第百四十九話 花隈奪還の設計
第十章 伊勢太守編(転戦編)開幕
六甲山地。
山霧が低く垂れ込め、視界を奪う白の中に、
痩せ細った兵の列があった。
鎧は傷み、布は裂け、槍の穂先すら欠けている者も少なくない。
その中に、ただ一つだけ異質なものがある。
芋粥の軍旗であった。
山道の上からそれを見た瞬間、佐久間信盛は立ち上がる。
だがその動きは鈍く、疲労が骨の芯まで染みていることを隠せていない。
秀政は馬を降りた。
あえて、である。
騎乗したまま見下ろせば、それだけで主従が決まる。
ここで必要なのは上下ではない。
“同じ高さに立つこと”であった。
「佐久間殿。
よくぞ六百を保たれた。
この状況で軍を崩さぬ者が、他におりましょうか」
その言葉に、佐久間信盛の背筋がわずかに震える。
敗軍の将にかける言葉ではない。
それは戦場を預かる者に対する評価であり、
同時に“まだ終わっていない”という宣告でもあった。
「……面目次第もない。
だが、花隈だけは……
花隈だけは……!」
声がかすれる。
それは敗北の悔しさだけではない。
家を失う恐怖と、
ここで終われば全てが潰えるという現実が混ざっている。
秀政は間を置かずに応じる。
「ならば、取り返しましょう。
花隈奪還の総大将は、
佐久間右衛門尉殿。
我らはその助力を惜しみませぬ」
佐久間信盛の目が大きく開かれた。
「儂が……総大将?」
「花隈は佐久間家の城。
奪われたならば、取り返すのも佐久間家の役目。
その誉れを、我らが奪うわけには参りません」
この一言で、場の空気が変わる。
六百の兵は敗走続きで誇りを失っていた。
だが今、彼らは“落ち武者”ではなく、
“奪還の主役”として扱われている。
秀政は手を上げる。
運ばれてきたのは、真新しい具足と陣羽織であった。
「佐久間殿の甲冑に比べれば格が落ちまするが、
よろしければこれを着てくだされ。
泥は総大将に似合いませぬ」
佐久間信盛の目が潤む。
「……かたじけない」
この具足は郡山城に残されていた筒井一門のもの。
価値はあるが、置いてくれば織田に返すべきもの。
つまり芋粥にとっては損はない。
だが、効果は絶大である。
さらに続けて五百領の具足と刀槍五百振りが並べられる。
これもまた筒井の武具庫から持ち出したもの。
農兵に着せて運ばせていた、いわば“余剰物資”である。
しかし――
それを受け取る側にとっては違う。
今まで身につけていたものより明らかに良い。
そして何より、“戦うに値する装い”であった。
敗走続きの六百に、明確に“誇り”が戻る。
佐久間信盛は地に手をついた。
「芋粥殿、感謝致す。
これで落ち武者衆と思われずに済む」
「佐久間殿。
総大将は前を見据えてくだされ。
我らは先駆けとして城を落とす用意もございます」
その言葉に、佐久間信盛は即座に首を振る。
「待たれい!
ここまでやっていただいた上に城まで取らせたとあらば、
佐久間の名が泣く。
芋粥殿は後詰を頼む。
佐久間の牙はまだ折れてはおらぬことを見せましょうぞ」
この反応こそが、秀政の狙いであった。
「承知しました。
城攻めはお任せ致します。
ですがくれぐれも無理はなさらずに、
何なりとお申し付け下され」
「……この恩、必ず返す。
花隈にて、佐久間の名、
必ず立ててみせる!」
秀政は静かに頷く。
芋粥が持ち込んだ米を久しぶりに腹いっぱい食べた佐久間軍は、
少し元気を取り戻し、そのまま先行する。
残されたのは、秀政と長政のみ。
長政が問う。
「義父上……よろしいのですか?
総大将を譲り、
あそこまで与えてしまって。
佐久間様が城を取れば、
芋粥の功は薄れます。
遥々来た甲斐がございません」
秀政は即座に否定する。
「長政。
此度の戦は誰が主役かでは決まらん。
誰が“舞台を作ったか”で決まるのだ」
「舞台……」
「佐久間は敗将だ。
花隈を取り戻しても、それだけでは功にならん。
そもそもこの戦いで功が認められるかどうかもわからん。
だが、そこに我らが現れ、
戦える状態を作った。
この勝ちは誰が作ったか。
家中の者は見誤らぬ」
ここで一度言葉を切る。
「それにだ。
佐久間殿は明確に恩を受けた。
この状況で我らが来なければ、
餓死して終わりだった。
その認識がある以上、仇で返すことはない。
特に佐久間殿のような自尊心の強い方は、
世間体というものがあるからな」
長政は頷く。
「なるほど」
秀政はさらに踏み込む。
「そしてもう一つ。
我らがここに来た理由を考えよ」
「……大和から離脱するため」
「そうだ。
つまり、花隈で消耗する必要はない。
鬼兵を減らす理由がどこにもない」
長政の目が細まる。
「まさか……」
「そのまさかだ。
甲冑と武具を与えたのは、
佐久間に戦わせるためだ。
戦う準備を整え、侍の誇りを取り戻させた。
総大将として持ち上げられた。
ここで前に出ぬなら武士ではない」
長政は静かに息を吐く。
「……黙して戦わせましたか」
「そうだ。これも政治だ」
秀政は結論を明確にする。
「佐久間が落とせばそれでよし。
落とせぬなら我らが取る。
だが最良は――
我らがほぼ戦わずして、
勝ちの構図だけを持ち帰ることだ」
「佐久間様も気の毒に……」
「餓死するよりはましだ」
結論は動かない。
*
夜明け前。花隈城。
佐久間軍は正面に布陣する。
六百の兵は痩せているが、目は燃えている。
秀政は本陣に入り、明確に戦術を提示する。
「佐久間殿、策がございます」
「策?」
「さすがの佐久間の強兵をもってしても、
正面からの戦闘は厳しうございます。
そこで――
我らが搦手門を破壊致します」
ここを明確に断定する。
「搦手門は山側にあり守備が薄い」
佐久間信盛が即座に理解する。
「敵を裏に引き寄せるか」
「その通りです。
裏門が破られれば、
守備兵は必ずそちらへ主力を動かす。
城というものは門を一つ破られただけで、
全体の防御線が崩れる」
さらに踏み込む。
「その瞬間に、正面は手薄になります。
そこを佐久間殿が正面から正々堂々突き崩す。
二の丸、本丸と一気に抜く」
「前後から揺さぶるのだな」
「はい。
裏門破壊の音を合図に、
力攻めで押し切りましょう」
佐久間信盛は深く頷いた。
*
秀政は裏手の山中に鬼兵を潜ませ、
裏門破壊の合図を待つ。
佐久間信盛は馬上で采配を握りしめる。
「花隈は我らの城だ!
奪われた恥はここで返す!
――名乗りを上げよ!」
佐久間軍の声が山に反響する。
城内がざわつく。
「佐久間だと……?
まだ生きていたのか……」
*
搦手側。
佐久間の挑発に目を奪われている隙に、
伊賀忍びが静かに動く。
門に火薬を仕掛け、導火に火を入れる。
――爆ぜる。
搦手門が吹き飛ぶ。
敵兵を仕留めた後、秀政は動かない。
「主役は佐久間だ。
進まずともよい、騒ぐだけ騒げ!
敵が来たらいなせ」
鬼兵は門周辺だけを制圧し、深入りしない。
代わりに大声で騒ぎ、敵の注意を引きつける。
守備兵は統制を失い、裏門へ殺到する。
混成軍には致命的な誘導であった。
*
「裏が開いた!
今こそ奪還の刻!
――突入せよ!!」
佐久間の六百が一斉に走る。
新品の武具――
それだけで士気は別物になる。
佐久間信盛は先頭で槍を振るう。
「退くな!
ここで退けば佐久間家は終わる!
我に続けぇ!!」
六百が吠え、死に物狂いで槍を奮う。
敵は裏門からの混乱で隊列が崩れ、
正面からの佐久間軍の突撃に耐えられない。
二の丸。
本丸。
一気に崩す。
佐久間信盛は血に濡れた槍を構え、
最後の守備兵を突き倒す。
「花隈、奪還!!
佐久間家ここに在り!!」
歓声が上がる。
*
搦手では芋粥兵が静観していた。
時折逃げ出してくる敗残兵を容赦なく討ち取っていった。
秀政は天守を見上げる。
誰が勝ったかは明白。
だが――
誰が勝たせたかもまた明白であった。
「これでいい」
長政はその意味を理解している。
「……これが政治」
鷺山は肩をすくめる。
「つまらん戦いでした。
さぁ、帰りましょうか」
「待て待て、今帰ればすぐに奪い返される。
それこそ無駄だ。
もう少しだけ面倒を見てやるぞ」




