第百二十二話 約の重み
天正二年十一月上旬。
志摩・鳥羽沖。
潮の匂いが濃い。
荒い波に揺れる船団の中央、
黒塗りの大船が静かに構えていた。
九鬼の本船。
長政と竹内は、白子水軍の小舟でそれに向かう。
櫂の音だけが響く。
竹内が小さく息を吐いた。
「……重いですね」
長政は海を見たまま答えない。
ただ一度、ゆっくりと頷いた。
やがて船腹に着く。
縄梯子が降ろされる。
見上げると、無数の視線。
値踏み。
試し。
その全てが降り注いでいた。
竹内が一歩引く。
「どうぞ」
長政は迷わず登る。
甲板に立った瞬間、
空気が変わる。
中央に一人、
腕を組んだ男。
九鬼の当主、九鬼嘉隆。
「……芋粥の使いか」
低い声。
長政が膝を頭を下げる。
「芋粥万太郎です」
竹内も続く。
「竹内小四郎にございます。
芋粥の使いとして参りました」
九鬼の視線が竹内に向く。
「口はお前か」
「はい」
「なら話せ」
竹内が一歩だけ前に出る。
「此度、芋粥は鳥羽を攻めます。
その上でお願いがございます。
九鬼殿には中立を保っていただきたい」
九鬼は動かない。
ただ見ている。
竹内は間を置かず言葉を重ねる。
「我らは三つ、約を持って参りました。
芋粥本城の白子湊との交易を保証いたします。
鳥羽陥落後の海上通行税を優遇いたします。
そして――
九鬼の船を、一隻たりとも沈めぬと誓います」
静まり返る。
九鬼の目が細くなる。
「……ほう」
低く、吐き捨てるように。
「都合が良すぎるな」
竹内は動かない。
「利が一致しております」
「一致だと?」
九鬼の声に棘が混じる。
「志摩は海の国。
どちらかに肩入れすれば、
もう片方を敵に回す。
それは利ではありません」
一歩、踏み込む。
「ゆえに中立が最も利にございます。
そして今、芋粥はそれを保証できる位置におります」
九鬼は理解していた。
どちらかに肩入れすれば、もう片方を敵に回す。
そして今、織田は押している。
軽く扱える相手ではない。
(……本来なら、従属を迫られる場だ)
だが差し出されたのは――中立。
利もある。
だが、安くは飲めぬ。
九鬼は鼻で笑った。
「保証、か」
一歩、前に出る。
圧が増す。
九鬼が吐き捨てる。
「そんな約束が信じられると思うか。
鳥羽を落とした後、牙を剥かぬと?」
空気が張り詰める。
竹内が言葉を継ごうとした、その時。
「その約定は――」
長政が口を開いた。
竹内が半歩、下がる。
長政が一歩、前に出る。
「私が受け持つ」
九鬼の視線が刺さる。
長政は真正面から受ける。
「私は芋粥秀政が嫡子、
芋粥家の世継ぎたる芋粥万太郎長政」
あえて一拍おく。
「我が約定は――」
さらに一歩、踏み込む。
「義父、秀政が立てる約と同じ重みを持つ」
静まり返る甲板。
「それを知れ」
短く、力強く言い切る。
誰も動かない。
九鬼はじっと長政を見ている。
測るように。
削るように。
やがて。
「……若いな」
ぽつりと。
だが、その声に先ほどの軽さはない。
長政は答える。
「若さは変えられませぬ」
じっと九鬼の目を見つめる。
「だが、約の重さは変えぬ」
九鬼の目がわずかに動く。
「破ればどうする」
「その時は」
迷いなく。
「芋粥の名をもって、償います」
沈黙。
重い沈黙。
九鬼がゆっくりと歩み寄る。
長政の前で止まる。
「御当主の言葉と同じと言うたな。
その重さ――
分かっておるのか?」
「もちろんだ。
これは芋粥家が背負う言葉である!」
即答。
その場の空気が凍る。
九鬼はしばらく黙り――
ふっと息を吐いた。
「……なるほど」
一歩下がる。
「口だけではないか」
竹内を一瞥し、
再び長政を見る。
「顔が来たか」
わずかに笑う。
「面白い」
だが、すぐに表情を消す。
「だがな」
声が低くなる。
「海は甘くない」
「承知しております」
「約は、破れば終わりだ」
「はい」
沈黙。
そして、九鬼が口を開いた。
「……考える」
短く言い放つ。
「今日は下がられよ」
長政が引き下がらない。
語調を強める。
腹の底から声を出す。
そこに一切の怯えも震えもない。
芋粥を背負う声。
「今、ここで返答されよ。
難しい話ではあるまい。
既に心では決まっておられよう。
引き延ばす必要があろうか。
先ほども申した通り、
これは芋粥家の言葉である。
その重みを理解しておられぬのは、
九鬼殿の方ではないか?」
九鬼の目をしっかりと長政が見つめる。
遂に九鬼嘉隆が目を反らした。
「確かに。
貴殿の言葉を軽く扱うわけには参らぬな。
中立を保とう。
これも九鬼嘉隆の言葉である。
備前守様にも、そうお伝え願おう」
「承知いたしました。
共に約定違えぬことを!」
長政が深く礼をする。
竹内も続いた。
そのまま、二人は背を向けた。
視線を背に受けながら、ゆっくりと退く。
縄梯子を降り、小舟へ戻る。
九鬼嘉隆はそこで小さく呟いた。
「鬼の子は既に鬼か」
*
海に出て、ようやく。
竹内が大きく息を吐いた。
「……やりましたね。
本当に海賊みたいな奴らでした」
長政はまだ前を見ている。
「あぁ、なんとか勤めを果たした」
「いや、ご立派でしたよ。
私は不要でしたな」
竹内が苦笑する。
長政は黙ったまま、鈴鹿の方を向いた。
小舟は波を切り、
静かに離れていった。
*
同十一月中旬。
鳥羽砦。
北畠領ではあるが、志摩の国衆・橘宗忠が守っていた。
海上補給に依存する、脆い拠点。
橘の兵は三百足らず。
北畠からの援軍二百を加えても、五百に満たぬ。
だが――
海がある限り、落ちぬ。
そう思われていた砦であった。
*
山賊に化けた鷺山が、山間から砦を見下ろす。
潮風が頬を撫でる。
煙の匂い。魚の匂い。
「……なるほどな」
小さく呟く。
「海側の裏門、小さい上に見張りも薄い。
水軍が出払えば、砦は丸裸か」
視線を動かす。
陸側の狭い山道。
「こちらは……通れる」
さらに目を細める。
板壁、白く乾いた木肌。
「潮風で乾いている。
……火がよく回るな」
指で顎を撫でる。
「白子水軍で北畠水軍を釣り出せば――
砦は空く。
まずは、これだな」
鷺山は志摩の方角を睨んだ。
「九鬼水軍は、若殿が押さえてくれる」
わずかに口元が歪む。
「ならば、海は敵にならぬ」
顔を上げてにやりと笑う。
「策は成った」
*
鷺山が松ヶ島城へ戻ると、早馬が既に到着していた。
九鬼――中立。
「よし」
短く、だが確信の声。
すぐに上座に座り、与力たちを集める。
「砦は見てきた。策を伝える」
空気が締まる。
「白子水軍を、あえて鳥羽沖へ近づける。
北畠水軍は必ず出るだろう」
援軍の白子甚右衛門を見る。
「そこで逃げる」
白子が驚いた顔をする。
だが鷺山は続ける。
「逃げるふりで北へ退け。
奴らは追う。
追わねば、海の利を失うからな」
日根野が頷く。
「……確かに」
「その間に俺の本隊が動く」
地図を指で叩く。
「陸からだ」
さらに一歩踏み込む。
「海側に補給用の小さな裏門がある。
守りは薄い。
そこへ小舟で忍び寄る。
精鋭十人を漁師のふりをさせてな。
鎧も着こまん。弓と刀を船底に隠す」
にやりと笑う。
「近づいていきなり門番を矢で射落とす。
補給のために、昼は門が開いておった。
そこから十人で突入じゃ。
持ち込んだ松明で兵糧庫に火を放て。
よう燃えるぞ。
漁師の恰好じゃ。
身軽ゆえに方々に火を放ったら、
脱兎のごとく逃げ去るのじゃ。
はっはっは。脱兎じゃ!」
皆が息を呑む。
「海砦は火に弱い。
潮風で乾いた板は、一気に燃える」
日根野が低く笑う。
「逃げ場がなくなりますな」
「そうだ」
鷺山も笑う。
「海は白子が押さえる。
陸は俺が押さえる。
内は火で乱す」
一拍。
「三つ揃えば――
砦は落ちる」
静まり返る。
そして、日根野が言った。
「思い出しまする。
……道三入道様の戦です」
「そうよ!これが蝮の再来よ!」
その目に、狂気が宿る。
「火の手が上がれば、白子水軍は反転。
海からも押す」
指で空を切る。
「北畠水軍は――
城が燃え、
陸から突かれ、
海からも追われる。
三方だ」
低く、言い切る。
「耐えられるか?」
誰も答えない。
答えは決まっている。
「……潰れる」
鷺山が立ち上がる。
「行くぞ」
「はっ!」
*
波は静かだった。
小舟が、音もなく砦へ寄る。
裏門。
見張りは二人。
漁をする振りをしながら近づく。
瞬時に矢を持ち、狙い、放つ。
鷺山が鍛え抜いた精鋭だ。
声を上げる間もなく――
倒れる。
船から降り、門をくぐる。
精鋭たちが突入する。
火が入る。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて――
炎が上がる。
「火だ!!」
叫び。
混乱。
「かかれ!!」
鷺山の声が響く。
陸から兵が襲いかかる。
内と外から同時に崩れる。
そして、海。
「戻れ!!」
白子水軍が反転する。
北畠水軍は気づくが、遅すぎる。
城は燃えている。
陸は破られている。
海も塞がれる。
「退け!!」
その声はもう遅い。
*
鳥羽は落ちた。
まさに、鷺山の掌の上で。




