第百二十一話 鷺山、覚醒
稲生館の奥。
湿りを帯びた壁。黒ずんだ柱。
鼻につくかび臭さが、
古びた空気を物語っている。
粗末な机の上に広げられたのは、
志摩と鳥羽の地図。
灯りは油皿が一つ。
その揺れる火の中で、秀政と鷺山、
ただ二人だけが向かい合っていた。
秀政が地図の一点を指で押さえる。
「……鳥羽か」
鷺山は膝をつき、静かに頭を下げる。
「は。
鳥羽は、この開発を成功させるために、
必ず押さえるべき地にございます。
鳥羽を押さえれば、
三千から五千石に匹敵する価値を得られます。
鳥羽そのものの石高は五百石にも満たぬでしょう。
ですが――
海産物で二千石。
塩で千石。
海上通行税と湊の商いで三百貫。
合わせて、小国一つ分にございます」
秀政はゆっくりと頷いた。
(……鷺山、こいつは戦以外にも政略感覚も持っていたか。
道三、義龍の血は侮れんな)
「農地の少ない港町でありながら、
石高換算では小国並み――
鳥羽は、そういう“異形の拠点”か。
良い所に目を付けたな、鷺山。
お前は戦だけの男ではないな」
「な、なにを仰いますか。
俺など、まだまだでございます」
頭を掻くその仕草は若い。
だが、その目の奥には、
確かな光が宿っている。
秀政は静かに続けた。
「海産物を押さえれば、市場が動く。
食が安定すれば、人が増える。
そして――
塩だ。
塩を握る者は、戦を握る」
鷺山は深く頷く。
「それに加えて、もう一つございます。
志摩にございます。
鳥羽を落とせば志摩は孤立します。
志摩は海の民。陸からの圧には極めて弱い。
つまり――
鳥羽を落とした時点で、
志摩は芋粥に従います」
秀政は一瞬、目を見開くと、しばし黙った。
油皿の火が揺れる。
(……正しい。
こいつ、ここまで読めるか)
「鳥羽を失えば、志摩の流通は止まる。
塩も売れぬ。税も立たぬ。
ならば選ぶ道は一つ。
戦うより、従う。
鷺山、お前が言いたいのはそういうことか?」
「は」
短く、だが確信のこもった返事。
鷺山はさらに踏み込む。
「九鬼が懸念かと存じますが、
実は九鬼は北畠の家臣ではございません。
利で動く海の商人衆にございます。
勝つ側に付くのが最も儲かる。
芋粥が鳥羽を落とせば、
九鬼も従います」
秀政は息を吐いた。
そしてゆっくりと続ける。
「完全に縛る必要はない。
半ば独立を許した従属でよい。
それでも――
志摩から得られる利は莫大だ」
一拍。
「……四千石はある」
空気が張り詰める。
秀政は顔を上げた。
「他にも利点はある。
鳥羽、志摩の民が鈴鹿に移住してくれれば、
白子の湊はさらに栄える。
鳥羽は欲しい。
落とす算段はあるか」
鷺山の口元がわずかに歪む。
「ございます。
兵二千と白子水軍をお貸しいただければ、
必ずや勝ちます。
祖父、道三譲りの知略にて。
まず九鬼を中立に縛ります。
三つの約定を交わします。
一つ、白子湊との交易権を保証。
二つ、鳥羽陥落後の海上通行税の優遇。
三つ、九鬼の船を一隻も沈めぬと誓約。
この三つ、いずれも重き約定にございます。
ゆえに、信を得られます」
秀政は即答した。
「よい。
いずれにせよ、
志摩を取る際に必要となる約定だ。
今与えたとしても、
こちらに損はない。
九鬼を押さえれば、
海の脅威は消える」
鷺山はさらに一歩踏み出す。
「その後は――
騙し、誘い、崩し、焼く。
俺の戦で終わらせます」
その言葉に、若さと狂気が混じる。
秀政はゆっくりと立ち上がった。
「よかろう。
兵を与える。
鳥羽攻めの総大将を任せる」
鷺山の背筋が伸びる。
「は!」
「九鬼の調略は誰がやる?」
「長政様にございます。
交渉自体は竹内にやらせます。
ですが、約定の重みは若殿に背負わせる。
芋粥の若殿が背負う約束――それが効きます」
秀政は静かに頷いた。
「……よい策だ。
ほぼ成功が見えた交渉だ。
だが、重要な調略でもある。
長政にも良い学びとなろう。
それも採用する」
そして一歩、鷺山に近づく。
「鷺山」
「は!」
「これは戦ではない。
国を広げる仕事だ」
鷺山の目が変わる。
「……は」
秀政は言い切った。
「行け。
鳥羽を獲ってこい」
「ははっ!!」
*
鷺山が退出した後。
稲生館の小部屋には、再び静けさが戻った。
油皿の火が揺れる。
秀政は地図の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、低く言う。
「……長政と竹内を呼べ」
兵が一礼し、足早に去る。
間を置かず、長政と竹内が入室した。
二人とも、自然と背筋が伸びている。
この場の空気が、ただ事ではないと理解していた。
「長政、竹内」
「は」
「はっ」
秀政は二人を見据えたまま、すぐには口を開かなかった。
沈黙が落ちる。
わずかな時間だったが、二人には長く感じられた。
やがて。
「役目を与える」
短く、重い一言。
「これから鷺山が鳥羽を攻める。
志摩の九鬼への調略だ」
長政の喉がわずかに鳴る。
竹内の視線も一瞬だけ揺れた。
秀政は続ける。
「約定は三つ。
白子との交易を保証する。
通行税の優遇を与える。
そして――
九鬼の船を一隻も沈めぬと誓う」
一拍。
「いずれも軽い約束ではない」
視線が鋭くなる。
「これは単なる“伝言”ではない。
重き約定だ。
お前の言葉で説いてこい。
この約束をもって中立へと運べ。
寝返れとまで言う必要はない」
竹内が思わず息を詰める。
秀政は長政に目を向けた。
「長政」
「はっ」
「お前の初めての表舞台だ。
舐められるなよ」
一瞬、間が空く。
長政の拳がわずかに強張る。
秀政は続ける。
「竹内が口でまとめる。
それは分かっておる。
だがな」
机を指で、静かに叩く。
「それだけでは足りぬ」
油皿の火が揺れる。
「九鬼は海の商人だ。
利は見る。
だが、それ以上に“相手が約束を守るか”を見る。
ゆえにお前が出る」
長政の呼吸が一瞬止まる。
「芋粥の世継ぎが約定を背負う。
その姿を見せよ」
秀政の声が、さらに低くなる。
「これは軽い使いではない。
鳥羽攻めの成否は、
この調略にかかっている」
空気が張り詰める。
「九鬼が敵に回れば、海は使えぬ。
水軍は動かぬ。
鷺山の策は崩れる。
戦は長引き、損は膨らむ」
しばらく長政を見る。
「……分かるな」
「はっ……!」
長政の声に、わずかな震えが混じる。
秀政はそれを見逃さない。
だが、何も言わない。
ただ、続ける。
「失えば――
取り返しはつかぬ」
静かに言い切る。
「簡単ではないぞ」
その一言で、部屋の空気がさらに重くなる。
(現代ならまだ中学生だ。
酷なことを言っているのは知っている。
だがお前は大名の世継ぎ。
甘えが許されないんだ。
頑張れ、お前なら出来る)
続いて竹内を見る。
竹内が唾を飲み込む。
「竹内」
「はっ」
「お前の口は達者だ。
それは知っておる。
だがな」
わずかに間を置く。
「軽くするな」
竹内の背筋が伸びる。
「言葉は飾るな。
誤魔化すな。
重さを、そのまま出せ」
「は……!」
「長政」
「はっ!」
「お前は芋粥の“顔”だ。
芋粥の後継者として、
約定の重みを背負え。
軽く見せるな。
逃げるな。
目を逸らすな」
一歩、踏み込む。
「相手に、“この約束は違う”と思わせてこい」
沈黙。
張り詰めた沈黙。
秀政は最後に言った。
「信用を――
取りに行け」
長政が深く頭を下げる。
「はっ……!
必ずや、果たして参ります!」
竹内も続く。
「はっ。
命を懸けて、まとめて参ります」
秀政は短く頷いた。
「行け」
二人は一礼し、部屋を出た。
襖が閉まる。
廊下に出た瞬間、竹内が息を吐いた。
「……重いですね」
長政は前を向いたまま答える。
「うむ」
少し間を置く。
「だが――
それでよい」
拳を握る。
「俺は、芋粥の男だ」
竹内が苦笑する。
「じゃあ、俺はその若殿の舌になります」
「頼むぞ」
「任せてください」
二人は顔を見合わせ、頷く。
その足取りは重い。
だが――
逃げてはいなかった。




