第9話 刺繍地獄
(やっぱり……そう簡単なわけないのよね)
図案は完璧だった。“セルフィナの羽根”という名前からも、子どもたちの愛らしい姿からも、天使モチーフは間違いない。そう、モチーフは間違いないはずなのだけど……。
《イザベル、さっきから何してるの~?》
「刺繍よ」
《刺繍? 刺繍って、針を指にプスプス指すの? 痛くない?》
「……痛いけど。それは刺繍じゃなくて――。刺繍っていうのは、こうやって糸で絵を描くの」
《絵? この糸の塊を絵って言うんだ?》
「糸の……塊」
《え?》
イザベルの刺繍をマジマジ覗く《たすく》が、きょとんとイザベルに目を向けた。
刺繍に苦戦しているイザベルの全ての指には、傷テープが張られていた。
(悪意がないから、余計に辛いわ)
《悪意?》
「なんでもない。《たすく》は、気にしないで」
黙々と刺繍を続けるイザベルの肩に乗り、《たすく》は絵柄を眺めた。
《糸で絵を描くのか。イザベルはいま何描いているの?》
「なんだと思う?」
イザベルはまもなく完成しそうな天使の刺繍を《たすく》に見せた。
《クイズだね! 僕、正解しちゃうよ~。うーんと、それは……――》
《たすく》は、刺繍を近くでじぃっと見つめた。
《分かった! うさぎだ!》
《たすく》には天使の羽根が、うさぎの耳に見えたようだ。
「ちがう。外れ!」
《えー、じゃあ……おばけ? いや……雪、だるま? 鳥とか?》
一生懸命考える《たすく》の姿が、イザベルの心を抉っていた。
「そんなに……――分からない? モチーフが難しすぎたのかな」
《え? イザベル、ごめんねっ。落ち込まないでよ~》
不正解続きの解答に、落ち込むイザベルを《たすく》は慌てて慰めた。
「いいの。私の実力に問題があるだけだから……」
――イザベルは不器用だった。
しかも、実母を亡くした6歳の頃から、誰からも構われずに育った。貴族令嬢としての嗜みである刺繍のレッスンも、受けたことすらなかった。
(前世も刺繍なんかやってなかったしなあ……)
ガチャッ――。
ドリスはイザベルの横にお茶を置いた。音を立てたのはわざとなのだろう。
「そんな無駄なことをなさっていないで、旦那様のご指示に従った方が良いのではないですか?」
不細工なイザベルの刺繍を見て、ドリスは呆れたような顔で主人を見た。
「……お茶、ありがとう」
ルーファスに何かを言われてから、イザベルを放置していたドリスはこうして時折イザベルの面倒を見るようになっていた。
「レープ小公爵に怪しまれては動きにくいですから」
ドリスは無表情に、イザベルを見つめた。
『イザベル、小公爵に取り入って、軍事拠点の地図を手に入れて来てくれ』
戦闘狂と呼ばれた父は、ほとんどの時間を狂ったように戦場で暮らしていた。父とは親子らしい思い出はほとんどない。しかし、そんな父がイザベルの輿入れの際に、今回の“和平”目的の政略結婚の、ヴァルハルド帝国の真の目的を知らせた。
(前のイザベルは、そんな父からの願いをどうしても叶えたいと思ったのよね)
『期待している』という、父からの初めての言葉が愛に飢えたイザベルの心に呪いのように響いていた。
(ゲームでのイザベルは、ルーファス様からスパイを疑われていた。機密情報を盗もうとしたのがバレて婚約破棄をされるのに、家族からも祖国からも裏切られて処刑されるのよね……)
断頭台に置かれたゲームのイザベルの姿を思い出し、ゾクッと背筋が凍った。
《イザベル? 大丈夫?》
(大丈夫よ。ちょっと嫌なことを思い出しちゃっただけ……)
イザベルの顔を覗き込む《たすく》の姿が救いだった。
(私が目指しているのは、円満な婚約解消だもの。お父様の指示なんて、無視よ、無視。従ったところで、私を守ってくれる人は……)
「ドリスもセレフィード王国に渡って来たんだから、いつまでもお父さまの指示に従う必要なんてないのよ」
イザベルは再び刺繍の手を動かした。
「――……よくありません!」
ドリスはイザベルに鋭い視線を向けた。
侍女が主人に向けるものではない苛烈なものだった。
「旦那様の命に、反するおつもりですか?」
ドリスは子どもの頃からイザベルに仕える侍女だ。
継母と義妹に忠心を誓う彼女は、イザベルの侍女として相応しい存在だったのだろう。
必死なドリスの目を見て、イザベルは内心ため息をついた。
(ドリスに変な報告されても困るわ)
「あなただって見て分かるでしょう? ルーファス様は私を受け入れていないわ。そんなときに地図なんて手に入れられると思うの?」
「……――“男好きの女狐”とまで呼ばれたあなたなら、男性を手玉に取ることは容易いのでは?」
「あの小公爵は、女性が苦手なのよ? まずはルーファス様の妹君と親しくなって警戒を解くことが大切だわ」
ドリスとイザベルは、静かににらみ合った。
「……――あまり、悠長なことをなさっていると……旦那様も奥様も黙っておりません」
怒りなのか、不安なのか、ドリスの声が震えていることに気が付いた。
「分かっているわ」
《イザベル、ドリス、怖がっているよ》
(うん、分かっている)
ドリスの母は、イザベルに優しい乳母だった。
「ねえ、ドリス。アビーをこちらの国に連れて来るということも……――」
「半身不随の母を、ですか?」
ドリスの目が鋭く光った。ドリスがイザベルの細い腕を力強く握った。
「痛っ……」
カラン……。イザベルの手から、刺繍枠が落ちた。
《イザベル、僕、こいつやっつけるよ》
(いいの。《たすく》やめて。ダメよ)
《でも――》
「あなたにできることは、小公爵に取り入って、地図を手に入れることだけです」
イザベルが施していた刺繍をドリスは踏みつけた。
「こんなことを……――悠長にしている時間なんて、ありません」
そうイザベルを睨みつけたドリスは、自分が踏みつけた刺繍からそっと目を逸らした。
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