は一瞬で崩れる。
後衛もまた細い道で戦っていた。
押されると危うい。
だが、無理に押してはもっと危うい。
凡将であれば、
この包囲に穴を開けようと、
ここで焦って前へ突出しただろう。
数で呑まれる前に一撃を入れねば、
と短慮したかもしれぬ。
だが、長政は死地にあっても、勝つための速度を守る。
今は削る時であり、崩す時ではないと知っていた。
「焦るな。
倍の敵など恐れるに足らぬ。
焦りこそが敵と思え。
落ち着いて、確実に前を削れ」
その声は、後衛全体に落ち着きをもたらす。
大将が声を荒げず、恐れも怒りも表に出さぬ時、
兵はそれだけで持つ。
(義父上……鷺山……。
もう少しだけ耐えてください。
必ずや、ここに穴を開けてみせます)
長政は槍を構え直し、迫りくる敵の列を見据えた。
その眼差しには揺るがぬ芯がある。
若い。
だが、若いからこそ勢いで崩れぬよう、自らを抑えている。
その抑制が、今の長政の強さであった。
*
毛利本陣。
粟屋元親は状況報告を聞き終えると、
しばし黙って顎を撫でた。
「強いな。
噂以上だ。
この兵差でいて、なお予断を許さぬか」
福原貞俊もまた、前線の押し返しを見て頷く。
「うむ。
一向に崩れる気配がありませんな。
元春様があの男の首を所望されたのも、
納得行くというもの」
ここで粟屋の目が変わる。
武の将から策の将の顔になる。
「ならば手足をもいでいくまでよ」
伝令を呼びつける。
声は低いが、内容は苛烈であった。
「国人全軍に伝えよ。
鬼兜首を討て」
伝令が顔を上げる。
粟屋は続けた。
「鬼兜首は一つ首で二つ首の価値を与える。
一鬼討てば十貫の褒美と心得よ。
二鬼討てば良馬、武具、好きなものをくれてやるぞ」
その場の者たちが意味を理解する。
鬼兵は芋粥軍の象徴である。
あれを討ち取れば、ただの首級ではない。
武勇の証となる。
国人どもにとっては、銭にも名にもなる話であった。
伝令が飛んだ。
粟屋は、この状況で最も効果のある一手を選んでいた。
国人は忠義で動かぬ。
利で動く。
功で動く。
では、その功を目の前に吊るせばよい。
密集陣は強い。
だが、その強さの中核にある鬼兵そのものへ欲を向けさせれば、
戦の質が変わる。
この一言は、芋粥を地獄へ引きずり込むに足る。
前線の国人たちは、ただ押し寄せる兵ではなくなる。
鬼兵の首そのものを狙う、
獲物を狙う肉食獣へと変わっていく。
数の波が、欲に染まる。
その時、芋粥にとって、戦場はさらに苛烈になる。




