第45話 ヴァルハルドの女狐
――ヴァルハルドの女狐。
イザベルの悪名は、セルフィード王国でも知られていた。
しかし、実際のイザベルはあまりに事前情報と違い過ぎる――。
(あれは誰かが意図的に流した悪名だったということだろう……)
貴族社会では、噂による足の引っ張り合いはよくある。
イザベルのそれもその類だと思っていた。
(彼女は美しい――。漆黒の髪はオニキスを思わせる。萌黄色の瞳は、新緑の木漏れ日のような柔らかさは、穏やかな気持ちにさせる。しかし、彼女はその魅力をまるで理解していない……。あんな数センチの距離で、異性に顔を覗き込まれているというのに……)
ルーファスは、今日のハンスの無礼を思い出し、ムカムカとしていた。
(あれでは、まるで口づけの距離だ。ハンスに至っては、今回で二度目だというのに、イザベルは、偶然だとか、揶揄いだとか、まるで危機感がない)
ルーファスは先ほどのイザベルの様子に、苛立ちと不安とを抱えていた。
(気を付けるとは言っていたが……――)
「信用ならない」と、ルーファスは思っていた。
(この部屋で私がイザベルに顔を寄せたときだって……――)
ルーファスは、従順にまぶたを閉じたイザベルを思い出した。
まるでルーファスの口づけを待っているかのような様子に、ルーファスは理性を失いかけた。
(彼女の悪名は、本当に偽りのものなのだろうか)
最近、ルーファスはそんなことを考えてしまっていた。
父・バーレントの指示で、男を手玉に取っているという話もよく聞いた。
だから、イザベルが輿入れをすることに警戒した。
しかし、いまは――。
ルーファスは自分の警戒心がすっかり溶けていることに気付いた。
そして、それと同時に、それこそが彼女の――狙いなのではないかという不安も完全には消えていなかった。
(無意識に……あんな、顔しているとしたら――。私じゃなかったら、どうなっていると思っているんだ)
ルーファスは、ハァとため息をついた。
婚約式の誓いの際は、口づけをするのが一般的だ。
(しかし、私はそうしなかった。今ではそのことを本当に後悔している。やり直せるなら、婚約式からやり直したい)
それが叶わないことは分かっている。だから次なる挽回策としては――。
ルーファスは、イザベルの部屋に取りそろえたロマンス小説を思い浮かべた。
「お兄さま、お姉さまとの距離を縮めるにはコレを参考にすべきです!」
1つ年下の妹は、王太子の婚約者として申し分ない令嬢だ。
自身の身分や能力を奢らず、王太子妃教育を投げ出すことなく、自分を磨き続けている。身内びいきと思われるかもしれないが、妹の努力を間近で見ているとどうしても肩入れしてしまう。そして、そんな彼女が、ルーファスにロマンス小説を推薦してきた。
「イリーナ……。これは、ただの小説だろう。何を参考にするというんだ」
「お兄さまは、乙女心に少し疎いところがありますから!」
「乙女心って……」
「お姉さまだって、恋に恋する乙女です。政略結婚だろうが、なんだろうが、素敵な殿方との恋を求めているはずですわ」
「――……」
「それなのに、お兄さまったら、お姉さまにずいぶん失礼な態度を取られて……」
イリーナの指摘は反論のしようがなかった。
「お兄さまだってやり直そうと思われているから、お姉さまをこのお屋敷に呼んだのでは?」
鋭い指摘に、ルーファスは言葉を失っていた。
「そこまで決断されたのでしたら、もう少しこちらで乙女心を勉強すべきです!」
そう言ってイリーナに押し付けられたロマンス小説を、ルーファスは仕方なく捲った。
令嬢たちに人気だと言うロマンス小説は、どれも作り物のような男たちが甘い言葉を囁いていた。
(こんな男、いて溜まるか――。まさか、ディオンはこんなことを妹にしているんじゃないだろうな……)
ロマンス小説の男たちに毒づきながらも、ロマンス小説を何冊か読んだとき――。
まるで自分たちのことを書いているかのような設定の小説に出会った。
(政略結婚の二人が……恋に落ちる――)
ルーファスの心を動かしたのは、この小説に登場する男は少し恋に不器用だということだった。簡単に甘い言葉を囁き、当たり前のように女性を抱き寄せられる男たちとは違う。
(この小説なら……――)
気が付いたときには、ルーファスはイリーナが言う通り、ロマンス小説を恋愛指南としていた。プレゼントも、抱擁も――……。そして、これから訪れる口づけも――。
イザベルとの初めての口づけは、イザベルの思い出に残る最高のシチュエーションで行う。間違っても、自分の理性や欲に負けるなんてこと、あってはならない。そう考えてからは、イザベルとの初キスに相応しい場所を探し続けていた。
そんなルーファスの苦労を分かっているのか。
イザベルはハンスに口づけされそうになっているのに危機感がない。
ハンスだけじゃない、いつエリーアスが迫って来るかも分からないわけで……。
いつの間にか、イザベルに振り回されているルーファスは、一度は否定した悪名が真実だったのではないかと、時折考えていた。
(そういえば、公爵家の騎士を巻くというのも……そんな簡単にできるものか? 特別な訓練でも受けていたのだろうか……――)
ふと、そんな疑問が過ったが、イザベルを抱きしめたときの感触を思い出し、ルーファスは穏やかな気持ちになっていた。
(思った以上、柔らかで、細い身体……。抱きしめると甘い香りが鼻孔をくすぐる)
彼女が仮にスパイだったとして――。
自分は以前のような関係に戻ることができるだろうか。
その答えは、消せない胸の高鳴りが握っていた。
(ヴァルハルドの女狐でも構わない。悪女でも、スパイでもいい。ただ、彼女だけは誰にも渡したくない。私の傍にずっと置きたい。愛している、と囁いてみたい……)
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