第百五十四話 挟撃戦
飾磨の海沿いの狭道において、
両軍は睨み合ったまま動かなかった。
一日、二日ではない。
十日近くが過ぎようとしている。
潮は満ち引きを繰り返し、風向きも幾度となく変わったが、
戦の形だけが変わらない。
矢も飛ばず、槍も交わらぬまま、
互いに間合いだけを測り続けていた。
だが、この停滞は偶然ではない。
双方が意図して作り出した均衡であった。
陣幕の内で、長政が静かに口を開く。
「義父上、動きがありませんな。
もう年が暮れようとしています。
ここまで来て、毛利は踏み込んできませぬ」
その言葉に、秀政は外の海鳴りを聞きながら応じた。
「攻めあぐねているのだろう。
未知の敵に対しては、まず情報を集め、
形を整えてから動く。
粟屋の性分としては、むしろ正しい」
断じた上で、すぐに次を置く。
「だが、それでよい。
攻めてきておいて、こちらに臆して動けぬとなれば、
播磨の国人はついて来ぬ。
戦は強さを見せる場だ。
動かぬ強さは、外からは弱さに見える」
長政がわずかに目を細める。
「……国人どもが毛利から離れると?」
「離れる。
いや、いや離されると言うべきか。
勝ち馬に乗る連中は、確実な勝ちを見てから寄る。
曖昧な均衡では羽柴に有利だ」
言葉は続く。
「その間に、秀吉は官兵衛を使って国人を切り崩していく。
“どちらが勝つか分からぬ”状態を維持するだけで、
毛利に寄る理由は薄れていく」
長政はその構図を理解する。
「義父上は、それを待っていたのですか」
「そうだ」
即答であった。
「戦わずして敵が弱るなら、それが最上だ。
こちらは最後に止めを刺すだけでよい。
血を流すのは、その時だけで足りる」
戦を手段として扱う者の、冷徹な結論である。
*
その均衡が、崩れた。
方々へ放っていた伊賀忍びが、
一斉に帰還し始めたのである。
しかも一人二人ではない。
複数が同時に戻る。
すなわち、単発ではない“面の動き”が生じた証であった。
秀政はすぐに顔を上げる。
「ふむ……動きがあったか」
忍びが膝をつき、
息を整える間も惜しんで報告を放つ。
「申し上げます。
中立を保っていた播磨の国人ども、
毛利の檄に応じて兵を挙げました」
秀政の視線が鋭くなる。
「詳細は?」
「西方の国人、総勢千五百。
東方の国人、総勢二千。
合わせて三千五百にございます」
一瞬の沈黙。
だが、その沈黙は思考の停止ではない。
計算である。
秀政は即座に結論を出した。
「……背後にも二千か」
長政が息を呑む。
「背後……?」
「東の二千は、そのまま姫路へ向かう。
我らの背後を抜け、秀吉の姫路を直接叩く腹だ。
前面の粟屋に加えて、背後からも圧をかける――
我らを誘っているともいえる」
長政が問う。
「どうされますか。
兵を割いて迎撃を?」
秀政は即座に首を振った。
「分けぬ。
相手の方が兵が多いのだ。そのような余裕はない。
兵を割った時点で芋粥の負けだ」
断定である。
「後背の二千は姫路を囲う。
だが秀吉なら、それくらいは退ける。
姫路は易い城ではない。
そして秀吉は強い将だ。
半端な勢いで囲めば返り討ちに遭うのは明白だ」
長政は一歩踏み込む。
「……信じておられますね」
「あいつのことはよく知っている」
迷いはない。
「秀吉が我らを呼んだのは、
もっと意味がある戦いのためのはずだ。
ならば、こちらも役目を果たす。
我らは目前の敵を叩く」
言葉を重ねる。
「前面は粟屋三千に国人千五百。
合わせて四千五百。
これを狭道で受ける」
長政が静かに言った。
「倍以上……」
だが秀政は揺れない。
「この地形がある。
数は活きぬ。
横に広がれぬ以上、前に立てる数は限られる。
倍だろうが三倍だろうが、意味は薄い」
さらに一報が飛び込んできた。
別の忍びが駆け込み、そのまま膝をつく。
「申し上げます!
粟屋の軍勢、前進を開始しました!」
秀政の口元がわずかに歪む。
「来たか」
一拍も置かずに、続ける。
「我らがここを離れ、後背の二千を狙わぬよう、
足止めに出たな。
こちらを釘付けにし、その間に姫路を叩く――
よくできた形だ」
分析は即座に終わる。
だが、次の言葉はそれを否定する。
「だが、俺は後ろの二千を狙わぬ」
長政が視線を向ける。
「……あいつなら勝手に撃退する」
その一言で終わる。
迷いはない。だからこそ、決断は早い。
長政が槍に手をかける。
「では――全力で前面の四千五百を討つ」
「そうだ」
秀政は立ち上がる。
扇を開き、ゆっくりと閉じた。
「全軍に伝えよ。
ここが戦場だ」
声が低く、しかし確実に届く。
「粟屋の軍を迎え撃つ。
狭道にて止め、崩し、押し返す。
――意地を見せよ。一歩も退くな」
外ではすでに太鼓が打たれ始めていた。
潮騒に混じって、戦の音が立ち上がる。
ついに均衡が破られた。
前面四千五百、背後二千。
ついに戦場が動いた。
秀政は前を見据えたまま、静かに息を吸う。
「国人が主力であれば、数の差はさほど重要ではない」
次の言葉は、断定であった。
「質の違いを見せてやろう!」
芋粥軍が動き出した。
*
粟屋の陣。
福原貞俊が、陣幕の外に並ぶ兵の列を見やりながら呟いた。
「元春様が、まさか姫路城よりも、
一人の首をご所望とはな」
その声に、粟屋元親は地図から目を離さず応じる。
「隆景様のご意見も入っているとのこと。
御兄弟が揃って下された御判断だ。
万に一つの誤りもあるまい」
断定であった。
福原は腕を組み、わずかに眉を寄せる。
「しかし、元春様は新たに五千の国人へ檄を飛ばされた。
だが、集まったのは三千五百。
小寺の調略が思ったよりも効いておる」
粟屋はそこで初めて顔を上げる。
「それでも十分だ。
芋粥という男、織田の昇り龍の一角と聞く。
ここでその首を取れば、播磨における織田の勢いは断たれる」
静かに続けた。
「城は後でいくらでも取れる。
だが、将は違う。
取れる機会は限られる。
それが御兄弟の意図であろうよ」
福原が頷く。
「さて、その昇り龍とやらはどう出るか」
粟屋は口元を僅かに歪めた。
「姫路を気にして背を見せれば、それまでの男だ。
その時は背後から首を掻き切るまで」
さらに続ける。
「こちらに向かって来るならば、
まずは押さえて時間を稼ぐ。
包囲が整った時点で勝ちだ」
福原が低く笑う。
「まさか自らの首が、
第一に狙われているとは思うまいな」
粟屋は軍配を握り、ゆっくりと掲げた。
「かかれ」
その一声で、新たに千五百を加えた毛利四千五百が、
一斉に動き出す。
狭道に、重い足音が満ちた。
*
芋粥本陣。
前線の動きを見た秀政は、即座に指示を下す。
「長政、前に出よ。
左の丘にいる鷺山と連携し、防御を固める。
正面を止めろ。
背後を意識するな。
ここは耐える場だ」
長政は槍を握り直す。
「はっ」
迷いはない。
赤鬼兵が前へ出る。
青鬼兵が丘を抑える。
これにより鬼兵の死角はない。
二つの精鋭が嚙み合い、狭道に壁を築く。
毛利方の先鋒――播磨国人が突撃する。
だが、崩れぬ。
槍が弾かれ、押し返される。
踏み込めば間合いを詰められ、即座に斬られる。
統制の取れぬ国人衆にとって、
鬼兵の連携は“壁”であった。
押せば崩れる相手ではない。
崩れぬまま、削られていく。
死体だけが前に積み上がる。
秀政はその様子を見て、小さく息を吐く。
「……想定通りだ」
その時だった。
陣幕の外が騒がしくなる。
血相を変えた伊賀忍びが飛び込んできた。
「申し上げます!
一大事にございます!」
秀政の視線が一気に鋭くなる。
「申せ」
「新たに挙兵した東の播磨国人二千、
姫路へは向かわず――
こちらへ、全速で急行しております!」
一瞬、場の空気が凍る。
秀政の思考が高速で回る。
「な、何故だ?!」
(姫路を捨てた?
違う。狙いを変えたか)
次の瞬間、結論に至る。
毛利はまさかの――
姫路よりもこの首に価値を置いた。
そこまで自分の名が売れているとは思いもよらず、
理解しがたい行動だった。
「狙いは我らか!
……まずい」
声が低く落ちた。
「挟撃されるぞ」
秀政は即座に判断を下す。
「全軍、この場から離脱――」
だが、言い切る前に忍びが首を振った。
「間に合いませぬ。
すでに戦は始まっております。
この状態での離脱は不可能にございます」
さらに続ける。
「ここまで密に前線が戦った状態で、無理に退くのであれば、
殿が必要です」
意味は明白だった。
誰かが残り、全軍を逃がす。
そして、その者は帰らぬ。
秀政の歯が軋む。
「ならん……」
即座に否定する。
「この状況での殿は死だ。
無駄死にだ」
一瞬だけ、逡巡。
だが、次の瞬間には切り替えている。
「……ならば戦う」
結論は早い。
「ここで耐えるぞ。
国人どもが死を恐れて足を止めるまで斬り続ける」
そのまま矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「小母衣衆、伝令を走らせよ!
粟屋は曲者だ。青鬼で止めろ。
あいつと渡り合えるのは鷺山のみだ。
赤鬼は即座に反転。
後背の二千を叩け。
前後同時に削る。
――根競べだ」
伝令が散る。
「村瀬、お前も赤鬼と共に行け。
俺はいい。長政を守ってくれ」
村瀬の目を冷たく光る。
「承知」
*
伝令が届く。
鷺山はすぐに理解した。
長政も同じである。
それ以上の言葉は不要だった。
青鬼兵が前面に残り、
毛利本隊の圧倒的な圧を受け止める。
波状攻撃。
数で押す戦。
それを力で止める。
一方――
長政は馬首を返した。
赤鬼兵が一斉に反転する。
後背より迫る二千の国人。
それを迎え撃つために。
狭道の中で、戦場が二つに割れた。
前に四千五百。
後ろに二千。
挟まれた兵は千五百。
だが、秀政は焦りを隠す。
ここで大将が折れたら終わりだ。
大声で叫ぶ。
「皆の衆!よく考えてもみろ!
一人が三人斬れば良いのだ。
お前達普段やっている事だ!
小母衣衆、
鬼兵は一人が、最低でも三人斬れと伝えよ!」
誰にも聞かれぬよう静かに呟く。
「量に勝る暴力はない。質にも限界はある……」
次の瞬間――
芋粥軍は二方向へ同時に噛みついた。
挟撃戦が、幕を開けた。




